第七話 その男、天壱
「私…太ったから油っぽいし…きっと吐いちゃうくらい不味いわよ」
次第に背後の川へと結子は追い詰められていく。踵が冷たい川へと沈んだ。
「俺たちは腹が減っているから問題ない」
「私だって、お腹すいているしっ」
「安心しろ、腹いっぱい食ってやる」
「いや…そうじゃなくて」
「余すとこなく使ってやるし、骨の髄までしゃぶってやるし、墓もたててやる」
「ぜっ、絶対にイヤ―――っ!!」
半泣き状態の少女へと、妖怪たちが舌なめずりして近づいてくる。
まさに鋭い爪が突き出されようとした刹那。
着物の襟を何かにつかまれ、引っ張られるように勢いよく空中に放り出された。
「うぎゃあぁぁぁ──っ」
やがて誰かの腕にふわりと抱きとめられる感触。甘い芳香が鼻腔をくすぐった。
(あれ…?)
ギュッと目を瞑っていた結子は、地面に足がついた感覚に恐る恐る目を開いた。隣には対岸にいたはずの菅笠の男が立っている。
頭には菅笠をかぶり、腰には二本の刀、着物に袴という和装っぽい服姿の男。
男は対岸で悔しがっている妖怪達を見ているらしく、クスリと笑った。
結子は男の握っている釣竿の釣り糸が妙に長いのを見て、自分がそれで釣られたのだと悟った。
「あの…」
結子の呼びかけに男は菅笠を指先でちょいとあげて、こちらを見下ろす。
「危なかったな。あんた人間だろう」
(よかった…よかった…! 菅笠ばんざいッ!!)
結子は心中でサンバを踊る。
菅笠の下は一つ目でもなければ、三つ目でもないし五つ目でもない。
彼の顔は一言で表すと野性的な美男子。その髪は襟足にかかるくらいの長さをしていて、無造作にのばされた前髪は険のある目にかかっていた。全体的な印象は、気だるそうな雰囲気をかもしだしていた。
「あ…ありがとうございました。助かりました」
安心した結子の顔には自然と笑みがこぼれる。男もまた目尻をさげた。
「名は?」
「結子。風間結子」
「しかし珍しいな、人間の一人歩き。しかも女だ」
その言い方がなにか恐ろしいものを感じさせる。
「やっぱりあの人たちは本物の妖怪ですか?」
「あん? 妖鬼見たのが初めてってわけじゃないだろが」
「妖鬼ぃ!?」
あの二匹はやはり本物で、それほど頻繁に出没するということなのだろうか、結子は言葉を失った。
男は手首にはめられた知恵の輪ならぬ腕輪に気づくと、一瞬、驚きの表情を見せた。
「そうか…お前…」
彼は震える手つきで青玉のついた腕輪に触れる。
「これは…俺の宝玉だ」
(またこのパターン!?)
やはり前の二つ同様に、腕輪はスルリと抜けてしまった。男が手首に腕輪をはめると青い輝きが増し、やはり文字のような彫刻が浮かびあがる。
男が、ふと結子の足もとを見た。
「裸足じゃねえか、草履はどうした」
「逃げるのに精一杯で…」
「見せてみな」
あまりの恐怖に冷たさも痛みもすっかり忘れていたのだが、切り傷からは出血していた。
男は結子を石の上に座らせると足を手にとり、いきなり踵の傷口部分を口に含んだ。
あまりの衝撃に結子は耳朶まで真っ赤になった。幼なじみの郁巳でさえ、足にキスしたことなどない。見たくはないのに視線が彼の唇から逸らせない。
彼は布きれで傷口を縛ってから、何か考えこんでいる。
ふと、面を上げた男と結子の視線が絡んだ。
彼はわざとらしく唇を舌で舐めると意地悪な笑みをみせた。
(かっ、からかわれている…)
「予備の草履をやるよ。大きいとは思うが裸足よりはましだろ」
「…ありがとう」
微笑んだ男の面差しはとても穏やかだ。だが、その瞳は先程よりも愁いを帯びているように感じるのは結子の気のせいだろうか。
「ひとりで来たのか…。ったく、あいつら何してやがる」
彼は結子が鏡の中へ引き摺りこまれたことを知っているようだ。
「ここは何処なの?」
「《暁の国》──ここは妖鬼と人間が入り乱れている」
「暁の国…? 妖鬼と人間…」
ただ単にコスプレイヤーが集っているわけでもなく、江戸時代にタイムスリップしたわけでもなく、どうやらここは結子の暮らしていた世界と異なるようだ。
少し離れたところに血溜まりを発見して、結子は弾けたように飛び上がる。
