第1話「逆行の朝と変わらぬ熱」
登場人物紹介
◆リアン
類まれな治癒魔法を持つ心優しい青年。
幼い頃に孤児だったところを神殿に引き取られた。
他者の傷や呪いを自らの体に移し替えることで癒やすという秘密を抱えており、常に他者のために己を犠牲にする危うさを持つ。
一度目の人生で大切な相棒を守れなかった後悔から、死に戻った今世では一人で全てを背負い込もうと奮闘する。
◆エリアス
王都で最強と謳われる若き天才騎士。
リアンとは幼少期からの幼馴染であり、現在は彼を守る専属護衛を務める。
一見すると冷静沈着で隙のない美青年だが、リアンに対してのみ異常なまでの執着心と過保護さを見せる。
過去にリアンに救われた経験から、彼のためなら世界を敵に回すことも辞さない狂気的なまでの忠誠心と深い情愛を秘めている。
凍りつくような死の気配が、唐突に肺の奥から抜け落ちた。
代わりに流れ込んできたのは、ひどく甘ったるい香の匂いだ。
弾かれたようにまぶたを跳ね上げる。
視界を焼き尽くすほどの眩い朝日が、網膜を鋭く突き刺した。
酸素を求める肺が痙攣し、喉の奥からかすれた呼吸音が漏れ出す。
シーツを握りしめる指先には、確かな布の質感が残っていた。
つい先程まで全身を侵していた、あの黒い泥のような呪いの冷たさはどこにもない。
心臓が早鐘を打ち、肋骨の内側を激しく叩きつける。
生きている。
その事実を脳が処理するよりも早く、重厚な木製の扉が乱暴に開け放たれた。
蝶番が軋む鋭い音が、静寂に包まれた部屋の空気を切り裂く。
「リアン」
低く、ひどく焦燥に駆られた声だった。
踏み込んで来た長身の影が、床に落ちた陽光を遮る。
銀糸を紡いだような白銀の髪が、乱暴な動きに合わせて揺れていた。
氷のように冷たい青の双眸が、ベッドの上で身を固くするリアンを真っ直ぐに射抜いている。
王都最強の騎士であり、リアンの専属護衛であるエリアスだ。
だが、その顔つきはリアンの記憶にある彼よりも、わずかにあどけなさを残していた。
身に纏う騎士の制服も、三年前に新調されたばかりの装飾だ。
『戻って、きた』
声にならない言葉が、乾いた唇の隙間から滑り落ちそうになる。
死の淵で強く願った奇跡が、本当に起きたのだ。
エリアスがベッドの脇に膝をつき、リアンの顔を覗き込んだ。
「顔色が悪い」
端的な言葉の裏に、隠しきれない動揺がにじんでいた。
「どこか痛むのか」
革手袋に包まれた大きな手が、リアンの頬に伸びてくる。
その指先が肌に触れた瞬間、リアンはビクッと肩を震わせた。
「……なんでもない」
声がひどく掠れていた。
リアンは努めて平静を装い、エリアスの手をそっと押し返す。
「ただの、悪い夢を見ただけだ」
エリアスの眉間に深いしわが寄る。
押し返された手が、空中で行き場を失ったようにわずかに硬直した。
「悪い夢」
反芻する声は、地を這うように低い。
「お前が息を止める夢か」
図星を突かれ、リアンの心臓が大きく跳ねた。
前世でリアンが命を落とした瞬間、エリアスはまさにこの目をしていたのだ。
全てを失い、世界を呪うような、暗く深い絶望の色。
もう二度と、彼にあの顔をさせてはいけない。
そのためには、エリアスを自分から遠ざける必要がある。
彼がリアンに執着しすぎるあまり、共依存のような関係に陥っていたことが、前世の悲劇を加速させた一因でもあったからだ。
「大げさだ」
リアンは無理に唇の端を引き上げ、乾いた笑いを作った。
「僕はどこも悪くない」
シーツをめくり、冷たい床に裸足を下ろす。
立ち上がろうとした瞬間、足から力が抜け、膝が折れそうになった。
死の記憶が引き起こした幻肢痛のような重だるさが、全身にまとわりついている。
「リアン」
倒れ込むよりも早く、強靭な腕がリアンの腰を抱き留めた。
背中に密着したエリアスの胸板から、熱い体温が衣服越しに伝わってくる。
「離して」
リアンは短く言い放ち、その腕から逃れようと身じろぎした。
「一人で歩ける」
だが、腰に回された腕の力は緩むどころか、さらに強くリアンを締め付けた。
「嘘をつくな」
耳元に落ちた吐息が、鼓膜を熱く撫でる。
エリアスの声には、抑えきれない怒りと、それを上回るほどの切実な響きが混じっていた。
「お前の体温が、いつもより低い」
鋭い指摘に、リアンは息を呑む。
エリアスの五感は、リアンの些細な変化を決して見逃さない。
それは前世から変わらない、彼特有の異常なまでの執着だった。
背中に張り付く熱から逃れるように、リアンは小さく身をよじる。
「気のせいだ」
振り絞るように声を出した。
「少し、冷え込んだだけだ」
これ以上、彼に踏み込ませてはいけない。
リアンは自らの使命を胸に刻み、無理やりエリアスの腕を振りほどいた。
よろめきながらも数歩距離を取り、冷たい石の壁に手をつく。
手のひらから伝わる痛いほどの冷たさが、ぼやけそうになる意識を現実に繋ぎ止めていた。
振り返ると、エリアスが空になった両手を見つめたまま、立ち尽くしている。
その瞳の奥に渦巻く暗い炎から、リアンは逃げるように目を逸らした。
窓の外では、王都の朝を告げる鐘の音が、無情なまでに規則正しく鳴り響いていた。
やり直しの時間が、静かに幕を開けたのだ。
自らの命を削ってでも、今度こそ彼を生き延びさせる。
冷え切った指先をきつく握り込み、リアンは誰にも見えない決意を飲み込んだ。




