第参拾八話 妖鬼、侵入
結子は胸のあたりのくすぐったさで、目を開けた。
あたりの空気は花と緑の香りで満ちている。
「んん……いっちゃん? おはよう」
「おはよう」
上半身裸の郁巳が、圧し掛かるようにして結子の顔を覗き込んでいる。
(こっ……この状況は一体っ!?)
「結は僕が嫌い?」
「そっ、そんなことないよ」
「じゃあ、好き?」
「うん……」
郁巳は嬉しそうに微笑む。結子は置かれている状況が理解できていなかった。
「それなら、このまま……いいよね」
「はい?」
郁巳が楽しそうに着物の帯をほどき始めたので、結子はパニックになった。
「ちょっ、ちょっと、いっちゃん待ってよ!」
「待たない。時間がないから」
「時間って…」
「妖王が必要としている巫女は、霊力が強いだけではダメだ。清き乙女でなければならない。結婚しても巫女を続ける者はいるが、アムリタを精製する場合は、神の女──俗世に染まっていない巫女でなければ意味がない。僕と結婚すれば妖王に狙われずにすむ」
「それって……つまり……」
結子は頬を染めた。なんだか本人の知らないところでスゴイ展開になっている。
「いいよね…? 結衣。大切にするから」
郁巳の唇が近づいてくると、ふとあの男のことを思い出してしまった。
(天壱…)
彼がここにいないということは、郁巳とのことを了承しているのだろうか。
あのまま連れ去られた結子を捜しに来てはくれなかったということか……?
「……どうして泣くの」
知らずこぼれた雫をどうすることも、出来なかった。
「結衣……あいつのことが好きなの? 僕の方がずっと一緒にいただろう!?」
郁巳は声を荒げた──過去の裏切りが蘇っては頭痛をおこす。
「いっちゃんのことは好き。だけど、彼に対する気持ちとは違う。それに……いっちゃんは私じゃない他の誰かを見てる!!」
「僕は……」
「誰を見てるの? 私は結であって、結衣じゃないよっ」
郁巳は悲痛な顔をしていた。見つめる結子は泣いていた。
(泣かせるつもりなどないのに……どうして僕は……)
「郁巳様っ!!」
悲鳴に近い狗楼の呼び声に、郁巳が険しい顔をした。
室の天井から地にかけて縦に亀裂のようなものが入ってゆく。
メリメリと音がして、そこから何かが入り込もうとしているのがわかった。
「郁巳様、妖鬼です!! 結衣姫さまを連れてお逃げくださいっ」
「ここは僕が食い止める、逃げるんだ」
「やだ、いっちゃんも一緒に逃げて」
「この空間が喪失すると暁の本土のどこかに出るはずだ」
結子はいやいやして郁巳の腕にしがみついた。
「来たな」
巨大な鎌のような刃が現れ亀裂を大きくした。そのまま身体を滑り込ませてくる。
芙蓉ともう一人、男の妖鬼が現れた。
江渡で襲ってきた香頭羅とは別人だ。
「蛆理、アムリタに怪我はさせないでください」
「わかってらぁ」
瞬間、郁巳の身体から棘の鞭が妖鬼たちへと放たれた。
男が両腕についた鎌で薙ぎ払うと、芙蓉が美しくも禍々しい羽を動かして鱗粉を舞い散らす。
「結、また……いつかまた……」
郁巳の言葉は最後まで聞き取れなかった。
結子の身体は突然開いた穴へと落とされてしまったのだ。
郁巳が逃がそうとしてくれたのか、制服も一緒に落ちたようだ。
──そこは秋の風情を思わせるような薄の広がる草原だった。
白無垢は重たくて動きづらいので、誰もいないことを確認してから制服へと着替えた。
空を見上げてもどこから落ちてきたのかはわからない。
空は燃えるような夕焼けだった。
「いっちゃん、ありがとう。絶対に絶対に死なないで……」
自分だけが助かるわけにはいかない。六國という世界から妖鬼を葬り去る、と結子は決意していた。
(私には破邪の剣があるし、皆がいるもの。怖いけれど終わらせなきゃ…運命を繰り返すわけにはいかないよ)
「とにかく天壱たちと合流しなくちゃ」
「残念〜、それは永遠に叶わない夢だよ」
聞き覚えのある声がして振り返ると、頭部に激痛が走った。
「うまく逃げられたはずなのにねぇ、お姫様」
薄れてゆく意識の中、香頭羅の顔に残酷な笑みを見た。
深い傷を負った郁巳は、心の底から懺悔していた。
彼の身体には深く抉られたような傷が無数にある。
(これは…過去に君を殺めた罰なのだろうか。……再び失うことになるなんて)
妖王の配下の襲撃をうけて次元の間は破壊されてしまった。
寸でのところで結子を暁へと送ったが、無事に逃げられただろうか……。
「……妖でも死んだらまた会えるだろうか。結は……過去の僕を知ったら軽蔑したかな」
郁巳のもとにいた結子ですが……なにやら、またまた雲行きが怪しくなってまいりました。
この先どうなるんでしょう(作者が最も不安だったりします・苦笑)