「ひぃっ」
「もう死んでいる、そいつが妖鬼だ」
男が血溜まりを避けるようにして、怖がる結子のそばに寄り添った。
「この世界は《六國》という。その名のとおり六つの国、六つの大陸で成り立っているからだが、そのうちの一つ《羅国》が千年前、異界からきた妖王によって滅ぼされ、そのまま妖王の支配する妖の国《螺国》となった。妖王は侵略を推し進め、他の五国は互いに同盟を結び──妖鬼と人間の戦いか始まった。結局、すべての国が滅ぼされ、生き残った人間たちは暁へと逃げ込んだ。だが、ここ暁の国も百年前に妖王の侵攻を許し領主は殺された。見かけは平和そのものだが…国としては荒廃してしまった。まあ、人間がまったくいないわけではないし、妖王を滅ぼす望みがないわけでもない」
「妖鬼って?」
「妖鬼は妖王によって作られた人を食らう妖だ。様々な形態をとり人に化けることもある。人間の男は食用にしかならないが、女は食用だけでなく子を生ませる為に飼育する」
(食用っ!? 飼育ぅ!?)
結子の顔は今、絵画でいうムンクの叫び状態だ。
どうしてこんなに物騒な世界にきてしまったのだろう。
鏡の中に別な世界があって──ってそんなことはあり得ない。ファンタジー小説の中だけと思っていたのに、と彼女は思う。
「ど、どど、どうしよう…」
「残りは紅色の宝玉…。ってことは左近だな。あいつが一番騒いでいたのに」
顔面蒼白の結子とは対照的に、顎に手をあてて宝玉を見つめる男は、何やら楽しそうだ。
二匹の妖鬼はいまだ対岸で騒いでいる。よほど悔しいのだろう。
「あ…あの人たちまだいるけど、こっちにこないよね?」
「安心しな。羽がないからこないだろ」
「あなたは…人間よね?」
男はすぐに答えなかった。それが結子を不安にさせる。
「妖鬼ではない───それだけはいえる」
男は興味がないのかのんびり答えると、人差し指の背で結子の頬を撫で始めた。
「あ…あの」
「お前に頼みたいことがある」
戸惑った結子の顔を、片頬だけを形よく吊り上げて覗き込んできた。
「力が欲しい…」
(あのぉ…すっごく顔が近いんですけど)
静かに降り積もる雪の中、突如、派手な水音がした。
二人が川を見ると対岸にいた妖鬼二匹がこちらへと泳いでくるではないか。
一つ目と三つ目が水面からのぞいている。
「モツ鍋や――い」
「ひいぃぃッ、嘘つきっ、こっちに来るじゃない!」
結子は男の胸をポカポカと叩いてわめいた。男は妖鬼を盗み見ただけで気に留めることはなく、慌てふためく結子を腕の中へと抱きよせる。
「よっ…妖鬼がくるってば!!」
男は「静かに」と目配せすると、結子の後頭部を左手で固定した。
身動きがとれなくなった結子が「なんですか」と見上げると、目の前が暗くなり男の唇が重なってきた。
「なっ…ん…んぅ…」
非難の声はかき消され、くぐもった声にしかならない。
(キ…キスされてるぅ――――っ!?)
結子は声にならない悲鳴をあげた。
(ファーストキスなのにっ…この男、絶対にぶっとばす!!)
男の髪が結子の顔にサラサラとふれる。生々しい唇の感触と香水のように甘い芳香に、脈うつ鼓動が速くなった。やがて、触れ合った唇がじんじんと痺れてくる。
(な…に…? 何かが流れ込んでくる…)
妖鬼たちが陸にあがって近づいてくる気配に、結子は腕を突っ張り、男の胸を必死におしのけようとするが、逞しい腕からは逃れられなかった。
顔を背けると「まだだ」と囁き、動転している結子に構わず再び口づける。その口づけは優しく啄ばむように繰り返された。
「その女子わたしてもらおうか。人間のくせに昼飯を横取りするなんて許せないぞぉ」
「うん? この男…なんだか変な臭いだな」
三つ目の妖鬼が、少し離れたところで鼻を動かしている。
「これくらいでいいだろう…」
結子から身体を離した男は、鞘からゆるゆると刀を抜いた。
「解!! ───雷気召喚」
男がつぶやくと、突然、日本刀から青い閃光が走った。
青い光はそのまま火花を散らすように刀にまとわりついていて、それはまるで放電しているかのようだった。
(こっ…この人なに者――っ!?)
