第一章 ヘヴンズライフ01
ローズマリー・クィンの父親。シェード・クィン。彼は国内でも有数の貿易商――クィン商会を経営している。会社の業績は毎年安定して黒字計上するぐらいには順調であり、大多数の人が信頼している一流の大手企業だと言えた。それだけに一体誰が予想できただろうか。大企業たるクィン商会が――
突然倒産してしまうなどと。
「はっはっは。いやはや参ったよ」
キングストン聖女学院から車で三十分。見るからに寂れた大衆食堂。ヒッチコック食堂。体格の良い角刈りの中年男性が店主を務めているその店にローズマリーはいた。傷だらけのテーブルを挟んで彼女の対面に座っている父親、シェードがひどく軽薄な様子でテーブルに置かれたパスタをモソモソと食べる。
「むぐむぐ……会社を大きくするのは大変だけど、終わってしまう時はホント一瞬なんだね。はむ……むぐむぐ……これはとても良い社会勉強になったよ。はっはっは」
「倒産って……し、しかし会社の決算報告書では事業が順調であると――」
「ああ、あれって嘘なんだ」
シェードがパスタを巻きつけたフォークをハラハラと振る。
「色々な数字を上手いことちょろまかして誤魔化していたんだよ。実のところ僕の会社は多額の借金を抱えていたんだ。会社運営を不可能にするだけの莫大な借金をね」
「そんな――」
「料理――食べないのかい?」
シェードが唐突に話を変える。ローズマリーは僅かに表情を歪めると、目の前のテーブルに置かれているハンバーグを見下ろした。形がひどく不格好で焦げ付いたハンバーグ。ローズマリーが普段口にしている高級料理と比較して見るからに質が悪い。
ローズマリーは躊躇いながらもナイフとフォークを手にする。ナイフの刃にべったりとこびりついた油。洗い残しだろう。これまた普段の食事ではあり得ないことだ。ナイフの油を紙ナプキンでふき取り、ローズマリーは改めてハンバーグをナイフで切り分ける。
ナイフで切り分けたハンバーグをフォークで口に運ぶ。ジューシーさの欠片もないパサパサしたハンバーグ。肉本来の味がなく異常なまでの塩気を感じる。ローズマリーは堪らず口の中にあるハンバーグを水で流し込んだ。
「まあ潰れてしまったものは仕方ないよね」
シェードがフォークに巻き付けたパスタをパクリと頬張る。話の内容のわりに態度がひどく軽い。他人事のようだ。シェードが口の中のものを呑み込みニコリと笑う。
「これから僕は大企業の社長ではなく多額の借金を背負うただの無職だ。だから申し訳ないけど、ロージーをキングストン聖女学院に通わせるだけの経済的余裕がもうないんだ」
「そんな……ことが……」
ローズマリーは頭を強く殴られたような衝撃を感じた。国内でも有数の大企業。その社長令嬢から一転。多額の借金を抱えてしまったのだ。一体自分はどうなってしまうのか。ローズマリーの胸中に不安が広がっていく。
(い……いけません。しっかりしなければ)
ローズマリーは膨らんだ不安を打ち消すように頭を振った。パスタを朗らかな表情で頬張る父。その姿に悲観的な気配など微塵も感じられない。だがそんなことあるはずがない。辛くないはずがない。娘に心配を掛けまいと父は気丈に振る舞っているのだろう。
(きっとそうに違いありませんわ)
パスタを備え付けの調味料で味変している父の姿に心がやや揺らぎつつも、ローズマリーはそう自身に言い聞かせた。このような辛い状況である時にこそ家族で支え合わなければならない。ローズマリーは気を引き締めると背筋をしゃんと伸ばした。
「お話しは分かりました。まだいささか信じられない思いもありますが……学校のことはお気になさらずとも結構です。この危機を乗り越えるために私も協力いたしますわ」
「おお、それは助かるよ」
にこやかに笑うシェードにローズマリーは一つ頷いて自身の覚悟を口にする。
