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白いウサギの月曜日

作者: masaya
掲載日:2026/05/13

ウサギを追いかけたのは、夢の中だと思っていたからだ。鏡を見るたびに自分の顔が少しずつ変わっているような気がする。と、沢渡有里さわたりゆりは思っていた。高校二年の春、十七歳。顔が変わっているというのは比喩で正確に言えば、自分の中に棲んでいる何かが、少しずつ違う方向を向き始めているような感覚。それが成長なのか変質なのか有里には判断がつかなかった。四月の第三週の月曜日、始業時間まで十二分というタイミングで有里は駅の改札を抜けた。いつもより三分遅い。原因は自分で分かっていた。朝ごはんを食べながら読んでいた文庫本の最後の一章が気になってページをめくる手が止まらなかった為。母に三回呼ばれ四回目にようやく立ち上がった。本の続きは鞄の中にある。でも続きを読んだところでたぶん謎は解けないと有里は思っていた。その本は最後まで読んでも謎が謎のままで終わる種類の小説だったからだ。

駅から学校までは徒歩八分。走れば六分で着く。信号が全部青なら五分半。有里は小走りになりながら頭の中でルートの最適解を計算する。こういう計算をするのが昔から好きであった。無駄に思えて無駄じゃない数字と現実のすり合わせ。母は「あなたは理屈っぽい」と言い、父は「合理的だ」と言い、担任の木村先生は「もう少し感情で動いてみなさい」と言った。三者三様の評価を受けながら有里はどれも正解だと思っていた。角を曲がったとき白いものが目に入る。最初は犬だと思った。が、白い犬が路地の奥に駆け込んでいく。でも足が止まった瞬間、有里は気づいた。犬にしては耳が長すぎる。足の動かし方が違う。体の比率が、どこかおかしい。


——ウサギだ。


白いウサギが月曜日の朝の住宅街を全力で走っていた。有里は三秒ほど立ち尽くし、それから学校のある方向とウサギが消えた路地を交互に見る。頭の中で声がした。——行ってはいけない。授業が始まる。遅刻するかもしれない。でも白いウサギが住宅街を走っていることへの疑問が、合理的な判断をほんの少しだけ上回り、有里は路地に入る。後から考えれば、これが最初の間違いだった。いや、間違いとは言えないかもしれない。ウサギを追いかけなければ何も起きなかった。


でも何も起きなければ——あの夏に死ぬ人間がいた。


どちらが正しかったのか有里はいまでも時々考える。路地は思っていたより長い。左に曲がり、右に折れ、また左に。住宅の間を縫うように続く細い道を有里は走る。ウサギの白い背中が角を曲がるたびに視界の端に見える。追いつきそうで追いつけない。もどかしさと奇妙な興奮が混ざって有里の足は止まらなかった。そして路地の突き当たりに古いマンションが出てくる。四階建て外壁はくすんだベージュ。鉄の外階段が錆びている。玄関の自動ドアは半開きのまま止まっていて、内部の蛍光灯がちかちかと点滅していた。エントランスに立てかけてある案内板には「ハイツサニー若葉」とある。隣の空き地には工事中の看板があったが、何年も放置されているように見えた。ウサギはいない。マンションの中に入ったのかそれとも有里が見失ったのか。有里は玄関前で立ち止まり呼吸を整える。汗が首の後ろを伝い、時計を見る。と、もう始業まで五分を切っている。帰るべきだ。そう思った。が、半開きの自動ドアの隙間から何かが見える。床に赤いものが滴っている。

有里の思考が一瞬止まった。が、次の瞬間、もっとよく見ようと一歩踏み込む。赤い液体がエントランスの古びたタイルに広がっている。量はそれほど多くない。が、色は鮮明で、鮮度があった。


——血だ。と、有里は直感で理解する。


同時に冷静な別の声が言った。違うかもしれない。絵の具かもしれない。赤い飲み物かもしれない。確認しなければわからない。有里はスマートフォンを取り出し、ライトをつけて床を照らす。粘度がある。色が濃い。においを確認しようとして、やめた。血のにおいを嗅いだことがないから確認しても意味がないと思い直したからだ。その代わりに有里は液体が来た方向を追う。玄関から廊下を奥に進む。と、階段の下に小さな管理室がある。扉は閉まっており、でも扉の下の隙間から赤い液体が染み出していた。有里の心臓が早く鳴り始める。扉をノックすべきか。警察を呼ぶべきか。立ち去るべきか。頭の中で三択が浮かぶ。ノックするのは危険かもしれない。けれど、扉の向こうに誰かいるなら、時間が惜しい。有里はドアノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。扉を開いた瞬間、有里は息を呑む。管理室の中には白髪の老人が倒れていた。六十代か七十代。灰色のカーディガンを着て床に横向きに倒れている。右手の横に割れたガラスの器が転がっていた。器の中に入っていたらしい赤い液体が床に広がっている。有里は一瞬止まって液体のにおいを嗅ぐ。甘い香り。果物のような。


——血じゃない。


梅のシロップか何かだろうと有里は解釈する。しかし、それより重要なのは老人が動いていないことだ。有里は膝をつき老人の肩に触れる。「すみません」と声をかけ、老人の体は温かい。数秒後、老人が目を開く。

「——誰だ」

かすれた声。老人は目の焦点が合っていない様子で天井を見つめている。有里は「通りかかった者です。大丈夫ですか」

「転んだ。頭を打ってしまい、起き上がれない」

有里はすぐに救急車を呼ぶ。電話をしながら老人の様子を観察する。呼吸はある。脈もある。意識はあるが、目がまだぼんやりとしている。頭を打っているなら動かさない方がいい。有里は救急の指示に従いながら、老人の手を握った。

