目的地まで、およそ8分です
街灯に照らされた、街路樹を眺めながら歩いた。
金木犀はもう香らない。
でも、一瞬だけ金木犀の匂いがした気がした。
緩やかな上り坂。
ヒールの音が響く。
ファミレスの看板が見える頃には、
少しだけ足が痛んだ。
スニーカーで来ればよかった。
1枚目の開き戸を開ける。
持ち手の冷たさが刺さった。
体ごと扉を引く。
2枚目の自動ドアをくぐった。
暖かい空気が通り抜ける。
空っぽだった胃が、少しだけ動いた。
レジには誰もいない。
目的のテーブルはすぐに見つかった。
少しだけ、胸を張って歩く。
片付けのされていない、
テーブルが何席もあった。
「久しぶり」
彼の頭に向けて言う。
「よう」
視線はハンバーグに落ちたままだ。
「わざわざ職場の近くまでごめんね」
「最近仕事が忙しくて」
ソファ席が異常に硬い。
足元に落ちている割り箸が気になった。
「なんか食う?」
4人がけのテーブルが広い。
「私は大丈夫」
「店入ってなんも頼まないのはダメでしょ」
丸い呼びベルを押す。
三回目でやっと電子音が鳴る。
左右に小さく揺れながら、女性の店員が来る。
「ドリンクバーを一つください」
「ドリンクバーは人数単位でお願いします」
彼に視線を向ける。
無言で頷く。
「じゃあ二つで」
「コップあちらにあります」
どちらか分からない。
「私取ってくるけど何がいい?」
「炭酸系」
「コーラ?スプライト?」
「ファンタかな」
何も言わずにドリンクバーに向かった。
白のティーカップと、
プラスチックのコップを手に取る。
製氷機から氷を取り出す。
何個もくっついていてコップに入らない。
もうこの店に来ることは無い。
コーヒーマシンが抽出している間に、
ファンタのボタンを押す。
ボタンを押す時間がやたら長かった。
「置いとくね」
何も言わない。
「食べ終わるの待った方がいいかな?」
「いや、続けていいよ」
鞄から封筒を取り出す。
中で小さな金属が動いた。
「これ、渡したかっただけだから」
彼は封筒を逆さにして、手のひらにそれを出す。
─鍵。
「こんなもん、ポストに入れるとかでいいのに」
「わざわざこんな時間に呼びつけて」
こちらを一瞬見て、すぐ逸らす。
「これは私のケジメだから」
「ケジメって…」
馬鹿にしたように笑う。
「ケジメの割には、返すのに一ヶ月もかかったね」
「それは…」
正面を向けない。
テーブルの調味料に視線を逃がす。
息を吐く。
「待ってたんだけどね」
彼がこちらに視線を向ける。
「そんなの伝わらないよ」
テーブルを右手の人差し指でトントンする。
機嫌が悪くなるといつもこれだ。
私も視線を合わす。
「もういいよ、もう無理だよ」
「そんなの意味分からなすぎる」
食べ終わった食器をテーブルの隅に寄せる。
「私、これ飲んだら帰るから」
裏で雑談する店員の声が耳につく。
窓の外で殺虫灯が紫色に光っている。
「実家に帰ってゆっくりしてるの?」
爪楊枝の入った容器に手をかける。
「私もう実家に居ないよ」
「じゃあどこにいるのよ?」
「もう…関係ないでしょ」
爪楊枝を取らずに元の位置へ戻す。
「まだ荷物残ってるんだけど」
「面倒だけど、全部捨ててくれる?」
「もう、戻ってこないの?」
「だから、最初からそう言ってる」
─長い沈黙。
「私そろそろ行くね、終電だし」
立ち上がり、伝票に手をかける。
時計の上から、彼の手に捕まる。
重りがついた腕を振り払う。
彼の腕が力なく落ちた。
「送るよ」
今日の会計は彼が払った。
私が先に店から出る。
自動ドアをくぐる。
扉を押す。
開き戸が異常に軽かった。
冷たい空気を吸い込む。
白い息が空に消えた。
ピピッと音がして彼の車が点灯する。
助手席を開ける。
嗅ぎなれた芳香剤の匂い。
私の形に少し沈んだシート。
「家どこ?」
「ここから近くの駅でいい」
「いいよ、どうせ車だから」
「駅がいいの」
金木犀が揺れた。




