第参拾壱話 天壱の回想
渓流の水音が、ひどく心地良い。
(ここは……何処だ……?)
そこは、左右を岩肌に囲まれた谷底だった。
岩に囲まれて陽射しがあまり入らず、昼間なのに薄暗い。
(胸のあたりが重い……ん?)
天壱は腕の中の少女に気づくと、慌てて身を起こした。
口元に手をあて呼吸を確認してから、安堵する。
「痛ッ……、強く打っちまったみたいだな。すぐに動くのは無理か……」
天壱は両腕と右足の傷を見て、痛みをこらえる。
よほど高いところから落ちたのだろう。見上げても崖の天辺が見えなかった。足を踏み外したと悟ったとき、反射的に結子をかばう体勢をとったのが良かったようだ。そして、下界を流れるこの渓流に落ちたことも二人に幸いした。
「うう…ん」
「……結子」
見たところ結子に外傷はないようだ。とりあえず、どこか休めるところを探そう、と天壱は立ち上がる。
少し歩くと岩穴があった。このあたりの地理はわからないが、妖鬼に遭遇しないとは限らない。人間である結子を晒すわけにはいかなかった。
「……ん……天壱?」
「痛いところはないか」
「ない」
「そうか……」
結子が目覚めると、そこは何処かの岩穴だった。日が暮れたのかあたりは暗い。
崖へ落ちたことは覚えているが、何時間たったのかわからなかった。
天壱は拾ってきた枝を使って、火を熾していた。
万里たちとはぐれてしまったので、吸い筒と携帯電話以外は何も持っていなかった。
「……怪我したの? やっぱり……私のせいだよね?」
天壱は着物の袂を破って、傷口にあてていた。
「たいしたことはない、一日休めば回復する。それより、鞘がないから剣には触れるなよ」
「また暴走するってこと?」
「ああ、妖鬼に反応するようだしな。鞘から抜かなければ問題ないだろうが……今はその鞘がない」
「はぁ〜。この先どうしたらいいの……」
膝を抱えて丸くなる結子に、天壱は優しい眼をむけた。
「大丈夫だ。お前は暁の巫女だから、思うままに剣を扱えるはずだ。それより、俺たちもはぐれちまったから、左近のことをウツケ者呼ばわり出来なくなったぞ」
さも残念そうに語るので、結子は笑った。
「そういえば……あの妖鬼は何だったの? とても気持ち悪かったよね? カマドウマみたいな胴体してさぁ」
「そのとおり、ヤツの本性は竈馬だ。便所蟋蟀とも呼ぶ……いや、まてよ。あいつの場合はオカマ野朗ってのが一番しっくりくるな」
「オカマ野朗……?」
「竈馬の別称は───オカマコオロギだ」
「そのまんまじゃん」
オカマで、オカマコオロギの妖鬼。二人は肩を震わせながら笑った。
「いいもの見せてやるよ」
天壱が岩穴の外へ出たので、結子も後を追った。
周囲を岩に囲まれてはいるが、そこから見上げると満天の星が煌いていた。
「キレイ……」
「あぁ」
二人は互いの顔と夜空を交互に盗み見る。気づかれぬよう、飽きることなく繰り返し、そうしてしばらくの間、美しい夜空に見とれていた。
岩穴に戻ってから、天壱は眠ることなく火を絶やすこともなかった。
「……ん……寒い」
寝返りをうった結子が、無意識にも寒いと訴え丸くなる。
岩穴の中はさほど広くはないが、入口を塞ぐ物がないので風が吹き込んだ。渓流へ落下した二人の着物は濡れたままだった。
(寒いのか……。いくら火を焚いたところで、着物が濡れていちゃあどうにもならねぇ)
こんな時に夜叉丸がいてくれたら、と天壱は唇を噛締めた。ひとり旅では、雨だろうと雪だろうと気にしなかったが、結子が一緒では気が気でない。
(今だけ……今だけだ)
天壱は迷うことなく着物と袴を脱ぎ捨てた。募る思いを抑えるように、冷えた身体にそっと寄り添う。