「名前を教えてもらえますか」

「沢木。沢木義雄だ」

「沢木さん、救急車が来るまでここにいます。動かないでください」

「——あんた、学校はいいのか」

有里は思わず苦笑し、「今日は遅刻します」

救急車が来るまでの約七分間、有里は老人の手を握り続ける。その間に老人は何度か意識を失いかけ有里は声をかけ続けた。外では春の風が吹き、マンションの古い壁の向こうで小鳥の歌声が聴こえてくる。そして有里は部屋の隅に白いものが見えることに気づいた。ケージの中に白いウサギがいたのだ。大きな耳、赤い目、白い毛並み。ケージの扉が半開きになっている。有里が入ってきた時、ウサギは逃げ出したのかもしれない。いや、そもそも有里がここに来たのはこのウサギを追ってきたからだ。なぜウサギが外を走っていたのか。なぜ自動ドアが半開きだったのか。なぜ老人は倒れていたのか。点と点が、薄い糸でつながっていく。救急車が遠くからサイレンを鳴らしてやってくる。担架に乗せられる老人の手を有里は最後まで握っていた。有里が学校に着いたのは一時間目が終わった後のこと。遅刻届を提出しホームルームの担任に経緯を簡潔に説明する。担任の木村は最初こそ眉をひそめたが、「救急車を呼んだのか」と確認してから、表情を変えた。「それは正しい判断だった」と頷く。

二時間目の英語は有里の頭にほとんど入ってこなかった。白いウサギのことを考えていた。正確には白いウサギに象徴される疑問のことを。老人が転んだのは偶然か。マンションの玄関が半開きだったのはウサギが逃げたからか。けれど、ウサギが自分でドアを開けることはできない。誰かが開けたのか。なぜ。有里は授業中にノートの端に書き留めた。


「ウサギはなぜ外にいたか」


これが始まりだった。昼休み有里は図書館へ向かう。目的はネットで「ハイツサニー若葉」を調べることだったが、図書館のWi-Fiに接続してキーワードを打ち込んでも、目立った情報は出てこなかった。住所を調べて地図で確認するとそのマンションがあった場所は有里の通学路からほんの少しだけ外れた住宅街の中だった。築四十年以上。現在の管理組合についての情報はない。次に「沢木義雄」で検索をする。よくある名前だからか絞り込めなかった。有里は検索をやめ、別の角度から考える。朝、ウサギが走っていた。ウサギは老人のペットだった。老人が倒れていたのはウサギが逃げ出した後か前か。もし前なら、ウサギは老人が倒れたことと関係ない。もし後なら、誰かがウサギを放したことになる。


——誰かが、というのがひっかかった。


老人が倒れたのは、転んだ、せいだと言っていた。けれど、頭を打って意識が朦朧としている状態でウサギのケージを開けることができるか?否。ならばウサギは老人が倒れる前に逃げ出した?でもケージの扉は半開きだった。老人が開けたのかそれとも誰かが開けてそのまま去ったのか。推理が膨らみ、しぼむ。根拠が足りない。有里はノートを閉じる。放課後、有里は救急車が搬送した病院を調べ電話する。「今朝、沢木義雄という方が運ばれたと思うのですが」と伝えると、担当の看護師から「ご家族ですか」と聞かれ、「違います。発見した者です」と答えると、少し待つように言われた。五分後、「命に別状はありません。軽い脳震盪でした。本日中に退院の見込みです」とも教えてもらった。有里はほっとした。それと同時にもう一つの疑問が浮かんだ。——家族はいないのか、と。救急車を待っている間、有里は老人の家族に連絡すべきかと迷っていた。が、老人は「自分でやる」と言い、有里がスマートフォンを差し出すのを断った。搬送される直前老人は「一人だ」と呟いた。誰に言うでもなく、ただそう言った。

有里はその言葉を、昼休みにも、放課後にも、思い出していた。夕方、有里はもう一度ハイツサニー若葉の前に立つ。マンションの外観は朝と変わらなかった。自動ドアはきちんと閉まっおり、エントランスに人影はない。有里は少し迷ってからインターフォンの一覧へ目をやる。二〇一号室から四〇五号室まで並んでいるが、名前が書いてあるプレートの多くが空白だった。管理室の横に「管理人室」とあり、そこだけ手書きで「沢木」と書いてあった。有里は管理人室のインターフォンを押すが返事はなかった。当然だ。老人はまだ病院にいる。有里は引き返しかけて、止る。管理室の窓がわずかに開いていた。朝には閉まっていた気がする。いや、確認していなかった。でも何かが、有里の足を止めた。窓から室内を覗く。と、白いウサギがケージの中にいる。朝と同じ場所に、おとなしく座っている。ケージの扉は今度はきちんと閉まっていた。誰かがウサギを戻したのだ。有里の中で、何かが動いた。翌日の火曜日、有里は放課後に病院へと向かった。面会可能時間に間に合うように授業が終わった後すぐ行動に移していた。受付で「今朝搬送された沢木義雄さんにお会いしたい」と、伝えると、少し待つよう言われる。担当の看護師が来て「患者本人が会いたいと言っている」と教えてくれた。四人部屋の窓際のベッドに老人はいた。昨日より顔色がよく白髪を短く刈り込んで、目は細く、でもよく動く。有里を見て少し驚いたような顔をしてから「来たのか」と口にする。

「来ました」

「座れ」有里は椅子に座り、

「沢木さんですよね。昨日の」

「ああ。あんたが電話してくれたのか」

「はい。よかった、軽傷で」

老人はしばらく黙って有里へ視線を向ける。値踏みするような目ではなく、何かを確認するような目だった。

「なんで来た」

有里は少し考え正直に答える。「ウサギのことが気になっていて」

「ウサギ」

「昨日の朝、外を走っていたウサギを追いかけてきたんです。管理室で沢木さんが倒れているのを見つけました。でも昨夕にマンションの前を通ったらウサギがケージに戻っていました。誰が戻したのかと思って」

 老人は目を細め、「よく見てるな」

「気になるので」

「——誰が戻したと思う」

「管理室の鍵を持っている人間か合鍵を持っている人間かと思います。でも沢木さんが一人暮らしで家族がいないなら、それは限られる。住人か、別の管理関係者か」

老人はしばらく黙っていた。が、静かに、「あんた、名前は」

「沢渡有里です」

「沢渡」老人は繰り返し、「沢があって渡す、か。おれと同じ水の字だな」

有里は少し笑い、「そうですね」

沢木義雄は七十二歳でハイツサニー若葉の管理人を十四年間務めていた。妻は八年前に亡くなり子供はいない。マンションの住人は現在十二世帯だが実際に住んでいるのは半分以下だという。

