第3話「月光の追及と隠された傷」
夜の神殿は、重苦しい静寂に沈んでいた。
石造りの廊下は冷たい月光を照り返し、歩くたびに微かな足音が反響する。
リアンは壁に手をつきながら、重い足取りで自室へと向かっていた。
昼間に噴水で吸収した呪毒の代償は、夜になって明確に牙を剥き始めていた。
骨の髄まで凍りつくような悪寒と、呼吸のたびに肺を焼くような痛みが全身を駆け巡る。
指先から失われた体温は戻らず、吐き出す息さえも白くかすんでいるように錯覚した。
誰にも見つからないよう、ただひたすらに痛みに耐えるしかなかった。
自室の扉が見えた時、リアンは安堵の息を漏らす。
しかし、その扉の前に深い影が落ちていることに気づき、歩みを止めた。
暗がりの中から、静かに立ち上がる人影があった。
「遅かったな」
感情を押し殺した、ひどく静かな声だった。
エリアスだ。
月光に照らされた彼の横顔は、彫刻のように冷たく、一切の隙がない。
リアンは息を呑み、後ずさりしそうになる足を踏みとどまらせた。
「こんな夜更けに、何をしている」
努めて平坦な声を取り繕う。
だが、震える声帯は隠しきれなかった。
「それはこちらの台詞だ」
エリアスがゆっくりと一歩を踏み出す。
軍靴が石畳を叩く音が、死刑宣告のように重く響いた。
「昼間の不調を引きずったまま、夜の街を徘徊していたのか」
彼との距離が縮まるたびに、圧倒的な圧迫感がリアンを包み込む。
「ただの散歩だ」
リアンは壁から手を離し、姿勢を正して反論する。
「君に報告する義務はないはずだ」
「専属護衛としての俺の目を盗んでまでか」
エリアスが立ち止まる。
二人の距離は、わずか腕一本分だ。
エリアスから放たれる熱気が、リアンの凍えきった肌に触れるほど近い。
「お前は何かを隠している」
エリアスの青い瞳が、リアンの全身を射抜くように観察する。
乱れた呼吸。
青ざめた唇。
不自然な姿勢。
全てを見透かされているような恐怖が、リアンの背筋を駆け上がった。
「何も隠していない」
リアンは強がって視線を返す。
「疲れているんだ」
言葉の途中で、唐突に激しい咳が喉を突いて出た。
口元を覆った手のひらに、生温かい感触が広がる。
鼻を突くのは鉄の匂いだ。
血だった。
暗がりのおかげで鮮血の色は隠せたが、むせ返るような血の匂いはごまかせない。
「リアン」
エリアスの顔色が変わる。
彼が手を伸ばしてきた瞬間、リアンは咄嗟に身を翻して逃げようとした。
だが、病に蝕まれた体は思うように動かない。
瞬時に距離を詰められ、背後から荒々しく壁に押し付けられた。
「痛っ……」
背中を打つ鈍い衝撃が走る。
両首根を壁に押さえつけられ、完全に逃げ場を失った。
「離せ」
リアンが暴れるが、エリアスの腕は鉄の枷のようにびくともしない。
「血の匂いがする」
エリアスの顔が、リアンの首筋に擦り寄るように近づく。
彼の荒い呼吸が、リアンの冷たい肌を焼き付けるように熱い。
「どこを怪我した」
怒りではなく、深い絶望と恐怖が混じった声だった。
「どこも……怪我なんて」
「嘘をつくな」
エリアスの手が、リアンの顔を強引に自分の方へと向けさせる。
月光に照らし出されたリアンの口元には、一筋の赤い血が伝っていた。
それを見た瞬間、エリアスの瞳孔が大きく見開かれる。
「……何をした」
絞り出すような声だった。
「お前は、俺の知らないところで、何を背負い込んでいる」
エリアスの指先が、リアンの血を拭い取るように頬に触れる。
その手が、かすかに震えていることにリアンは気づいた。
強くて、完璧で、絶対に折れることのない彼が、たった一滴の血でここまで狼狽している。
その事実が、リアンの胸を締め付けた。
『ごめん』
言葉に出せない謝罪が、喉の奥でつかえる。
「君には……関係ないと言ったはずだ」
リアンは震える声で、彼を突き放すための最後の言葉を紡いだ。
「僕の体に何が起きても、君が責任を感じる必要はない」
その言葉が引き金だった。
エリアスの瞳に、暗く激しい炎が燃え上がる。
彼はリアンを壁に押し付けていた手を離すと、そのままリアンの細い体を力強く抱き寄せた。
「ふざけるな」
耳元で吠えるような声が響く。
骨が軋むほどの強い抱擁だ。
逃がさない。
絶対に手放さないという、狂気にも似た執着が全身から伝わってくる。
「お前が壊れていくのを、俺にただ見ていろと言うのか」
エリアスの体温が、リアンの冷え切った体を溶かすように流れ込んでくる。
熱い。
痛いほどに熱かった。
「お前が一人で死ぬくらいなら」
エリアスの声が、低く、呪いのように甘く囁く。
「俺がこの手で、お前を暗闇の底に繋ぎ止める」
その狂気に満ちた宣言に、リアンは絶望とともに、抗えない甘い痺れを感じていた。
突き放そうとすればするほど、彼は深く絡みついてくる。
運命の歯車が、前世とは違う形で、しかし確実に破滅へ向かって狂い始めていた。




