第二章 魔女科学研究所01
商業都市マガーリッジ。多くの実業家たちが集うその街にローズマリー・クィン――ロージーは十七年間と過ごしてきた。彼女はいわゆる資産家の令嬢である。街でも有数の大豪邸で日々を過ごし、掃除などの面倒な雑用は十数人の使用人に任せ、腕利きの料理人による豪勢な食事に舌鼓を打つ。それが彼女の日常であった。
自分は恵まれている。彼女はそれを自覚していた。ゆえにその環境に胡坐を掻かないよう自身を厳しく律していた。人の幸福はお金では決して買えない。幸せとは努力でのみ獲得できるものだ。彼女はそれを信じて淑女として必要な教養を懸命に身に着けた。その絶え間ない努力は、どのような逆境にも負けないという確固たる自信を彼女に与えた。
(そう……だから私はこんなことでは決して負けませんわ)
小鳥のさえずりが聞こえてくる早朝。普段ならふかふかのベッドで目を覚まし、カーテンから差し込んでくる温かな朝日を浴びている頃だろう。だが現在、ロージーはふかふかのベッドではなく、冷たくて硬い床の上にいた。日当たりの悪い窓から温かな朝日など差し込むはずもなく、狭苦しい部屋全体がどこか冷えた空気に満たされている。
「何だお前。まさか寝てねえのか?」
声を掛けられてロージーは俯けていた視線を上げた。彼女の目の前にいる一人の青年。黒ジャージ姿に首筋でまとめた黒髪。ナイフのように鋭利な黒い瞳。貸金業を営むヘヴンズライフの職員で、滞納者に対して脅迫まがいの取り立てを行う犯罪者――デッドだ。
「……当然ですわ」
一晩中座り込んでいたことで痛んだ尻を動かしながらロージーは碧眼を鋭くした。
「男性の方と同じ屋根の下で安心して眠れるはずがないでしょう。眠っている間に何をされるか分かったものではありません。貴方のような犯罪者ならば特にです」
「やれやれ……信用ないもんだ」
「貴方のどこを信用しろと?」
ポニーテールにした金髪を指で梳かしながら「そもそも」とロージーは唇を尖らせる。
「どうして男性である貴方がベッドの上で、女性である私が床の上に寝かされなければならないのですか? 普通逆でしょう。レディーファーストをご存知ないのですか?」
「何が普通かは知らんが……この部屋は俺が借りているもので、お前は居候なんだぞ。家主である俺がベッドを使うのは当然だろうが」
デッドの言う通り、日当たり最悪で息が詰まるほど狭苦しいこの部屋は、デッドが借りているアパートの一室だった。ロージーが暮らしていた豪邸とは環境が天地ほどに異なる。ロージーが一睡もできなかったのはその環境の変化も理由のひとつであった。
「居候だと文句を言うぐらいなら、こことは別に私の部屋を借りて下さい。それなら私のベッドも置くことができますし、貴方がいないから安心して眠ることもできます」
「その部屋の賃料とベッドを含めた家具一式の金は誰が払うんだ? お前まさか忘れたわけじゃないだろうな。お前の父親が経営していた会社は潰れたんだぞ。お前はもうお金持ちのお嬢様じゃない。それどころかお前は借金のカタに俺たちに売られたんだぜ」
ロージーはぐっと言葉を詰まらせる。父が経営していたクィン商会。それが倒産したことでロージーはヘヴンズライフに売られた。もはや以前のような生活に戻ることはできない。ロージーはそれを改めて自覚する。
「一応は担保ってことになっているからな。一年間はお前に手を出さない約束だ。だがそれでも自分の立場は弁えろ。それと言葉遣いがまた戻ってんぞ」
「……分かっているわよ」
ロージーは仏頂面のまま立ち上がると痛んだ尻をさすりながら歩き出した。
「どこに行く?」
デッドからの問い。ロージーは足を止めながらも彼には振り返らず淡々と答えた。
「シャワーを浴びるのよ。替えの服も下着もないんだもの。体ぐらい綺麗にしたいわ。別に逃げるつもりはないから安心して。それとシャワー中は絶対に覗かないでよ」
「さっきも話したがお前の我儘を聞いてやる義理なんぞ俺には――」
「の・ぞ・か・な・い・で」
ロージーは碧眼を尖らせて背後のデッドをギロリと睨みつけた。デッドが口を閉ざして肩をすくめる。彼の素っ気ない返答を確認してロージーはまた歩き出した。
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当然ながら、このようなアパートに使用人などいない。それはつまり掃除や食事の準備などの家事全般を自分自身がやらなければならないということだ。全くもって信じがたい事実である。だがそう思う反面、実のところロージーは密かな自信を抱いていた。