「建て替えの話が出ていてな」「五年前から。でもまとまらん」

「住人の意見が分かれているんですか」

「それだけじゃない」老人は少し間を置き、「複雑なんだ」

有里は「複雑」という言葉の重さを感じる。踏み込んでいいかどうか迷った。が、老人の目が続きを語りたそうにしていた。

「何が複雑なんですか」

老人は天井を見てから有里に視線を戻す。

「先週の木曜日に住人の一人が死んだ」

 有里の背筋に、冷たいものが走る。

「事故ですか」

「発表はそうなっている」「でもおれは、そう思っていない」

ハイツサニー若葉の三〇二号室に住んでいた男性、片岡哲也かたおかてつや、五十四歳。先週木曜日の夜、四階のベランダから転落して死亡。警察は「誤って転落した可能性が高い」と、して事故として処理しているという。だが沢木義雄には引っかかることがあった。

「片岡は建て替えに一番反対していた住人だった」「口も態度も悪かったが権利主張は正確だった。あいつがいなくなれば反対派は一気に弱まる」

「建て替えに賛成している側に利益がある。と」

「ある——大きな利益が」

有里は頭の中で地図を描き始める。賛成派と反対派の構図。片岡という人物の死。そして老人が「事故ではない」と思っている理由。

「沢木さんが転んだのも」と有里は言いかけ——

老人は有里を見るなり、「転ばされた、かもしれんと思っている」

沈黙が床へ落ちる。有里は冷静に整理する。老人が「転ばされた」と、感じるには根拠があるはずだ。

「何か見ましたか」

「あの朝、管理室に入る前に誰かと会った気がするんだ」「はっきりとは覚えていない。頭を打ったせいかもしれない。でも人の気配を感じた。それから足が滑った。床が濡れていたんだ」

「床が濡れていた」

「管理室の床は乾いているはずなんだが、水が漏れる場所もない。それが濡れていた」

有里は考えた。濡れた床で老人が転んだ。それが故意なら誰かが水を撒いた。そして老人が転んだ後、ウサギを逃がした。なぜ。

「ウサギを逃がしたのは、助けを呼ぶためじゃないかと思います」と有里は言う。

老人が目を見開き、

「ウサギが逃げれば誰かが追いかけてくるかもしれない。実際、私が追いかけました。もしウサギが逃げなければ、私は管理室を発見しなかった。沢木さんが何時間も倒れたままになっていた可能性がある」

「——つまり、ウサギを逃がした人間はおれを助けようとした」

「あるいは、おれを殺そうとした人間とは別の人間がウサギを逃がした。どちらかです」

老人はしばらく考え、「どちらだと思う」

「分かりません。でも、ウサギを逃がして逃げた人間が夕方にウサギをケージに戻している。それは少なくとも無責任ではない。ウサギのことを気にかけている」

「そうだな」

「住人の中に沢木さんの味方がいると思います」

老人の目が静かに揺れる。


有里は病院を出た後、夕暮れの道を歩きながら考え続ける。片岡哲也の死と、沢木義雄の転落。二つの出来事が建て替え問題と結びついている。もし片岡の死が事故でないなら、それは誰の利益になるか。建て替えを推進したい誰か。でも誰かを殺してまで建て替えを進めようとする動機は何か。マンション一棟を建て替えるというのは莫大な利益が動く話だ。有里はスマートフォンでマンション建て替えについて調べる。住人全員の同意が必要なケース、多数決で決まるケース、さまざまな条件がある。反対派が一人減れば、票が動く可能性はある。けれど、殺すほどの理由にはならないかもしれない、とも思った。有里は家に帰って夕食を食べながら、母に「老人が倒れているのを助けた」話をした。母は最初に「遅刻したの」と言い、次に「えらかった」と言い、最後に「でももう関わらないようにね」と言ってくる。有里は「うん」と答えながら、もう関わるつもりでいた。そりゃあここまで来たのだから関わるに決まっている。水曜日の昼休み、有里は図書館で登記簿について調べる。マンションの所有者が誰かを調べるには、法務局で登記簿謄本を取ればいいと分かる。しかし、高校生が一人で法務局に行くのは少し手続きが面倒だ。別のアプローチを考える。ハイツサニー若葉の住人に直接話を聞けないか。沢木老人の顔見知りを探せないか。


放課後、有里はマンションの前に立つ。エントランスに見知らぬ女性が立っている。六十代前後、白いブラウスに紺のスカート。上品だが疲れた顔をしている。有里が近づくと、女性は警戒したように体をこわばらせる。

「すみません」「沢木さんと知り合いの者です」

女性は少し表情を和らげ「あら。義雄さんの知り合い?」

「月曜日に倒れているのを発見しました」

 女性は目を見開き、「あなたが救急車を!」

女性の名前は中野幸子。四〇一号室に十五年住んでいる。沢木老人とは顔見知りで、片岡の死にひどく動揺していた。

「哲也さんは口が悪かったけど、悪い人じゃなかった。建て替えに反対してたのも、ちゃんと理由があったのよ」「でも転落なんておかしいわ。哲也さんは高いところが苦手だったのに」

「高いところが苦手だった」

「三〇二号室なのにベランダには絶対出ないって言ってた。洗濯物も全部室内干しで。そんな人がベランダから転落するなんて」

「警察にその話をしましたか」

「した。でも、こちらの感情的な話だと思われたのか、あまり取り合ってもらえなかった。事故と判断されたら、それで終わりなのかしら」

有里は考える。高所恐怖症の人間がベランダから転落する。それは偶然の可能性もゼロではない。でも確率は低い。

「建て替えを推進しているのは誰ですか」と有里は問うた。

「管理組合の理事長の、堀口さんよ。二〇三号室の」

「どんな人ですか」

「強引な人。以前は普通だったのに建て替えの話が出てから変わった。何年も粘って最近になって急に賛成多数になった。片岡さんが反対していたのに」

「片岡さんが死んで反対票が減りましたか」

「一票減った。今は賛成七、反対四。片岡さんが生きていたら五対六で反対多数だった」

有里の中で何かが固まる。反対六のうちの一人が殺された。それによって賛成多数に転じた。これは偶然の一致か、それとも計算された結果か。

「もう一つ聞いていいですか」「月曜日の朝、誰かウサギをケージに戻した人を知りませんか」

「——私が戻したのよ」

「あなたが」

「朝、ウサギが廊下を走ってくるのを見たの。管理室の扉が開いていた。義雄さんが倒れているのを発見して、でも私がスマートフォンを忘れてきたから、あなたに会う前に自分の部屋に戻っていたのよ。戻ってきたらもうあなたが電話してくれてて、救急車も来てた。ウサギは夕方に戻してあげたわ」

