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甘く危険な香り

挿絵(By みてみん)

3 甘く危険な香り


 折角の記念日にふたりだけで祝杯を挙げるつもりの計画は、つまるところ無理だとしても、せめてゆっくりと愛し合う時間を可愛い乃亜の為に捧げたい、と、心に決めた尚吾は、一晩ぐらい泊まりなさいと、引き留める隆伯父を振り切って、伯父宅を出た。

 勿論、車で三時間程度かかる帰宅へのドライブの助手席には、拓海が居る。

 夏休みが終わるまでの約二か月間、拓海を頼まれてくれないか、と、隆伯父に頭を下げられ、尚吾は不本意ながらも承知した。

 痩せた身体に見合った破れたジーンズにオールドのTシャツといかにも現代っ子らしい格好だが、意味もなく不機嫌な態度と反比例する消極的で繊細な拓海の様子を見る限り、自分が預かっても改善の余地があるのか、尚吾には全くわからない。


 9スピーカーから流れる軽快なジャズに、鬱積も吹き飛ぶ。

 乃亜と同居するようになって、二人乗りのスポーツカーから、SUV車に変えた。何事も見た目よりも使いやすさや機能性を重視するようになった。

 愛とは簡単に人生を変えてしまう。と、尚吾は悟った。

 愛する者の為に変わっていくことは、堕落することではなく、探究者になることなのだ。それが自己満足に終わろうと…


 その車の中で、拓海はしおらしくおとなしい。

 話しかけても喋らないし、やりたいことや興味のあることなども言わない。

 この歳の男の子ってのは、こんなにメンドクサイものだったのかな…。と、尚吾も自分の十七、八の頃を思い出し、苦笑した。


 高速道路に乗り、最初のサービスエリアで車を止めた。

「少し話そうか」と、拓海を景色の良い展望台へ誘い、ベンチに座った。

 ペットボトルのお茶と店先で売っていたお菓子を拓海に差し出す。

「帰りつくまでにはまだ大分時間がかかるから、少し腹ごしらえをしよう。ここの自慢のみたらし団子だそうだ。どうぞ」

「…」

 拓海はパックに入った一本を手に取り、団子を口に入れた。

「美味いかい?」

「うん」

「そう、良かった。…実は、拓海君に話しておかなきゃならないことが、…幾つかあるんだが…」

 この期に及んでも口ごもってしまう自分の性分を少しだけあざ笑うことで、尚吾はやっと開き直れたと腹を括る。


「君を預かることになったのは、君のお父さんに頼まれたからだ。俺も俺の親父も隆伯父さんには今までに相当に世話になったからね。無下に断るわけにもいかなかった。でも人一人を預かるってのは、荷物を預かるみたいなわけにはいかない。拓海君も、そこのところを承知して欲しい」

「…おれは、邪魔者ってわけ?」

「ぶっちゃけそうだよ。俺も割合平和な生活を送っているし、君にこの暮らしを荒らされたくないっていう気持ちはある。けれど、それ以上に君のお父さんが君を思う気持ちを考えると…。俺も人の子だからね。なんとか力になりたいのは本当だよ」

「…」

「君が何かに傷ついているのだとしても、俺はそれを無理矢理聞き出そうとは思わないし、もし知ったとしても、俺が出来ることは僅かなものだと思う。だけど、君の周りにいる家族や友人たちが君に元気になって欲しいって願っているのはわかるよね」

「…無理だよ。おれは…生きることに絶望しているんだもの」

「…」

 なんというこの甘く若い青春の絶望感。深淵なロマンティストであろうとする少年の未熟さを様な残す精神性。羨ましい限りだ、と、尚吾は微笑ましくなった。

 つい軽口で「失恋でもしたの?」と、の聞くと、図星なのか、拓海はプイと顔を背けた。それもまた愛らしい抵抗ではある。

 自身も拓海の頃、先輩に憧れ、失恋した思い出がある。あの時の心の痛みや、立ち直るまでの辛さを振り返ると、なんとなくだが拓海の様子に思い当たる。


 それより最も重要な難題が、尚吾には待ち構えている。


「あのさ、拓海君、大事な話があるんだ。君のお父さんにも話していないことなんだが…実は俺は一人暮らしじゃない。要するに…恋人と同棲をしている」

「…」拓海は目をぱちくりと開け、驚いて尚吾を見上げた。

「うちの家は広いし、君の部屋も用意できるし、君が俺らに気を使う必要もないんだが…。まあ、一緒に住むわけになるのなら、理解してくれないと困ることなんだ。え~と…なんというか…恋人と言うのは…男なんだ」

