混乱のプレリュード
2、混乱のプレリュード
瀬尾尚吾が、従弟の拓海の面倒を見る羽目になった次第の検察。
拓海の父、瀬尾隆と尚吾の父、瀬尾祐樹は二つ違いの兄弟である。
仕事の関係で父親の単身生活が長かった所為か、兄、隆は弟思いのしっかり者で、泣き虫で苛められっ子だった幼い祐樹をいつも励ましてきた。
悪童どもに泣かされた時にはいつでも助けに来てくれる兄を、祐樹は本物のヒーローだと信じていた。
ふたりは別々の大学に進学したが、上京した先の隆のアパートに祐樹は居候させてもらった。
隆は誰もが好感を持てる良い男で、交際範囲も広く、彼らの住むアパートには隆の友人達が遊びに来た。その中のひとりが、のちに祐樹と結婚する尚吾の母親、瑠莉であった。
隆の所属する天体部の後輩で、祐樹と同い年の瑠莉は、明るく好奇心に富む女子大生で、祐樹は恋心を抱いた。だが、瑠莉の心が隆にあることに気づいた祐樹は、自分の想いを打ち明けることもなく、友人のひとりとして過ごした。
ほどなく隆は一流商社へ、祐樹は地元の市役所へ就職した。
彼方此方と出張の忙しい営業系の隆だったが、地元で独り暮らしの祐樹をいつも気にかけてくれた。
休日になれば、祐樹を呼び出し、ドライブ旅行へと出かけた。
そのうちに二人共良い年頃になり、結婚の話もあったが、隆は「祐樹が結婚するまで、俺はしないから」と、笑った。
或る夏の日、いつものように隆からドライブに誘われた祐樹は、思いがけない人に巡り合った。
「懐かしい人を連れてきた」と、隆は瑠璃を紹介した。
「お久しぶりね、祐樹君」と、彼女は手を振る。
「仕事場で偶然に彼女と出会ってね。それで、三人での旅行を思いついたんだ」と、隆は嬉しそうに言う。
おいおい、兄貴、そこはふたりだけで行くべきじゃないのかね、と、祐樹は苦笑いをする。
「すみません、僕が付いてきてしまって…」と、祐樹は後ろ座席に座る瑠璃に謝った。
「そんなことないわよ。私も祐樹君に会いたかったわ」と、瑠莉はニッコリと笑う。
その可憐な事。この際、愛想笑いでもなんでもいい。と、数年ぶりに祐樹の恋心に火が付いた。
祐樹は瑠璃に交際を申込み、そして半年後、結婚した。
瑠璃の隆への想いを直接確かめる勇気は、無かった。瑠莉がどんな気持ちで自分との結婚を選んだのかも、祐樹にはわからない。
ただ、誰よりも瑠莉を幸せにすると誓った。
果たしてそれは守られただろうか…
平凡な公務員の妻として、申し分の無い妻だったけれど、瑠莉にとってはきっと面白みのない一生だったろう。
尚吾を生み、育て、愛した。そして最愛の息子の成人姿さえ見ずに、瑠莉は病死した。
仕事が忙しかったとはいえ、祐樹がもっと気を使い、瑠莉の身体の変化を見過ごしていなければ、助かる命だっただろう。
瑠莉を失った祐樹は自分を責めた。
もし、自分ではなく、兄の隆と一緒になっていたら、瑠莉はこんなに早く死なずに済んだかもしれない。もっともっと幸せになれたかもしれない。
瑠莉を失い衰弱した祐樹の傍に、隆はいつまでも付き添った。
そして、隆は瑠璃の一周忌までは、祐樹の傍から離れず、祐樹の自宅から仕事に通っていた。
当時、家を出ていた大学生だった尚吾は、実家へ帰省した時に目の当たりにしたふたりの様子をよく覚えている。
自身がゲイの所為か、雰囲気を見ればその道の空気感はなんとなくわかる。
隆伯父と父の醸し出す空気はまるで長年連れ添った夫婦のようだ。
あの兄弟に肉体関係があるわけではないのはわかっていた。ただ、仲の良い兄弟という絆だけでは量れない情愛がある。
尚吾はそれを不快には思わなかった。
母を想う父が失った悲しみから立ち上がる救いを、伯父に求めることに口を挟む者などいるものか。
伯父、隆の結婚は遅かった。
三十九歳で、会社役員の娘と見合いし結婚した。六年後、拓海が生まれる。
隆は独身時代が長かった所為もあるが、幼い尚吾を殊の外、可愛がった。尚吾の思春期の悩みを打ち明けたのは両親ではなく、この隆伯父に対してだった。
何かと親身になってくれ、悩んでいた転職の相談をしたのも隆だった。
さすがの尚吾も隆に恩を感じないわけにはいかない。
その隆が、チリに居る祐樹に息子のことで電話を掛けてきたのだ。
兄からの相談を受けたのは、隆にしてみれば生まれて初めての事件でもあり、なんとか力になってやりたいが、自分は遠く離れたチリで生活し、やっと慣れ始めた具合だ。
そこで、息子の尚吾に拓海の世話を頼んだのだ。
尚吾も一連の話を聞き、無下には断りきれない。しかし、自身の事情さえ打ち明けぬまま、父は今でも残してきた自宅に尚吾ひとりで住んでいると信じている。
いつまでも隠すつもりがなかったけれど、遠く離れて老後を楽しんでいる父親に、わざわざ三十路になるあなたの息子はゲイで、すこぶる可愛い美青年と同棲生活を楽しんでいます…と、驚かせる必要にも迫られなかった為、一年経ってもカミングアウトは出来ずじまいだ。