確かに家事の経験などない。だが使用人の働きはすぐそばで見てきたのだ。何をすればいいのかなど大体把握している。何よりも自分は淑女として様々な教養を身に着けてきた。家事ぐらい一般人よりも完璧にこなすことができる。余裕綽々でクリアして見せる。そう考えていたのがほんの数分前――
ロージーはそんな甘い幻想を抱いていた当時の自分をひどく遠くに感じていた。
「……なんだ? この皿に乗せられた炭は」
デッドが皿に乗せられた目玉焼き――になるはずだった炭の塊――をフォークでツンツンと突く。デッドの皮肉にロージーは怒り半分恥ずかしさ半分に声を荒げた。
「い、イヤなら食べなければ良いでしょ! それに私はわざわざ貴方の分まで作ってあげたのよ! 文句の前にお礼を言ったらどう!?」
「お前が朝飯ぐらい自分一人で作れると大見得切ったんじゃなかったか?」
ロージーは声を詰まらせる。シャワーを終えた後、ロージーはデッドに朝食について尋ねた。その質問に「自分で用意しろ。無理なら生で食え」とデッドが答えたため、ロージーは馬鹿にされたと感じて「朝食ぐらい作れるわ」とつい大見得切ってしまったのだ
我ながら子供じみた反発といえる。そしてその結果がこれだ。ロージーは顔をしかめると「それにしても、おかしいわ」と皿に乗せられた目玉焼きをじっと見つめた。
「目玉焼きなんて初めて作るけれど、フライパンで生卵を焼くだけの簡単な料理に過ぎない。本来なら失敗しようがないはずだわ。きっとフライパンかガスコンロに異常が――」
「異常なのはお前の料理の腕だ」
デッドが炭と化した目玉焼きをパクリと頬張る。文句言いながらも食べはするらしい。ロージーもまた仏頂面ながら目玉焼きをナイフで切り分けフォークで口に運んだ。当然の如く苦い。ロージーは咀嚼もほどほどに目玉焼きをごくりと呑み込んだ。
「今日も取り立てに出掛けるのかしら?」
目玉焼きの苦味を水で流し込みつつロージーはそう尋ねた。彼女に問いに「そりゃあな」と簡潔に答えるデッド。分かり切っていたその返答にロージーは肩を落とす。
「またあのような脅迫まがいなことをして人からお金をむしり取るわけね」
「借りた金を返さない奴はクズだ。気遣ってやる必要はないな。それに比べたら、お前の父親は立派なもんだ。なにせ娘を売っぱらってでも借金を返そうとしたんだからな」
咥えた煙草の先端に火をつけながらデッドがニヤリと笑う。つくづくいい性格している。彼の言葉がただの挑発だと理解しながらもロージーは苛立ちを募らせた。
「……貴方の言い分も分かるけど、だからと脅迫などの犯罪行為を肯定することにはならないわ。お金なんかのために他人の命や人生を踏みにじるなんて間違っている」
「またその話か。昨日説明したはずだ。この世界の全てが金に換算できる。人の命も人生もな。金がないのなら、そいつの命や人生を換金して支払ってもらうしかないだろ」
「この世の中にはお金なんかより大切なものが沢山ある。まだ分からないの?」
「お前の言い分が仮に正しいとして、だったらどうする? 泣き寝入りしろと?」
「そうは言ってない。ただやり方に問題があると話しているの。滞納者の方々にも事情があるでしょうし、きちんと話を聞いて少しぐらい返済を待ってもいいじゃない」
「何とも頭がお花畑な意見だな」
「私の何が間違っているというの?」
ロージーの苛立ち交じりの反論。デッドの鋭利な瞳が音もなく細められていく。
「生まれてすぐ掃いて捨てるほど金があった奴には理解できねえのさ。金の本質が一体何なのか、それがどれだけ重大な意味を持っているのか、お前は気付いていない」
「……どういう意味よ?」
「ただ贅沢するために必要なものが金だと考えているなら大きな間違いだってことさ。金の本質はそんなことじゃない。金はあらゆるものの代替品だ。人の命や人生が換金できるのなら、その逆もまた然りってことだ」
デッドは一体何を話しているのか。お金は贅沢をするための手段だ。お金を求めることそれ自体は否定しないが、お金に対する利己的な執着は他人を往々にして不幸にする。デッドがお金のために滞納者を苦しめているように。そのような浅ましい考えは捨てて他人の気持ちを最優先に行動する。それが正しい人の在り方であるはずだ。
(そんな簡単なことがなぜ分からないの?)