「…えええっ!」

 拓海は思わず声を上げ、食べていた団子を喉に詰まらせ、慌ててペットボトルのお茶を喉に流し込んだ。

「だ、大丈夫かい?」

 ゴホゴホと咳き込む拓海に、これが一般的な反応だろうと、拓海の背中を摩りながら目の前の暗雲に溜息を吐く。

「俺がゲイで驚いた?軽蔑する?」

 拓海は涙目になりながら、心配そうに見つめる尚吾を見上げた。


 少しも…と、言いたかったけれど、言葉にはしなかった。

 違うんだ、尚吾さんみたいな素敵な男性が自分と同じようにゲイだなんて、なんだか自分が許されているみたいで、嬉しいんだ…とも、言えなかった。

 ただ無性に胸がときめいた。

 この人に抱かれる恋人ってどんな男の人なのだろう、と、バカみたいに羨んでしまう。


「ゲイだと言っても、恋人が男ってだけで、取り留めて何か違っているわけでもないし、君が男の子だからって色仕掛けをしようとか、全くないことを宣言するよ。けれど…もし、俺達が気持ち悪いって感じるのなら、無理に同居を薦めるわけにはいかないよね。…君の家に戻ることも検討して欲しい。残念だけど隆伯父さんに本当の事言って、諦めてもらうよ」

「やだよ。も、戻らないよ。別に…嫌じゃないし…気にして無いから。おれ、尚吾さんの家で暮らすって決めたんだもの…」

「…そう?」

「…」

 そう言って俯く拓海の表情は、尚吾には見えづらく、何を考えているのかはわかりかねるけれど、ゲイである自分を拒否していないことは理解できた。

 では、次の段階に行かなきゃ…と、尚吾はまたもや拓海に問いかけた。


「それからね、拓海君に幾つか約束して欲しいことがあるんだけど…」

「…約束?」

「うん。まあ、手前味噌なんですが、俺の恋人…真栄里乃亜まえさとのあって言うんだけどさ、とっても可愛い人なんだ。で、拓海君は絶対に乃亜に恋してはならない」

「…(それって、単なる贔屓目じゃないのかなあ。痘痕もえくぼって言うんだっけ)」

 拓海は怪訝な目で尚吾を仰ぎ見ると、ふふんと鼻で笑った。

「あ、惚れた欲目だって思っているんだろうけど、本当に驚くほど可愛いんだぜ。まあ、拓海君がゲイじゃないのなら、別に心配することもないだろうけど…。俺は平日は仕事だし、その間、乃亜と居る時間は拓海君が長くなると思うけれど、仲よくやって欲しいんだ。…ほどほどにね」

「わかったよ。その乃亜って人を好きにならないようにするよ」

「そうか、ありがとう…。それから…」

「まだあるの?」

「…」


 一番危ういのは乃亜の五人の兄たちの事だが、ここで話しても、きっと拓海には理解できない絵空事になってしまうだろうと考えた尚吾は、それ以上言葉にしなかった。

 思っていたよりも拓海が尚吾の家に行きたいと願っていることや、心の状態もそれほどひどい状況じゃないことがわかっただけでもひと安心だ。

 父や隆伯父の為にもできるだけ拓海を歓迎してあげようと、尚吾は心に誓った。


「あのさ…」と、拓海。

「ん?」

「おれのこと、拓海って呼び捨てにしてくれて構わないよ」と、拓海は少し照れながら言う。

 彼は彼なりに必死に誰かを求めているのかもしれない。と、尚吾は思った。

「了解、拓海。じゃあ、そろそろ行こうか、俺達の家に」

 拓海の頭を軽くぽんぽんと叩き、尚吾は駐車場ヘと立ち上がった。



 助手席のシートを倒し、拓海は弾力の良い皮の背凭れに身を沈めた。


 半分だけ目を閉じ寝たふりをしながら、ハンドルを握る尚吾の後ろ斜め横顔をうっとりと眺める幸福に浸る。

なんてすんなりした鼻梁だろう。肌も健康的で綺麗だし、髭剃り後も濃くなくて、生え際の輪郭も完璧だ。あんな二重の切れ長の眼に見つめられたら、それだけでイっちゃうかもなあ…。

