地獄の弌バタ劇場
「ピッピッ! ピッ ピーッ!」
その合図で飛び込み台まで上って、「用意」のアナウンスを待った。
あー ついに来ちゃったんだ…100バタフライのレースが。
ごんちゃんが言ってたっけ。
「審判のスタートガン鳴ったら、飛び込んで泳ぐしかないんだからさー あとはやるしかないって腹括ると、結構頑張れるもんよ?」
心配するなって意味だろうけど、それまでの時間が…苦しすぎるんだってば…
はあ。
無音過ぎて、耳が痛いよ…
「用意」
え? 思ったより早いって…っ!!
そのアナウンスでアタマが真っ白になった。
スタートガンが鳴り響いた時には、むしろその音に驚いて飛び込んでいた。
思い返すまでもなく、最初と2回目のターンまでは、何ともなかった。
でも。ごんちゃんの言うとおり、半分過ぎてからが…
苦しいよ。苦しすぎるよお。
さっきから、そんなことばかり思っている気がする。
今、何メートル地点なんだろ…
プールの底をみると、青いラインが鮮やかに視界を横切っているから… 12,5のラインかな、だとしたら、壁蹴って、5メートル進んだ後、6~7メートルしか進んでないんだ…
一気にまた、身体が、重くなった。
何度もくどいけど身体が、重いよ。腕が持ち上がらない…進まない。
ごんちゃん、アタマおかしいよ。この倍以上の距離泳ぐなんて。
カンナちゃんが「変態」って言ってたけど、本当に変態だね、あたしなんか まだ 62.5メートル地点なのに
カンナちゃん、力を、力を分けて。
息が吸えないよ、吐けないよ。
呼吸に失敗して、思いっきり水を飲んだ。でも、そんなことになっても、誰も助けてくれない、一人だけの世界。
体の中に残ったわずかな空気で、喉を洗い出した。
「ぷはっ」
吸ったのか、吐いたのか自分でも分からなかった呼吸だけど、さっきむせた時に吐いたのは、二酸化炭素だったみたい
必死なわたしの身体は、僅かばかりの呼吸のチャンスを逃さずに、しっかり酸素を吸収した。
何とか持ち直したかもしれない。
そう思ったとき、また青いラインが見えた…
あと5メートルで最終ターンなんだ… 頑張って、わたし。頑張って…
べちょ、と壁にぶつかって、水面に倒れるように身体を落とした。
実は、ここからは未知の領域だった。
当初、50メートルでエントリーしたと思っていたわたしは、ごんちゃんの勧めもあり
「75メートルを連続で泳げるように」練習していた。
といっても、一日に1本だけ。それも、体力がまだ残ってるその日最初の1本目のみ。
レースペースで、75メートル以上なんて やったこと無いよ…
辛すぎる。
立ちたい。でも、立てないよ。立って止まりたいって思っても、身体が止まらないよ。
プールの底は、残酷すぎるほど綺麗だった。衛生的にまで澄んでいて…磨き上げられた床には、タイルの切れ目まで見えた。
光の反射で、自分の姿がうっすら…みえたときだった。
ふと、もがいて進む姿に続けさせてあげたいと思った。
自分が可哀想とか、感情移入したんじゃないの、自分で自分を完泳させてあげたいって思ったの。
カンナちゃんが誘ってくれて、ごんちゃんが教えてくれたバタフライ。
あたしだけが、頑張ってるんじゃない。
ヤマトさんは 200メートルクロールだし、
タローくんだって、平泳ぎ泳げないのに 200メートル個人メドレーだし
こんなところで、わたしだけ、泳ぎきれなかったは 嫌だ!
もし、このままヤマトさんに知られるのは、絶対ヤダーっ!!
気がついたら、最後の5メートルだった。
吐く、絶対吐く。…吐いたらどうしよう。
あ、でも吐かない。吐けない。吐き出すって、こんなに思い切りと体力が必要なんだ。
吐かないんだったら、このまま安心して進んじゃお。壁に、壁にぶつかっておけば、取り敢えず…ゴールとして判定されるから…
正直、記憶はここまでしかない。
記憶が戻ったのは、電光掲示板を見たとき。
残念ながら、コースには誰もいなかった。そして、係員からは
「次の選手が飛び込みますんで、タッチ板にふれないように コースロープにつかまってて下さい」
冷たく指示されて…
でも、電光掲示板には 確かに表示されていた。
「カタクラ トモコ」の名前とともに、
2,03,15 というタイムが。
はあはあはあ…
わたし、完泳したんだ
頑張ったんだ…