「解……」
小さな声で囁いてから彼は思う。
いつからだろうか。主ではなく、警護の対象ではなく──ひとりの女性として結衣姫を意識し始めたのは…。
(あいつが……貴枝郁巳が現れてからだ)
およそ百年前───六國のひとつ、滅ぼされた磨那国の民が暁へと避難していた頃。
磨那の後継者だった貴枝郁巳は、病弱なこともあり幼き頃より暁へと、度々(たびたび)療養に訪れていた。
結衣姫より四つ年上の少年は、妙に大人びたヤツで、守護四家にとっては目障りな存在だった。だが、客人であり警護の対象であったため、邪険にするわけにもいかなかった。
結衣姫が懐いていたから面白くなかったのかもしれない。
だが、それ以上に気に入らなかったのは、結衣姫を見つめる郁巳の眼差しだった。幼き頃に芽生えた友情が、いつしか愛情へとかわることに時間はかからなかった……郁巳は暁の領主へ、結衣姫との婚儀を申し入れたのだ。
領主は、今はまだ、婚約という形のみとする───ことを承諾させ、受け入れた。
ほぼ同時に降って湧いたような妖王への人身御供の問題──。
この二つの出来事に、天壱は頭を鈍器で叩かれたみたいな衝撃を受けた。
そして気づいたのだ──いつまでも五人ではいられないことに。少女への想いが忠誠心でも家族愛でもないことに。
(……気づくのが遅すぎた……何もかも……あの頃の俺には)
「むにゃ……天壱ぅ……あったかいねぇ」
どんな夢を見ているのだろうか。つらく悲しい過去を思い出しては欲しくない──天壱はいたわるように、眠る結子の身体を引き寄せる。
結子は銀色の獣に包まれる──身も心もあたたまる夢を見ていた。
妖鬼に見つかることもなく無事朝を迎えた二人だった…が。
「いやあぁぁっ、天壱の助平!! 何考えてるのよッ」
寝ぼけ顔の天壱は、平手打ちされて覚醒した。
まだ頬がヒリヒリしている。結子はなぜか岩穴から逃げ出してしまった。
「ん……怒っているのか? なんでまた……」
「いいから早く袴を着て――っ!!」
後を追いかけて外へ出た天壱は、自分が素っ裸だったことにようやく気づいた。
(いけねぇ! 全裸はマズイだろっ)
昨晩は、寒がる結子に添い寝していたのだ。
着物をすべて脱いだのは理由あってのことなのだが、力を使ったことはまだ彼女に話せない。
「悪かった、なにもしてねぇから、安心しな」
「当たり前でしょ!!」
袴を身につけながら、結子の様子を探ると耳まで赤く染めている。
どう弁解するべきか迷うところだ。
想いビトに変態扱いだけはされたくない、と天壱は思う。
「……それ、斑紋みたいだよ。ヒルに吸われたからなの? 痛い?」
両腕全体に紫色をした斑紋が浮き上がっている。
(この斑紋……まるで両腕を失った時の……)
天壱は知らずなにか思いつめたような面持ちをしていた。
「ヒルのせいじゃない。痛くもないし、これは力が原因で浮かびあがっただけだ」
「でも昨日は力を使ってなかったよね」
「気にするな。それとも……目障りか? なるべく目につかないよう注意はするが」
「そんなことない、そんなことないよ……ただ」
(痛くないなら、どうしてそんなにつらそうな顔をしているの?)
結子は天壱の表情に言い知れぬ不安を覚えた。
「ああ―っ、姫さん、見〜っけ!」
上空から翼を広げた左近が降りてくる。
「助かった。さすがにこの崖を登るのはしんどいからな」
「うおっ、天ちゃん、なんで上半身裸なの? しかもボロボロじゃん。やっぱり俺がいないとダメだな〜、ここからは俺にまかせときなッ!」
「うっきぃ」
左近の肩で夜叉丸もニカッと笑った。