「では、沢木さんの前に管理室に入ったのは、あなたが最初ですか」

「そうなると思うけど。でも、管理室の扉は開いていたの。私が入る前から」

「床は濡れていましたか」

 幸子がはっとした顔で、「濡れていた。足が少し滑ったから、あら、って思ったの。でも動揺していたから、あまり気にしなかった」

床が濡れていた。老人が転んだのはその濡れた床が原因だった可能性が高い。幸子も滑った。これは人為的である可能性が大幅に高まった。

「幸子さん、一つお願いがあります」

「何かしら」

「今から、管理室に入れてもらえますか」

沢木老人は翌日、木曜日に退院する予定。それまでに管理室の状態を確認したかったのだ。幸子は合鍵を持っていた為、管理室入ることができた。管理室は四畳半ほどの小さな部屋。木製の事務机、古いパソコン、棚に並んだファイル。隅にウサギのケージ。白いウサギは有里を見て、耳を動かした。床を確認する。と、乾いていたが、ちりとりの下に微妙な変色がある。スマートフォンのライトで照らすと水で濡れた跡が乾いて薄い染みになっていた。

「この染みどこから水が来ると思いますか」

「配管は壁の向こうよ。でも漏れた様子はないわ」

「外から持ち込んだとしたら」

「——バケツとか、持ってきたということ?」

「あるいはペットボトルの水でも転ばせるのに十分かもしれません」

有里は部屋を見渡すが監視カメラはない。録音装置もない。しかし、棚のファイルが気になった。「マンション管理記録」「建替計画」「組合議事録」とラベルが貼ってある。

「これは見てもいいですか」

「義雄さんに聞かないといけないわ」「でも……私が一緒にいればいいのかしら」

有里は組合議事録のファイルを開く。直近の議事録、三ヶ月前のもの。出席者の名前と発言内容が書いてある。賛成派と反対派の意見が細かく記録されていた。堀口理事長の発言は多く、強引な印象がある。片岡の反論は論理的で、内容も具体的であった。有里は一枚のメモ用紙が挟まっているのを見つける。手書きで「D社との契約内容について確認が必要。堀口が個人で交渉している疑い」と書いてある。沢木老人の字だろうか。有里は幸子に見せ、

「D社って何か知っていますか」

「ダイワ興産という不動産会社よ。建て替えを担当する予定の業者」

「堀口さんとダイワ興産の関係を調べれば、何かわかるかもしれません」

有里は写真を撮る。証拠として保存しておく必要がある。そのとき、マンションのエントランス側から足音が聞こえてくる。幸子が「誰かしら」と呟く。有里は素早くファイルを棚に戻し、管理室の窓から、エントランスの方向を見る。五十代くらいの男性が急いだ様子でエントランスを歩いている。ネクタイを緩めたスーツ姿、短い黒髪。電話をしながら声を低く抑えて話している。廊下を進み、階段の方向に消えていく。

「あの人が堀口さん?」

幸子が窓から覗いて、頷く。「そうよ。二〇三号室。最近、夜遅く帰ってくることが多いわ。何か急いでいるみたい」

有里は時間を確認すると、午後四時五十分。堀口は仕事を早退してきたのかもしれない。

「幸子さん、今日の夜、ここに来られますか」

「来られるけど、何をするつもりなの」

「堀口さんに話を聞きたい。でも私一人では怖いので、一緒にいてもらえますか」

幸子は戸惑った顔をしたが、「わかった」と頷く。有里は一度家に帰って夕食を食べ、宿題を少しだけ片付けた。午後七時半にハイツサニー若葉に戻る。と、幸子がエントランスで待っていた。

「来てたわ。二〇三号室の電気がついてる」

有里はインターフォンを押す。と、数秒の沈黙の後、男性の声が応えた。

「すみません。沢木さんのことでお話があります。沢渡と申します」

「——沢木さんの何」

「月曜日に救急車を呼んだのが私です。少しだけお話を伺いたいんです」

長い沈黙の後、ドアが解錠される。二〇三号室は有里が予想していたよりも整頓されている。男性の一人暮らしだろうと思っていたが、玄関に女性物の靴が揃えられている。リビングに案内されると、テーブルの上にビールの缶と半分食べかけの弁当が置いてある。

「堀口です」「妻は今、実家に帰っている」

堀口圭一、五十二歳。建設会社の営業部長。十二年前にハイツサニー若葉に入居し五年前から管理組合理事長を務めている。有里は隣に座った幸子を意識しながら堀口を見る。堀口は警戒している。でも頑なに拒絶する様子はない。むしろ、何かを話したそうに見えた。

「単刀直入に言います」

「片岡さんの死、それから沢木さんが倒れたこと、二つの出来事には共通点があると思っています」

 堀口の眉が動き、「何の話だ」

「建て替えに反対していた人間が立て続けに被害に遭っている」

「ちょっと待ってくれ。沢木さんの件だが、わたしは関係ない。聞いたのは月曜の昼だ」

「では片岡さんの件は」

「事故だ。警察もそう判断している」

「片岡さんは高所恐怖症だったそうですね」

「——それは——知らなかった」

「ダイワ興産との契約内容を組合員全員に開示していますか」

 堀口の顔が変わる。

「ちょっと待ってくれ。あんた、何者だ」

「ただの高校生です。でも沢木さんが倒れていたところを発見しました。それから幸子さんの話と管理室の状況を見て、月曜日の事件が事故ではないと判断しました。だから、堀口さんに直接話を聞きにきました」

「——事件」堀口は言葉を繰り返す。

「沢木さんは、転ばされた可能性があります」

「……」

「堀口さんがやったとは思っていません。けれど、堀口さんが何かを知っていると思っています」

堀口は沈黙する。長い沈黙。幸子が小さく咳払いをすると、

「圭一さん、私たちはあなたを責めに来たんじゃないの。本当のことを教えて。義雄さんも、哲也さんも、関係しているのなら」

 堀口は両手で顔を覆い、

「——まずいんだ」と、呟く。

「何が」と有里は静かに問う。

「ダイワ興産との交渉は最初はちゃんと組合の議題として進めていた。でも途中からダイワの担当者が個人的に話を持ちかけてきた。建て替えが成立すればわたしに個人的なリベートを払うと」