「ではまず節約のため屋敷にいる使用人の数を減らしましょう。シェフと数人の家事手伝いさえいれば十分に生活していけるはず。私も自分の部屋の掃除などは可能な範囲で努力いたしますわ。車も数台を残して売却してしまうのも良いかも知れませんね」
これまでの豊かな生活からの脱却。その決断には大きな覚悟が必要だろう。だがローズマリーはその辛い決断をした。貧しい生活へ堕ちる覚悟を固めたのだ。
しかしどういう訳か、ローズマリーの覚悟ある言葉を聞いてシェードの表情が露骨に曇る。きょとんと首を傾げるローズマリー。シェードがひどく言い難そうに口を開いた。
「えっと……使用人はもう雇えないかな。車も全部手放さないとね」
シェードの予想外な言葉に、ローズマリーは「え?」と目を丸くした。
「で、では屋敷の掃除や食事の支度などはどうするのでしょうか? それに車を全部手放してしまっては、買い物などに出掛けられないではありませんか?」
「それら家事は全部自分たちでやらないとね。それと外出時の移動は基本徒歩になる」
「な、なるほど。そ、そのようなやり方もあるのですね」
ローズマリーは表情を険しくする。使用人や車を全て手放す。そのような突飛な考えはまるで頭になかった。これが世間一般的な貧しい生活というモノなのだろうか。
「しょ、承知しました。少々厳しそうではありますが何とかしましょう。ち、因みにピアノなどを含めたお稽古も、少し数を減らした方が宜しいのでしょうか?」
「数を減らすというより全部やめてもらうことになると思うよ」
「え、ええ、もちろん。そのつもりです。と、当然のことですわ」
シェードからの返答にローズマリーは慌てて頷いた。まさか稽古さえも辞めなければならないとは。動揺するローズマリーにシェードがさらに耳を疑うような発言をする
「そもそも屋敷も差し押さえられるから手放さなければいけないんだ」
「え……ええええええええ!?」
ローズマリーははしたなくも声を荒げた。相変わらず美味しそうにパスタを食しているシェード。平然としているその父にローズマリーは表情を強張らせながら口早に言う。
「そ……それはつまり、私たちの住む家がなくなるということですか?」
「まあそうだね」
「そうだねって……わ、私たちはこれからどう暮らしていけばよいのですか?」
「そのことなんだけどね――」
またパクリとパスタを頬張り、シェードがゆっくりと瞳を鋭くしていく。
「ロージーの生活についてはある人に――ある組織に一任することになったんだ。実はこの食堂に来たのもその組織の人間と顔を会わせるためなんだよ」
「そ、組織ですか?」
「約束の時間はもう過ぎているんだけどね。時間にルーズで困ったものだ――と?」
ここで食堂に一人の男が入店する。ローズマリーは半ば反射的に入店した男に振り返った。二十代前半の若い男だ。首筋でまとめられた艶のない黒髪。ナイフのように鋭利な黒い瞳。黒いスーツに黒いロングコートと黒ずくめの恰好であり、それはまるで空間に投影された漆黒の影のように思えた。
「噂をすれば――おおい、デッド」
シェードが黒髪の男を呼ぶ。こちらへと近づいてくる黒髪の男。その彼に妙な緊張感を覚えるローズマリー。彼女たちのテーブル席にドカンと座り黒髪の男が嘆息する。
「探したぞ。待ち合わせるならこんな裏路地にある店じゃなく分かりやすい店にしろよ」
「はっはっは。いやはや済まないね。このあたりで一番安く食事ができるのがこの店だったのさ。君もよく理解しているだろうが、なにせ金欠状態なものでね」
黒髪の男と親しげに話をするシェード。見覚えのない男だが父の友人だろうか。娘からの怪訝な視線に気付いたのだろう。シェードが黒髪の男を手で示して紹介を始める。
「こちらヘヴンズライフのデッドさんだ。ロージーも挨拶をして」