「テメェらうるせぇ、刀の錆になりたくなかったら、とっとと失せろ」
「人間の分際でゆるさねぇぞぉ〜」
「んだ、んだ! こいつも食っちまおう」
二匹の妖鬼は、怒りに顔を歪ませてこちらへと駆けてきた。
男の漆黒の瞳が鋭く光った刹那、刀が空を切る。
眩いばかりの青い光があたりを一閃したかとおもうと、妖鬼たちの影も形も消え失せた。
「これなら十分戦える…。ふん、あいつら、刀の錆にもならなかったな」
男は満足げに笑みを浮かべるが、結子は傍らで唖然としていた。
突然キスされたショックもあるが、それ以上に妖鬼二匹を一瞬にして滅してしまったのだ。彼の刀は直接、妖鬼たちに触れてはいなかったのだから。
「礼はいらないぞ、先ほどたっぷりと───ぐはっ!!」
バキッと鈍い音がして、男の身体は雪原に沈んだ。男の腹に結子のケリが炸裂したのだ。
「ふざけんなっ、私の…わたしのファーストキスぅ〜」
「かはっ、てめぇ結子…なにしやがる」
「それはこっちのセリフよっ!! どうしてキスなんてするのよっ」
「キス…?」
男が腹をさすりながら立ちあがると、結子は涙目になっていた。
彼はウッと言葉を詰まらせた。本人はあまり自覚がないのだが、結子はけっこう童顔で可愛かったりするのだ。
長い睫毛に縁どられた澄んだ瞳。肌も日本人にしては色白なほうだ。口元に笑みを湛えると、よけいに幼く感じさせる。華奢な体型からとても人など殴りそうには見えないが、これでもれっきとした空手部員。ちなみに十八番はまわし蹴りだ。
「口吸いが嫌だったのか…悪かった。でも仕方がない」
「口吸い言うな──っ!」
その言葉は生々しすぎる、と結子は憤慨した。
下からウルウルとした瞳で睨みつけられると、男は気まずそうに頭をかいた。
「銀の腕輪につけられた宝玉には力の源が封印されている。『巫女より力の源なる宝玉を託されし者』その言葉どおり俺は宝玉を手にした。結子の身体の一部と気を交流させることで封印が解けて力が解放される。俺の場合はお前と唇を交わすことで力を得られるようになっている」
「わけわかんない…誰がキスって決めたのよっ」
この男の下心がそうさせているのではないかと、結子は疑った。
「俺の意思は関係ない…遠い昔に決まったことだし、傷つけたら悪かった」
そう言った男の顔の方が傷ついているように見える。
「それよりお迎えがきたみたいだぜ。堅物の盲目楽士殿がお見えだ」
「へっ…?」
ああぁ──っ!! 結子は思わず頭を抱えた。またしても菅笠である。
川の上流から琵琶を背にかついだ男が小船に乗ってやってくる。あの容姿には見覚えがあった。
結子の怯えを感じとったのか、男は安心させるように微笑んだ。微笑むと険のあった目つきが、柔和になるからドキリとさせられる。
「あの堅物はお前を害することはない。守るために追いかけてきた。女嫌いだから手をだすこともないし、お守りとしては適任だな」
「私を守る…? ねぇ、あなた達は何者?」
答えずに結子の頭の雪を指先で掃うと、自らの菅笠をポンとかぶせてくれた。
「あいつにも結子の気が必要だ。盲目楽士の力を解放してやってくれ」
「どうして力が必要なの?」
「お前を守るため、妖王を倒す」
「私のため…?」
縋るような視線から逃れるように、男は釣竿をつかむと何も言わずに立ち去った。
今回は少々長め。読んでくださりありがとうございます。
まだまだお話は続きますので、よろしくお願いします。