 幸子が息を呑む。

「断った。最初は——断ったんだ。でも会社の業績が悪くて子供の学費もあって、いろいろ重なって。気がついたら受け取っていた。一千万」

「住人にも秘密で」

「ああ」

「片岡さんはこのことを知っていたんですか」

「気づいていた。と、思う。最後の組合会で片岡が個別交渉について追求してきた。わたしは否定したが、片岡はあきらめなかった。あいつは——あいつは怖い男だった。論理で押してくる」

「片岡さんが死んだとき、堀口さんはどこに」

「家にいた。妻が証言してくれる」

「沢木さんが倒れた月曜日の朝は」

「会社にいた。八時には出社していた」

有里は計算した。沢木老人が倒れたのは有里がウサギを見た時間から逆算すると、午前七時四十五分から八時五分の間。堀口が八時に会社にいたなら、午前七時半過ぎにマンションを出ていなければ間に合わない。

「他に建て替えに賛成している住人は誰ですか」

堀口は名前を挙げた。三〇五号室の村山、一〇一号室の田中夫妻、四〇二号室の藤村、二〇五号室の吉田、三〇四号室の小野。

「その中で、片岡さんと沢木さんに恨みを持っている人は」

「みんな、片岡のことは嫌っていた。でも殺すほどか、と言われると——」

「ダイワ興産から、堀口さん以外にもリベートを受け取っている人はいますか」

 堀口は顔を上げ、「——いるかもしれない」

「誰ですか」

「藤村だ。あいつもダイワの社員だったかつての同僚を知っている。建て替えに以前から積極的だった」

 有里は名前をメモを走り書く。藤村。四〇二号室。

「藤村さんは何の仕事をしている人ですか」

「不動産コンサルタント。独立してから五年くらい。でも以前はダイワ興産にいた」

ダイワ興産の元社員がダイワ興産が手がける建て替えに関わっている。それは利益相反になり得る。

「もう一つ聞いていいですか?——堀口さんは、これからどうするつもりですか」

「分からない。受け取った金を返したくてもダイワが受け取らないかもしれない。建て替えを白紙に戻したくても、契約が進んでいる」

「警察に話せば」

「自分の不正がばれる。それでも構わない、と思いつつある。でも片岡の死との関連を疑われたら、もっと厄介なことになる」

「片岡さんを殺したのは堀口さんですか」

 堀口は有里を見る。目はまっすぐで、迷いがなかった。

「違う」

有里はその目を信じることにした。完全にではないが、八割は。

「もし違うなら、堀口さんも誰かに使われている可能性があります」

堀口の顔がこわばる。

「あなたに金を渡したダイワ興産の人間が片岡さんを殺した可能性があります。あるいは沢木さんを転ばせた人間がダイワと関係している可能性があります」

堀口は深く考え込む。

「ダイワの担当者は、最近、態度が変わった。片岡が死んでから。やけに自信に満ちて契約を急かしてくる」

「担当者の名前は」

「岩崎。岩崎隆司」

有里はその名前を記憶する。マンションを出たのは午後九時を過ぎていた。幸子は不安そうな顔で有里を見ていた。「これからどうするの」

「明日、沢木さんが退院します。一度、沢木さんと話し合います。それから警察に行きます」

「警察、行ってくれるの」

「行きます。でもその前に、もう少し情報を集めたい」

「気をつけて」

「はい」

有里は自宅に帰ると、母から「遅かったわね」と言われる。「友達と勉強してた」と躊躇いもなく嘘を口にする。母は信じたようで、信じなかったようで、何も言わなかった。

部屋に戻り、有里はノートを開く。

時系列を整理する。

・三月初旬:堀口がダイワ興産からリベートを受け取り始める

・四月初旬:片岡が個別交渉について追求し始める

・四月十一日(先週木曜日):片岡がベランダから転落、死亡

・四月十五日(月曜日):沢木が管理室で転倒、軽傷

・四月十六日(火曜日):有里が沢木と病院で会う

・四月十七日(水曜日):有里が幸子、堀口と話す

・四月十八日(木曜日):沢木退院予定

二つの事件はわずか四日の間に起きている。短い。誰かが急いでいる。建て替え契約を急いで成立させたい人間がいる。その「誰か」は、堀口の様子からするとダイワ興産の担当者、岩崎の可能性が高い。あるいは藤村。でも証拠がない。動機の推測はできるが決定的なものは何もない。有里はもう一つの問いに立ち戻った。


———ウサギを逃がしたのは誰か。


幸子が「最初に管理室に入ったのは自分」と言ったが、それは厳密に言えば違うかもしれない。沢木老人を転ばせた人間が最初に管理室に入っていた可能性がある。その人間が、ウサギのケージを開けた。


——なぜ。


沢木老人を転ばせて殺すつもりがなかったから。もし殺すつもりならウサギを逃がす必要はない。沢木を倒したまま立ち去れば何時間も発見されない可能性が高い。頭を打って意識を失ったまま放置されれば、命に関わる。だが、犯人はウサギを逃がした。誰かが追いかけて来て、沢木を発見することを期待した。つまり、犯人は沢木を「警告」しただけだった。殺すつもりはなかった。と、いうことは、片岡の死は犯人の予定通りだったのか。それとも片岡も「警告」が過ぎて死んでしまったのか。有里はもう一つの仮説に到達する。


———犯人は二人いる。


片岡を殺した人間と、沢木を警告した人間。後者は前者の暴走を止めようとしている。あるいは、後者は前者を脅すために、似たような手口で警告を残した。

もしそうなら、後者は犯人グループの中の良心であり、内通者になり得る。有里は朝まで考えた。木曜日、有里は早朝に学校に向かう前、もう一度マンションに立ち寄る。目的はウサギを観察することである。管理室の窓から見るとウサギはケージの中で寝ている。誰かが餌を入れていた。誰がウサギの世話をしているのか。有里は窓に張り紙がしてあることに気づく。手書きの紙が内側からテープで貼り付けてある。

