夢見る魚
4、夢見る魚
尚吾と乃亜に案内され、家に足を踏み入れた拓海は靴を脱ぎ、用意されたルームシューズを履いて、ゆっくりと部屋を眺めた。
昔…この家へ遊びに来た時の記憶と随分と違う。十年も前の事だから当然だと、拓海は可笑しくなった。
印象は以前にもまして、より良く感じられた。
外観の洋式のままに、広々とした一階のすべてをリビングダイニングに割り当てたような吹き抜けの空間に、出窓やガラス窓も彩光の為に広く取られ、テラスの向こうに軒のあるウッドデッキが見える。
太い支柱の他に敷居はなく、細長い水槽が間を区切るように置かれている。水槽には、様々な熱帯魚が水草に絡みながらのんびりと泳いでいる。
良く磨かれた杉板のフローリングに、リビングには夏らしくイ草のカーペットが敷かれている。
何より目を惹くのが、ダイニングの六人掛けのテーブルと、リビングに置かれた三つの長ソファとカウチソファ。
尚吾と乃亜のふたり住まいのはずなのに、何故こんなに沢山の椅子が目立つのだろうと、拓海は頭を捻る。
尚吾と乃亜に目をやるとふたりはキッチンの冷蔵庫を開けて、なにやら話し込んでいる。
「料理は、もう用意できた?」
「うん。ビーフストロガノフと、サラダと…今、キッシュを焼いてるよ」
「そう、お疲れさま。そういや…兄貴たちは来るの?」
「うん、僕と尚吾の記念日だから、みんな来てくれるって」
「…(くそっ、面倒臭せええ…)そうか、じゃあ、もっと量を増やすもん作らなきゃ足りないだろうなあ。舞茸とシメジがあったから、それでパスタでも…。サーモンとタコか…。どうせあいつら飲んだくれるだろうから、つまみにカルパッチョでも…。で、デザートにチーズケーキと…。ああ、乃亜。食事の用意は俺がやるから、拓海を部屋へ案内してくれないか?」
「うん、わかった。じゃあ、拓海君、行こうか」
「あ、はい」
活き活きした様子でエプロンを腰に巻く尚吾に違和感はあるが、それさえなんとも絵になる様だ。もっと眺めたいと思ったが、乃亜の「こっちだよ」と言う笑顔にも逆らえず、拓海は乃亜の後に続き、階段を昇る。
階段を昇り、右は尚吾と乃亜の寝室、真ん中は尚吾の書斎、それに続く部屋が拓海の部屋だと説明され、乃亜がドアを開いて拓海を招いた。
「もう暗くなったね。灯りを点けるね」
部屋は拓海が思っていたよりも広く、三方に窓があり、風通しもいい。青いストライプのレースカーテンと揃いのベッドカバー。勉強机に肘置き付きの上等な椅子。
近づいてカーテンを開けると、黄昏に暗く静かに波打つ海が望めた。
「すごくいい部屋だけど、ホントにココ使っていいの?昔来た時は、この部屋に入ったことなかったから…」
「気に入ってくれた?良かった。元々は尚吾のお父様の部屋だったんだけど、当分は帰って来られないっていうから、拓海君の部屋に充てようって。カーテンやベッドカバーも新品にしたんだよ」
「え?(わざわざおれの為に…)」
「これ、拓海君のパジャマね。歯ブラシやらの日用品は、名前を書いて洗面所に用意してるから使ってね。何か足りないものがあったら、遠慮なく言って下さい」
「あ…いや、こんなにしていただいて…あの、あんまり気を使わないでください。おれ、親父に言われて来ちゃったけど、マジでなにもできないし、…置いてもらうだけでも気の毒で…」
「なに言ってんの?拓海君が来てくれて、僕、嬉しいよ。尚吾は僕に拓海君のことをよろしく頼むって言ってくれたの。尚吾が頼みごとを僕にするなんて初めてなんだ。僕にとってね、それはとっても、嬉しいお願いだったんだ。だから精一杯拓海君のお世話をすることが、僕の大切な役目なんだよ。拓海君はこの家でゆっくり休んで、元気になって欲しいんだ。良かったら、本当の家族だと思って、なんでも話して欲しい。…ごめんね、勝手なこと言って。でも本当に歓迎してるからね」
「…」
無邪気で暢気な乃亜に呆れてはみても、素直に好感を抱いてしまう。
あからさまな善意を広げられても、ちっとも嫌味に感じない。それよりもこんな風に自分を受け入れてくれて、ここにいてもいいと言ってくれるだけで、沈み込んだ気持ちが少しずつ浮き上がっていく気分だ。
それに…
乃亜の本質がこの通りならば、尚吾の恋人であってもちっともおかしくないし、変な嫉妬心は少なくて済む気がした。
事実、もう拓海には乃亜への警戒心も妬みもなく、ふたりのなにかの役に立ちたいとばかり感じている。