 陽は西に傾き、オレンジ色の斜陽が尚吾の輪郭を照らし、その姿を影にする。

 このまま家には着かずに、どこまでもふたりでドライブできたら…

 尚吾さんの恋人がどんなに可愛い人でも、馴染めないだろうなあ。だって、こんな素敵な尚吾さんと抱き合っているなんて、特権も甚だしい。…ったく憎らしい。

 会いもしていないうちからこんなに嫉妬している自分に、拓海は我ながら呆れていた。


 尚吾が居ない時間は、その男と一緒に暮らすわけだが、うんと意地悪をしてやろうとか困らせてやろう…などと子供じみた気分なのも、拓海が尚吾に舞い上がっている証拠なわけだが、一時間後、拓海の嫉妬は羨望へと変わる。


 尚吾の自宅に着いた頃には、陽は落ちてはいても夏の昼間は長く、辺りは夕焼けに染まり天頂はまだ青みがかっていた。

 駐車場に泊まった車から降り、拓海は以前に来た時と大分様子が違っていることに気がついた。

「ここ…前から畑だった?」

「いや、違うよ。昔は…ここら辺りも高級別荘地で、賑やかだったんだが、バブルが弾けた頃から住む人も少なくなってね。元々過疎地だしね。それで空き家が増えて、土地の値段も下がったから、親父がうちの裏の空き家を買ったんだよ。それを均して…親父が居た頃は芝を敷いてゴルフの練習なんかしてたけど、俺はしないし、親父があっちへ行ってからは荒れ放題でね。そしたら、乃亜が野菜を作りたいって言いだして…。それでにわか農家だよ。うちで食べる野菜の大方はこの庭で採れたものなんだ」

「…へえ」

「とにかく乃亜は凝り性でさあ…。褒めても器用とは言えないんだけど、何でも一生懸命にやりたがる。そこがまた可愛いんだけどね。ああ、あそこのログハウスも乃亜と作ったんだ。(兄貴たちも手伝ったけれど…)俺の仕事は家のリフォームだし、建築やデザインもできるからね。乃亜の趣味に合わせて、手製のアクセサリーの作業場兼出店になっているんだ。これがまた、乃亜の作る小物が近所のオバサンにも好評で、手作り教室になったりしてさ。最近じゃ、喫茶店代わりだ。単に井戸端会議の寄合所とも言うけど…。まあね、乃亜は誰とでもすぐに仲良くなれるとってもいい子なんだよねえ…。何、その顔。ホントだって。惚気てないから」

「…どうでもいいですけど…」

 拓海としては、心の底から聞くに堪えない無駄話だと思ったが、詰り様にも確かに辺りの見晴らしは緑豊かな高台で文句も無く、鼻腔に抜けるハーブの香りが口元を弛ませる。


「ああ、足元気をつけてくれ。乃亜が辺り構わずハーブを植えるから、蔓延って仕方がないんだ。ハーブって奴は使いどころが難しいから、増やすなって言うんだけど、乃亜がね、踏んでも立ち直るから大丈夫だって、気にしないんだよね」

「…」

 乃亜、乃亜ってどれだけデレる気なんだよ。これでつまらない男だったら…マジ怒るぞ!と、拓海は足元のハーブを思い切り踏みしめ、尚吾の後に付いていく。


 洋館風の屋敷の壁はアイボリーに綺麗に塗られ、尚吾が言うように、新しくは無いがよく手入れされている。その裏から続く小道を歩き玄関に回ると、道路の向こう、真正面には海が広がって見えた。

 西の彼方に陽が落ちた橙の跡が波の襞をうっすらと染め上げている。


「尚吾、おかえりなさいっ!」

「ただいま、乃亜」

 その声に振り向くと、玄関先でエプロンをつけた長い髪の男が手を振っている。

 黄昏に染まった姿が、なんだか不思議な生体に見えて、拓海は立ち止まったまま、ぼーっと見つめた。


 ニコニコと笑う乃亜が小走りながら拓海に近づき、「初めまして、拓海君。真栄里乃亜です。これからよろしくね」と、手を出した。

 拓海が迷う暇もなく、乃亜は拓海の右手を取って、握りしめる。

「仲良くしようね、拓海君」と、乃亜が言うから、

「う…ん、よろしく」と、思わず頭を下げた。

 頭を下げてしまったことを少しだけ後悔したが、すぐに消し飛んだ。


 なんだよ。マジで可愛いじゃん!


 乃亜は確かに尚吾の言うどおりの青年だった。

 なんとも可憐でそれでいてちっとも女臭くない、拓海がこうなりたいと想像するしなやかな若木のような男だった。




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