「ウサギの餌は朝七時、夕方七時。野菜は新鮮なものを少量」

その下に小さな字で何か書いてある。有里は目を細め、

「コーラ、ありがとう」

コーラ。有里は息を呑む。ウサギの名前か、餌の何かか。それともコードネームか。有里は写真を撮る。学校に着いてから、有里は授業中ずっとそのメッセージのことを考えていた。「コーラ、ありがとう」。誰から誰へのメッセージか。ウサギの名前がコーラなのか。昼休みに有里は病院に電話し、沢木老人の退院時間を確認する。午前十一時の予定だという。有里は午後の授業を仮病で休む決心する。午前十一時二十分、有里は病院の出口で沢木老人を待っていた。老人は付き添いなしでゆっくりと歩いて出てくる。有里を見つけ、少しだけ表情を緩める。

「迎えに来たのか」

「家まで送ります」

「タクシーを呼んだ」

「私も一緒に乗せてもらえますか」

老人は頷く。タクシーの中で有里は端的に堀口との会話の内容を伝える。リベート、ダイワ興産、岩崎、藤村。老人は何度か頷きながら、目を細めて聞いていた。

「やはりな。堀口は不正をしていたか」

「気づいていたんですか」

「ある程度は。だから議事録にメモを残していた」

「他に気づいていたことはありますか」

 老人は窓の外を見ながら、「いや。でも、おまえの推理は概ね正しいだろう」

「沢木さん、もう一つ気になっていることがあります。ウサギの名前はコーラですか」

 老人は驚いたように有里を見るなり、「なぜ知っている」

「管理室の窓に、誰かが張り紙をしていました。コーラ、ありがとう、と」

 老人はしばらく黙った。それから静かに笑った。

「あれは、たぶん吉田が書いた」

「吉田、二〇五号室の」

「ああ。ウサギが好きで、よく管理室に遊びに来る。コーラはわたしのウサギだが、吉田もよく餌をあげていた」

吉田は建て替えに賛成派の住人だった。堀口の話によれば賛成派の中で行動的なメンバーの一人。でも、ウサギを「ありがとう」と呼ぶ人間が沢木老人を転ばせるとは考えにくい。有里は別の角度から考える。ウサギを逃がしたのが吉田だとしたら、なぜ。もし吉田が沢木老人を転ばせたなら、ウサギを逃がす理由はある。誰かに発見させるため。でも吉田が転ばせていないなら、ウサギを逃がす理由は別にある。沢木老人が倒れているのを発見した。と、いうシナリオ。吉田は管理室に何かの用事で寄った。倒れている沢木を発見した。けれど、自分が発見者になることに何らかの問題があった。だから救急車を呼ばずに、ウサギを逃がして、誰かが発見することを期待した。


——なぜ自分が発見者になりたくなかったか。


考えられる理由。

一、犯人を知っていて、自分が発見者になると共犯を疑われる。

二、自分も建て替えに賛成派で、利害関係者として疑われたくなかった。

三、別の理由。

タクシーがハイツサニー若葉へと到着する。老人を支え部屋まで送り、有里は管理室に戻る。沢木老人は管理室の隅の小さなベッドで休むと話す。

「これからどうする」と老人は問う。

「吉田さんに会いに行きます」

「気をつけろ」

「はい」

有里は二〇五号室のインターフォンを押す。返事はない。仕事に行っているのだろう。表札に「吉田」とある。有里は引き返そうとして、ふとマンションの掲示板に目をやった。住人向けの掲示物が並んでいる。回覧板の連絡、ゴミ出しのルール、消防点検の予定。その中に一枚、新しい紙があった。

「臨時総会のお知らせ。建替計画について。四月二十二日(月)午後七時、エントランスホール」

四日後。有里はその紙を写真に撮る。臨時総会で建て替えの最終決議が行われる予定なのだろう。賛成派の数が増えた今、堀口たちはこの機会に決着をつけるつもりだ。——時間がない。有里は午後の授業に戻る。最後の二時間だけ出席する。担任の木村に呼ばれた。「沢渡、最近様子がおかしい」有里は「すみません」とだけ答える。放課後、有里はもう一度マンションへ向かった。管理室で沢木老人と話をする。老人は少し顔色がよくなっており、コーラのケージの前に座り、ウサギに餌をやっていた。

「コーラ、いい名前ですね」

「死んだ妻がつけた。コーラが甘くて好きだったから、最初に飼ったウサギにコーラと名づけた。今のコーラは三代目だ」

「奥さん、コーラがお好きだったんですか」

「ああ。糖尿の気があったのに、こっそり飲んでた」

有里は微笑む。少しの間、二人で笑った。それから老人は真面目な顔に戻り、

「沢渡、ここから先はおまえが関わるべきじゃない。警察に任せろ」

「警察に行く前に、もう一人だけ確かめたい人がいます」

「吉田か」

「はい」

「あいつは悪い男じゃない」

「私もそう思います。だから話を聞きたい」

 老人は頷き、「今夜八時頃に帰ってくる。仕事帰りはいつも疲れている。話を聞くなら、明日の朝の方がいい」

「わかりました」

その夜、有里は家でノートを整理する。


——仮説——

仮説A:藤村が片岡を殺し、沢木を転ばせた。動機はダイワ興産との関係を守るため。

仮説B:ダイワ興産の岩崎が直接または間接的に関与した。動機は契約の成立。

仮説C:賛成派の住人のうち、藤村と岩崎以外の誰かが関与した。

仮説D:複数犯。片岡を殺した人間と沢木を転ばせた人間が別。


最も可能性が高いのはBと仮説Dの組み合わせだと有里は思った。岩崎が指揮を執り、藤村が実行した。そして藤村の中で沢木への襲撃時に「殺さない」という選択をした人間がいた。あるいは別の協力者がいた。その夜、有里は変な夢を見た。白いウサギが廊下を走っていた。追いかけても追いつかない。ウサギは「コーラ、ありがとう」と言いながら、笑っていた。有里は走り続けた。やがてウサギは振り返り、「沢渡、止まれ」と言った。声は沢木老人の声のようだった。有里は朝、汗をかいて目を覚ます。金曜日の朝、有里は六時半に家を出る。いつもより一時間早い。ハイツサニー若葉に着いたのは六時五十分。掃除をしていた沢木老人がいた。