デッドは恐らく適当な屁理屈でこちらを煙に巻こうとしているのだろう。何とも姑息なやり方だ。その不満が顔に出ていたのか、デッドが咥え煙草のまま肩をすくめる。
「納得できないなら別にいい。それより早く飯を食っちまえ。今日は朝から――ん?」
ここでピンポーンと間の抜けたチャイム音が鳴らされる。来訪者に心当たりがあるのか「もう来たか」と玄関に歩いていくデッド。彼が玄関の扉を開こうとしたところ――
扉を突き破り現れた巨大なパンチンググローブがデッドを殴り飛ばした。
「ぐほぉおお!?」
デッドが豪快に床を転がる。ロージーは突然の出来事に唖然としながらもデッドを殴り飛ばした巨大なパンチンググローブを観察した。グローブにはこれまた巨大なバネが取り付けてある。どうやらそのバネの反動を利用して対象を殴り飛ばす仕掛けらしい。
「ぐへへへ。命中しましたねえ」
個性的な笑い声を漏らしながら一人の少女が玄関に現れる。年齢が十代半ばほどの少女だ。可愛らしくツインテールにされた若葉色の髪に小動物を彷彿とさせる丸々とした緑色の瞳。フリルが大量にあしらわれたエプロンドレスを着用しており、パンチンググローブとつながった筒状の物体を両手に持っていた。
「いっっ……お前、いきなり何しやがる!?」
デッドが床に尻もちをつきながら吠える。あれだけ派手に転倒したのに煙草を咥えたまま離さなかったのはある意味で流石だ。デッドの怒声に緑髪の少女がポイっと筒状の物体を脇に捨ててニッコリと微笑む。
「怒らないでくださいよお。だってデッドさんって全然隙を見せてくれないんですもん。不意打ちでもしないとデッドさんをぶん殴れないじゃないですかあ」
「なんでぶん殴ることがマストなんだ!?」
「大切に育てていたサボテンが今朝枯れちゃてて悲しかったんですよお」
「とどのつまり、ただの八つ当たりか!?」
「……あの」
生産性のない二人の会話にロージーは躊躇いながらも声を割り込ませた。少女の視線がデッドからロージーへと移り、「あっ」と今更気づいたように少女が手を鳴らす。
「貴女がロージーさんですねえ。話は聞いてますよお。お父さんが作った借金の担保にされちゃったんですよねえ。可哀想ですねえ。同情しちゃいますよお」
「は、はあ……」
「しかもよりによってデッドさんに預けられるなんて運が悪いですう。デッドさんってデリカシーなくて自分勝手で毒舌で色々と大変だったんじゃないですかあ?」
「嬉しい! 分かってくれるの!?」
少女の的確すぎる言葉にロージーは表情を華やかにした。デッドが「勝手なこと抜かしやがって」とぼやいているも当然無視。思わず涙までこぼしそうになりながらもロージーは「それはそうと」と少女に疑問を尋ねる。
「貴女は一体誰? 事情を知っているようだからヘヴンズライフの人なのかしら?」
「ああ、これは失礼しましたあ」
少女がなぜかピシリと敬礼のようなポーズをしてスラスラと自己紹介を始める。
「あたしはニキータと申しますう。ロージーさんが想像していた通りでヘヴンズライフの人間なんですよお。これからお世話になると思うので宜しくお願いしますう」
「こ、こちらこそ宜しくね、ニキータさん」
ハキハキとした少女――ニキータにそう返答してロージーはすぐに首を傾げる。
「だけどニキータさんのような女の子が貸金業で働くなんて危なくない? それともまさかニキータさんのような子供まで借金のカタに売られてしまったの?」
「いえいえ、違いますよお。あたしがヘヴンズライフにいるのは借金とは無関係ですし、現場にも行かないので危なくないですう。あたしの仕事はただの情報伝達ですからあ」
首を傾げるロージーにニキータが「つまり」と微笑みながら指を一本立てる。
「弊社のトップ――金勇王の意志を従業員に伝達することがあたしの役目ですう」