折も折、拓海を引き受ける日は、ふたりが初めて出会った記念日だった。
折角の記念日にと、一度は変更を願い出ようと考えたのだが、恋人は嫌な顔ひとつせず「尚吾の伯父様からのお願いだし、早く迎えに行ってあげなきゃ駄目だよ。僕たちの記念日に、尚吾の従弟さんがうちの来てくれるなんて、ステキだね」と、無邪気な笑顔を見せる。
「そうは行っても乃亜、拓海がここで暮らすのは一週間、二週間程度じゃないんだぜ?俺は仕事で昼間は居ないし…本当に大丈夫なの?」
「うん、仲よくなれるように頑張るよっ!」
「…」
乃亜の暢気さは今に始まったことじゃないが、気がかりは多い。
「それに…」と、乃亜は言葉を濁す。
「え?」
「ホントわね、いつも兄たちがここに遊びに来ちゃうでしょ?だから尚吾、迷惑してないかなあ~って気になっていたの。僕ばっかりお世話掛けて、悪いな~って…。だからね、尚吾の従弟さんが来てくれたら、精一杯お世話したいなあって思うんだ」
「…乃亜…」
二十一にもなって、この天真爛漫さは人間国宝並の計り知れない類まれな人格だ。どれだけ尚吾が苦渋を強いられる事になろうと、この無垢な恋人をこの手に抱けるものなら、耐えて見せる…と、尚吾は乃亜の肌のぬくもりを感じながら心に誓う。
一年前、尚吾は真栄里乃亜と出会った。
ふたりは出会ったその時から、お互いを運命の人と思い込み、はた迷惑なぐらいに激しく愛し合い、信じられぬ試練を潜り抜け、とうとう満ち足りた恋人同士になった。
あれから一年、尚吾と乃亜は、とても幸せに暮らしている。
愛しい乃亜は、何週間も前から二人の記念日にはなんの料理を作ろうか…と、大した腕前でもないのに、尚吾をもてなそうと張り切っていた。
尚吾は折角だから、どこか素敵な夜景の見えるホテルに泊まろうか、などと提案したのだが、乃亜は「尚吾が頑張って働いてもらったお給料を無駄遣いしたらもったいないよ。僕は尚吾と一緒にいられるだけで幸せなんだもの」などと、照れもせずなんとも愛らしい顔を見せるので、尚吾も「俺も乃亜が居ればなにもいらない」とバカのように浮かれ、乃亜の申し出を受け入れた。
いかんせん、乃亜はかわいい。
一年前と変わらず、純真で従順で何事にも新鮮に感動し、素直な心で尚吾を見つめる。
なによりベッドの中の乃亜の素晴らしさときたら…。柔らかくてしなやかで、従順でそのクセ驚くほどに大胆で…毎日抱き続けても飽きることはない。
尚吾の性欲は、乃亜によって十分に満たされていた。
三十になるまでの尚吾は、人並み以上の美貌や上品な身のこなし、それに矛盾するような肉感的な動作と人好きのするふとした表情などに惑わさられる男女は多く、尚吾はじっくりと品定めした後、好みの男たちと軽快な恋に戯れる日々だった。
だが、漁色男だった尚吾は、恋の魔法の御業に落ち、乃亜に恋をした。
その恋は尚吾を一途な男に変えてしまったのだ。
父をイギリス人に持つハーフの乃亜は、その美貌も性格も常識から並外れた上質のものだが、当然と言えば当然の話である。
何故なら、彼は人魚だった。
そう、乃亜は人魚姫だったが、尚吾を愛し、尚吾の愛により、人間に生まれ変わった青年だった。
この御伽話を信じるまでには、当事者の尚吾も自分の中の常識と相当に戦う羽目に陥ったのだが、なにより乃亜の存在に嘘はなく、彼を得る為なら、嘘でもでたらめな御伽話でも、甘受するしかなかったのだ。
そしてそれにより、尚吾は今まで味わったことのない、甘い甘い蜜を吸い続けることになるが、往々にして甘い蜜には棘がある。
いや、綺麗な薔薇にも違わない。
乃亜には五人の兄がいる。
勿論、彼ら全員、人魚である。
笑うなかれ。尚吾はその目で見たのだから…
溺れかけた海の底で、彼らの下半身は魚の如く、金銀七色に煌きながらうごめき、自由に泳ぎまわっていた。
その事実は誰にも言うべきものではなかった。
また言う必要も無い。ただ、この兄弟たちは末っ子の乃亜を激しく愛している所為か、週末には必ず行っていい程、自宅に来ては、お祭り騒ぎで飲み明かしていくのだ。
勿論、人間の姿である。(彼らは太陽が没すると自由に人間の姿になれるという特技がある)
当の乃亜は、兄たちが来ることを喜んでいるし、懸命にもてなす乃亜を兄弟も手伝いながら、一通りの家事や片づけはやっていく。それに…尚吾も彼らを憎からず思う時もある。
極稀にだが…
この極めて複雑な状況の尚吾の家に、何も知らない拓海を迎え入れる覚悟がどれほどのものか…大概の者は、理解できよう。
できることなら断ってしまいたい…と、願って三時間を掛けて伯父の家へ向かった尚吾だったが…
結果は無残にも伯父の独り勝ちの様である。
神経質な伯母には冷たく無視され、引きこもりの拓海は…落ち着かない風情で尚吾を見つめる。
こいつは…大層な災難だ…と、尚吾はすぐに後悔したが、三十路の大人は顔には出さず、「よろしくね、拓海君」と、まだどこか幼さの残る従弟の頭を撫でるのだった。