「早いな」

「吉田さんはまだ部屋にいるはずですよね」

「七時半に出る。今ならまだ間に合う」

有里は二〇五号室に向かい、インターフォンを押すと、若い男性の声で応答があった。

「はい」

「沢渡と申します。沢木さんの代理で、ウサギの件でお話を伺いたいんです」

しばらくの沈黙、

「——今、開けます」

吉田は三十代半ばの男性。整った顔立ち。眼鏡をかけ、白いシャツに紺のネクタイ。教師のような、あるいは公務員のような、堅実な印象である。

「上がってください」と吉田は招き入れる。

二〇五号室はワンルームに近い1LDK。整然とした部屋。書棚に経済学の本が並んでいる。コーヒーの香りが漂っている。

「ウサギの件、沢木さんから聞きました」

「何を」

「あなたが、いろいろ調べているということ」

「吉田さんは月曜日の朝、何をしていましたか」

「七時に出社しました。仕事です」

「では、月曜日の朝七時より前、ハイツサニー若葉にいたわけですよね」

「はい」

「コーラを逃がしたのは、あなたですか」

 吉田は少し考えてから、

「はい」

 有里は息を吸い、

「なぜですか」

「沢木さんが倒れていたから」

「なぜ救急車を呼ばずに、ウサギを逃がしたんですか」

吉田は目を伏せた。「自分が発見者になりたくなかった。でも、放置できなかった。ウサギが逃げれば、誰かが追いかけてくる。コーラは賢いから、知らない人を見れば近づかずに逃げ続ける。誰かが発見するのは時間の問題だと思った」

「なぜ発見者になりたくなかったんですか」

 吉田は長く沈黙し、

「——藤村のことを、知っていたから」

「藤村さんが、沢木さんを転ばせたんですか」

「直接ではない。彼が手配したと思っている。ダイワ興産の岩崎に頼んで、外部の人間を使った」

「なぜ藤村さんはそんなことを」

「片岡さんの死が、想定外だったから」

吉田は深呼吸をして、口を開く、

「藤村は片岡さんに警告するつもりだった。建て替えの邪魔をするな、と。だから片岡さんの部屋に行った。話し合いのつもりだった。でも片岡さんは怒鳴って、藤村を追い出そうとした。藤村は怒って片岡さんを押した。片岡さんはバランスを崩してベランダの方に下がり、藤村はもう一度押した。そうしたら、片岡さんはベランダの柵を越えて落ちた」

「それを、吉田さんはどうやって知ったんですか」

「藤村が話したから」

 有里は驚き、「藤村さんが、自分から」

「藤村は追い詰められていた。片岡さんを殺すつもりはなかった。事故のつもりだったが警察の捜査が長引けば、自分が訪問した記録が見つかる。それで、わたしに相談してきた」

「なぜ吉田さんに」

「わたしは賛成派の中で藤村と一番付き合いがあった。同じ年代で、独身同士で、よく飲みに行っていた。それに、わたしは岩崎ともダイワ興産の件で話したことがある」

「岩崎さんとも、リベートの話を」

 吉田は頭を下げ、「断った。受け取らなかった。でも、岩崎が堀口さんと藤村に金を渡していることは知っていた。彼らに警告したかったが共犯のように見られるのが怖くて、何も言えなかった」

「沢木さんの件は」

「藤村は片岡さんが死んで一安心したのに沢木さんが議事録にメモを残していたことを知った。堀口さんから聞いた。沢木さんが個別交渉の疑いを書き残していると。それで沢木さんを怖がらせてメモを処分させようと考えた。床を濡らして転ばせる。その程度の警告のつもりだった。でも沢木さんは高齢で本当に頭を打って意識を失うかもしれない。藤村は救急車を呼ぶ余裕がなかった。それでコーラを逃がして誰かに発見してもらおうとした」

「藤村さんがウサギを逃がしたんですか」

「いえ。藤村は仕事に向かう途中で、わたしに連絡してきた。『沢木が倒れた、誰かに発見させてくれ』と。わたしは管理室に行き、コーラを逃がした」

「藤村さんが直接救急車を呼べばよかったのでは」

「自分が発見者になるリスクを避けたかった。片岡さんの件もあったから警察と接触したくなかった」

「吉田さん、これから警察に行きませんか」

 吉田は顔を上げ、

「証言してください。今あなたが話してくれたことを、警察にも話してください」

「自分も、共犯になりますか」

「正直に言えば、なる可能性はあります。でも、自首と捜査協力で罪は軽くなるはずです」

「家族にどう説明したらいい」

「ご家族は」

「妻と子供がいる。妻は実家にいる、今は」

「わたしは、コーラを助けたかっただけなんだ」と吉田はつぶやいた。「片岡さんのことは、止められなかった。沢木さんのことも、最後まで止められなかった。せめてコーラだけは、助けたかった」

有里はその言葉を聞いて、何かが胸の中で動いた。吉田は悪人ではない。臆病で、決断ができない人間だった。でもウサギを助けたいという気持ちは本物だった。

「沢木さんに会いますか?沢木さんに直接、話しませんか」

吉田は涙を浮かべながら頷く。有里と吉田は管理室に向かう。沢木老人は朝の掃除を終えて、コーラに餌をやっていた。吉田を見ても驚いた様子はない。

「来たか」

吉田は深く頭を下げ、「沢木さん、申し訳ありません」

老人は何も言わずに、餌を入れ続ける。

「藤村が手配したんです。私は止められなかった。コーラを逃がして、助けようとしました。でも、間に合うかどうかわからなかった。本当に、申し訳ありません」

「立て」

吉田は頭を上げ、

「おまえがコーラを逃がしたから、おれは生きてる」と老人は続け、「それでいい」

「沢木さん」

「警察に行け。全部話せ。そうすれば、おまえは生き直せる」

吉田は何度も頷く。有里は二人を見て何も言えなかった。何か言うべきことは二人の間にはもうないと思った。その日の午後、有里は吉田と一緒に警察署に行った。吉田は刑事に詳しく事情を説明する。藤村のこと、岩崎のこと、堀口のリベートのこと。証拠として、有里が撮った写真と、自分が保存していたメールや録音もあった。刑事は熱心にメモを取りながら、何度も「これは——」とつぶやいていた。夜になって、有里は警察署を出た。帰り道で空を見上げてみる。春の夜空。星はほとんど見えなかったが月だけがはっきりと明るい。有里は不思議な気持ちであった。何かを成し遂げた感じはない。むしろ、悲しみが強くあった。藤村も吉田も堀口も、追い詰められた人間たちだ。彼らは悪を選んだが、選び方には人間らしさがあった気がする。片岡だけは死んでしまった。彼にとっての正義は、最後まで遂げられなかった。けれど、沢木老人は生きている。コーラも生きている。建て替えの臨時総会は中止になるだろう。マンションの未来は、また話し合いから始まる。それで十分か、と有里は自分に問うた。分からなかった。