「あの…尚吾さん、エプロンしてたけど…よく料理したりするの?」
「うん、尚吾は僕よりもずっと上手だよ。何でも器用で手際が良くて…。僕はドジでいつも尚吾の手を煩わせてばかりなんだけどね、でも尚吾は少しも嫌な顔をしないんだ。ドジでおっちょこちょいな乃亜も大好きだって…」
こんな惚気も乃亜が言うと、ちっとも嫌な気分にならない。不思議な人だと思う。
少しも男らしさはないのに、それでいて女性っぽくもない。可愛いし無垢で明るいけれど、どことなく色気がある。
尚吾があれだけ惚気るのも無理はないのかもしれない、と拓海はさすがに完全敗北を認めた。
これじゃあ、意地悪なんて、出来そうもないや。
「…尚吾さんってクールな大人で家事なんてかっこ悪くてやらないとばかり思っていたんだけど、見かけによらないんだね。ホントに驚いた」
「うん、尚吾は最高の恋人なんだ。ホントわね…こんな僕でホントにいいのかなって、毎日思っちゃうんだよ。僕はなんでも要領悪いし、尚吾に手間を取らせてばかりだから…。だからね、僕にできる事を一生懸命やろうって頑張るの。そしたら少しずつでも上手になれるんだね。一年前はお料理なんて全然できなかったんだけど、今は尚吾からも合格点を貰えるようになったんだよ」
「…そう、なんだ…」
嬉しそうに微笑む乃亜に、拓海もついつられて口元が緩んでしまう。
なんだか天使みたいな人だな…と、強く惹かれてしまうけれど、先刻尚吾に念を押されたことを思いだし、自制した。
片思いぐらい好きにさせて欲しいけれど、ホントはおれだってさ…
「あ…と、尚吾の手伝いに戻らなきゃ。兄さんたちが来ちゃう。拓海君は疲れただろうから、荷物を片づけたら休んでて。夕食の用意が出来たら、呼ぶからね」
「あ、あの…」
部屋を出ようとする乃亜に、拓海はふと沸いた疑問を投げかける。
「兄さんって…乃亜さんのお兄さん?今日?ここに来るの?」
「うん。僕の兄さんだよ。週末は誰かが遊びに来るんだけど、今日はみんな揃って来てくれるんだって。五人揃ってくれるのは久しぶりだから、僕も嬉しいんだ」
「え…ご、五人?乃亜さんの兄弟って五人も居るの?」
「そうなんだ。僕は末っ子で、六人兄弟。僕の自慢の兄さん達なんだ。拓海君も好きになってくれると嬉しいな。じゃあ、ゆっくりしててね」と、乃亜はドアを閉めてパタパタと走り去る。
「兄さんが五人もか…」
尚吾も拓海も一人っ子の所為か、兄弟に憧れたりするけど、六人兄弟なんか見たことも無い。…もうとっくに亡くなった祖母には七人の兄妹がいたと、拓海は昔話を思い出した。
乃亜に似ているのなら、きっと五人とも綺麗な男性なのだろう。
尚吾が駄目なら、五人のうちの誰かが、この夏の間だけでも、恋人になってくれたら、拓海の傷心も癒えるかもしれないのに…と、都合の良い妄想をしてみる。
勝手な望みではあるが、尚吾と乃亜の親密さをここに居る間中見せつけられるとしたら、火遊びでも誰かと恋に落ちなければ、拓海の性欲は渇望するばかりだ。それでなくても、Rと別れてから、誰とも寝ていない。もっとも拓海は女性と寝た経験はないし、男はRだけだ。
荷物を片づけた拓海は、手伝いでもしようと一階へ降りてくる。
ダイニングテーブルにもリビングの大テーブルにも、出来上がったばかりの料理が置かれ、乃亜はひとりひとりの配膳を支度している。
何か手伝おうとしても、どこに何があるのかもわからない拓海にはなにもできない。それより以前に、拓海は家事を手伝った経験が一切無いのだ。
専業主婦の母親は、自分の仕事とばかりに、家の事は拓海にも夫にもさせなかった。
拓海はテーブルに出されたものを食べ、洗ってたたまれた服を着た。
服も靴もなにもかもすべて、母が買い揃え拓海に与えたものだった。
拓海はそれを一度も疑問に思わなかった。
それが楽だったからだ。
Rとの禁断の恋だけが、拓海が自分で見つけた大事な宝物だった。
あれよりも大事なものが見つかるのかしら…と、Rとの日々を思い出すと胸が痛い。
「乃亜~っ!ハロー!」と、玄関から声が響いた。
ガヤガヤと何人もの男の声が響いた。
「兄さん達が来たよ。拓海君、紹介するね」
「う…ん」
拓海は乃亜の後について五人の男の前に立って頭を下げる。
「こ、こんにち…じゃなかった。今晩は、初めまして。瀬尾拓海ですっ!」
色々な返事が聞こえたが、拓海にはよく聞き取れず、顔を上げて五人の男たちを見た。
が、外国人…じゃないか…
乃亜は拓海に五人の兄をひとりずつ紹介するが、拓海の頭にはよく入ってこない。それよりもなんでこんな毛色の違う揃いも揃ってモデルみたいなカッコいい外国人が、乃亜さんの兄弟なんだ?と、疑問符ばかりだ。
拓海の通う高校にも留学生は居るし、外国人が珍しい時代でもないが、大人の男の外人をこんなに近くで見るのは、初めてだと言っていい。
なんて彫りが深いんだ、なんて色が白いんだ、なんて眼の色だよ、背がたけええ~、つうかなんでそんな髪の色してる?つうか、足も長げええ…うわ、おれの頭の上に頭あるじゃん。尚吾さんより背が高いのか…つうか、なぜそんなに髪が長げえんだよ。
…ぎゃ!キ、キスされた!くちびるに…
「この子、固まってるよ。尚吾」
「おまえらの所為だよ…。いつも言ってるだろ。日本人はシャイなんだから、初対面でキスすんなって…って、もう拓海、しっかりしろよ。これくらいで負けるな。日本人の根性見せてやれ!」
「…(どんな根性ですか?つか、あんたこの人たちの事、一言もおれに言わなかったじゃん)」
「拓海…本当に十八?…かわいいね。まだ13,4だと思ったよ」
「もう、目を付けたのか?ヴィンセント…。こいつは美少年キラーだから気を付けろよ、拓海」
「馬鹿言うなよ、ヨシュア。私は美食家なんでね。若けりゃいいわけでもないさ。良い男が好みなだけ…」
「じゃあ、拓海は俺が…」
「ちょっと待て。先に目を付けたのは僕だよ」
「ぼくは尚吾の方がいいな」
「じゃあ、俺も尚吾で…」
違和感のある顔で、流暢な日本語を話す五人に拓海は目を白黒させる。
「おまえら、いい加減にして、テーブルに着けよ。せっかくの料理が冷めるだろう」
「わ~い!尚吾の手料理好き~」
「俺だけじゃねえし、乃亜も頑張ったんだからな。なあ、乃亜」
「うん、頑張ったよ」
「じゃあ、食べてやるか。乃亜、極上のワイン、持ってきたぜ。いつも安物のチリ産ばっかしだろ?たまにもブルゴーニュでも飲めよ」
「悪かったな。安物で」
「尚吾、乃亜を貧乏に慣れさせるな」
「…してねえし…つうか、ヴィンセント、おまえ飯食う時ぐらい髪まとめろよ。ほら、これやるから」と、尚吾はリビングのソファに座るヴィンセントにシュシュを渡す。
渡されたヴィンセントは青色のシュシュをじっと見つめ、少しだけ口端を弛め、髪を縛った。
「ほら、ヨシュアも」と、尚吾は緩い巻いた赤毛のヨシュアにも渡す。
「…サンクス…」と、意外な顔でヨシュアは受け取る。
「僕とお揃いだね。ほら」と、乃亜がピンクシュシュでまとめた髪を見せる。
「キティちゃんが一杯でかわいいよ」
なるほど、シュシュの生地にはキティの絵がプリントされている。
「あれ、僕には?」「僕も欲しい」「俺にはないのかよっ」と、もらえなかった残り三人は尚吾に詰め寄る。
「あのなあ、これはさっき高速のサービスエリアで乃亜のお土産にって、買ったんだよ。三つセットで六百円のシロモノだよ。そんなに欲しいなら今度買ってやるから、今日は我慢しろ」
「ちぇ、じゃあ、絶対今度プレゼントしてよね」
「わかったよ、ルイ。(つうか自分で買えよ。そこら辺の店にも一杯あるだろうが…)」
普段、家族三人での食卓しか知らない拓海には、こんなパーティのような大人数で囲む夕食のすべてが驚きの連続だ。
ソファに座るにもそれぞれに特徴があり、喋り方や食事の取り方、笑い方や仕草まで見ているだけで面白く、食べる事も忘れがちになるほどに見惚れた。
「拓海君、食べてないね。口に合わない?」と、乃亜が気遣う。
「ううん、どれも美味しいよ。…なんか…なんかね、ここに来て良かったなあって…思って、胸が一杯になるんだ」
「…そう、良かったね、拓海君」
満面の笑みをしたためる乃亜の後ろから尚吾がしたり顔で拓海を見つめる。
わかってますよ。乃亜さんには迫らないから…。でも、他の五人の兄さん達とは…到底おれなんかじゃとても相手にならないだろうしなあ…
そう思いながら、顔を上げた時、目があったヴィンセントの碧い瞳にあわてた拓海は目の前のグラスに注がれた赤ワインを一気に喉に流し込む。
身体中が一気に熱くなり、慌てて水を飲みながら、ついヴィンセントに目をやる。
拓海を見て薄く笑う表情に、拓海の心臓は鷲掴みされたように狂おしく鼓動した。
ダメダメ!あのヴィンセントとかいう人が一番危ないじゃん。手の平で遊ばれるに決まっているじゃん。好きになったらこっちがやばいって…
そう言い聞かせてはみても、恋の矢はもうすでに拓海には撃ち込まれている。