翌週の月曜日、藤村が逮捕された。続いて岩崎、堀口、吉田。報道は控えめだった。建設業界の不正、マンション住人を巻き込んだ事件、不動産会社の元社員と現職管理組合理事長の逮捕。地方ニュースの一部として伝えられただけだった。しかし、ハイツサニー若葉の住人にとって、それは大きな事件だったろう。有里は二回ほど警察に呼ばれあ。刑事は丁寧で、有里の証言を細かく聞いた。「君が高校生でなかったら、もっと早く解決していたかもしれない」と一人の刑事が言った。「いえ、君が高校生だったから、解決したのかもしれません」と別の刑事が訂正した。有里は答えなかった。どちらが正しいかは、自分にもわからなかったから。


五月の連休が明けた頃、有里はもう一度ハイツサニー若葉に行く。マンションの外観は変わらない。古い建物。錆びた外階段。半開きの自動ドアも今度はきちんと閉まっていた。管理室で沢木老人は朝刊を読んでいた。コーラがケージの中で眠っている。

「臨時総会は」

「中止になった。住人が落ち着いてから改めて議論する」

「建て替えはどうなりますか」

「分からん。しかし、住人全員が納得する形で進めるしかない。ダイワ興産との契約は破棄になった。新しい業者を探すかどうかも、これからだ」

「それでいいんですか」

「いいんだ」老人は紙面から目を上げ、「ゆっくり考えればいい。マンションも、人生も」

有里は頷く。コーラがケージの中で目を覚ます。耳をぴくりと動かし、有里を見た。

「コーラ、また会えたね」と有里は微笑む。

ウサギは何も言わず、ただじっと有里を見ていた。別れ際、沢木老人は言った。

「また来てくれ」

「はい」

「コーラがおまえを待ってる」

 有里は笑いながら、はい、と、答えた。マンションを出て有里は来た道を戻る。路地を抜けて、住宅街を歩いて、駅に向かう。あの月曜日に走った道。でも今日は走らない。歩いた。考えていた。なぜ自分はウサギを追いかけたのか。あの瞬間、合理的な判断は学校に向かうことだった。けれど、有里は路地に入った。理由はウサギが住宅街を走るのが不思議だったから。それだけだった。不思議に思うこと。たぶん、それが入り口だったのだ。その後の三週間で有里は多くのことを知った。建て替え問題の複雑さ、人間の弱さ、不動産業界の闇、警察の手続き。十七歳の自分には重すぎる情報量だ。


けれど、その全部が、最初の「不思議」から始まっていた。


もしあの日、合理的に学校に向かっていたら。沢木老人は何時間か、もしかしたら半日、誰にも発見されずに倒れていた。命に関わったかもしれない。建て替え契約は予定通り進行し藤村と岩崎と堀口は罪を問われずマンションは取り壊されていた。片岡の死は事故として処理されたまま、誰も真相を知らなかった。有里は自分の小さな「不思議」がそれだけのことを動かしたことに軽い眩暈を覚えた。駅のホームで電車を待ちながら、有里はスマートフォンで朝刊のサイトを開く。事件の続報はもうない。地方の小さな事件は、すぐに忘れられる。それでいい、と有里は思った。大きな事件ではなくていい。世間が騒ぐ必要もない。ただ、関係する人たちが少しずつ前に進めればそれで十分。電車が来た。乗り込んで、窓際の席に座る。車窓から春の朝の街が流れていく。新緑が眩しい。空は晴れていた。有里は鞄から文庫本を取り出す。あの月曜日から読まずに置いていた本。最後の一章。ページを開く。主人公が結局謎を解けないまま、ただ、自分が変わったことに気づく、という結末だった。


有里は本を閉じる。謎を解いた。これは違う種類の物語。でも、主人公が変わったことに気づくのは、同じ。有里は窓の外を見続ける。二週間後、有里は学校で担任の木村に呼ばれる。進路相談だった。

「沢渡、最近、よく考えるようになったね」と先生は言った。

「考えてました」

「将来、何になりたい」

有里は少し迷ってから答える。

「弁護士か、検事か、警察官か。まだ決められません。でも、人の話を聞く仕事がしたいです」

 先生は目を細め、

「合理的だな」

「いえ」「合理的じゃないです。人の話を聞くのは、合理的じゃない。時間がかかるし、感情に振り回されるし、結論が出ないこともある」

「それでも」

「それでも、聞きたいんです」

木村は頷き、

「沢渡、おまえは少し変わったな」

「ですよね」

有里は笑った。その日、放課後に、有里はもう一度ハイツサニー若葉に向かった。管理室で沢木老人がコーラに餌をやっている。有里を見て、少し驚いたような顔をしてから、笑った。

「また来たな」

「来ました」

「茶でも飲むか」

「いただきます」

老人は急須を出し、緑茶を淹れてくれた。湯呑みは欠けており、お茶の表面に欠片の影が映る。それが妙に美しかった。有里は座って、お茶を飲んだ。

「コーラ、もう逃げないですか」

「ケージの鍵を新しくした。でも、たまにわざと開けてやる」

「なぜ」

「ウサギにも自由が要る」

有里は笑う。窓の外で風が吹いた。古いマンションの壁に、春の終わりの光が当たっていた。有里はお茶を飲み終わると、立ち上がり、

「また来ます」

「いつでも来い」

帰り道、有里はもう一度同じ路地を歩く。あの月曜日に走った道。今日は逆方向に歩いている。住宅街の細い道をゆっくり、と。空には雲が浮かんでいた。風があった。有里は気づいた。自分は、ウサギを追いかけて、ここに戻ってきた。出発点と終着点が同じ場所だ。けれど、自分は前とは違う人間。その違いを有里はゆっくりと味わう。甘くも苦くもない、ちょうどよい温度の何かが、胸の中に。角を曲がると目の前に駅が見える。有里は歩く。歩きながら、笑っていた。なぜ笑っているのか、よくわからなかった。でも、笑いは止まらなかった。自然と出てくる笑いだ。白いウサギは、もう走っていない。でも有里の中で、まだ走っていた。走り続けていた。たぶん。

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