天国の生活。聞いたことのない単語だ。恐らくは会社などの組織名なのだろうが。ローズマリーは困惑しながらも父親の言うことに従い黒髪の男――デッドに頭を下げた。
「ど、どうも。ローズマリーと申します。父がいつもお世話になっております」
いつもお世話になっているかは不明だが無難な挨拶をしておく。デッドが胸元から何かを取り出す。その何かとは煙草の箱と安物のライターだった。デッドが慣れた手つきで煙草を口に咥えて火をつける。そして息を大きく吸い込んで灰色の煙を大量に吐き出した。
「げほ――こほっ」
ローズマリーは咳き込みながらもデッドの無作法に顔をしかめた。彼女の非難の視線など気にする様子もなく、デッドがまた大きく息を吸い込んで灰色の煙を吐き出す。
「別に世話をした覚えはない。こいつとはあくまで仕事の関係でしかないからな」
デッドがそう話しながらシェードが空にしたパスタの皿に煙草の灰を落とす。父に対するこの無礼な振る舞いにローズマリーは堪らず「あの」と口調を鋭くした。
「食事を終えているとはいえ、人様のお皿に煙草の灰を落とすのはお止めください。お店の方にも無礼でしょう。煙草を吸いたいのなら灰皿をお持ちになられたらどうです?」
「その灰皿がねえから仕方ねえだろ。テーブルに直接灰を落とした方がいいのか?」
「灰皿がないのであれば、そもそも煙草を吸わなければ良いではありませんか」
「そいつは無理な相談だ。俺は煙草を吸わねえと死んじまう特異体質なんでね」
「つまらない嘘はお止めください。大の大人が見苦しいですよ」
「……おいシェード。お前んところのガキはいつもこんな口うるさいのか?」
顔をしかめたデッドにシェードが「はっはっは」と軽やかに笑う。
「ロージーは真面目だからねえ。でもそこが彼女の可愛いところでもあるのさ」
「こんな喧しい奴のどこに可愛げがあるんだ。ったく……面倒なことになったもんだ」
「申し訳ないが我慢してくれ。それといくら娘が魅力的だからと手を出すような真似は許さないよ。あくまで一時的に預けるだけだということを忘れないでくれ」
「信用できないなら端からこんな相談なんぞ持ち掛けてんじゃねえよ」
「説明しただろ? こうすることが一番なのさ。僕にとっても彼女にとってもね」
「ちょ、ちょっとお待ちになってください」
シェードとデッドの会話にローズマリーは慌てて口を挟んだ。ローズマリーの制止に口を閉ざすシェードとデッド。ローズマリーは頭の中で二人の話を整理しながら口を開く。
「あの……一時的に預けるというのはどういう意味でしょうか? お二方のお話しを聞く限りでは、まるで私がそこの方と生活を共にするように聞こえてしまいますが」
「ん? ああ、ごめんごめん。ちゃんと説明しないとね。えっと……簡単に言うと――」
ローズマリーの疑問にシェードがあっけらかんと答える。
「ロージー。実は君をヘヴンズライフに売ることにしたんだ」
ローズマリーはぽかんと目を丸くした。娘をヘヴンズライフに売る。それは一体どういう意味なのか。まさかそれがそのままの意味であるはずはないだろう。何かの比喩に違いないはずだ。だがいくら考えようとその意味がまるで理解できない。呆然とするローズマリーにシェードが気楽な様子で淡々と言う。
「僕には多額の借金があると話したよね。その借り先が貸金業を経営する彼ら――ヘヴンズライフなんだ。しかし会社が倒産した僕に借金など返済できるはずもない。だから娘の君を彼らに売ることに決めたわけだ」
「あの……まだよく分からないのですが」
「俺たちヘヴンズライフは貸金業という仕事の都合、裏社会とも付き合いがある」
困惑を深めるローズマリーにデッドが煙草の煙を吐きながら説明を始める。
「人間を高額で買い取ってくれる業者も知っている。俗に言う人身売買ってやつだな。つまりお前の親父は娘を売った金で俺たちへの借金を返そうと考えたわけだ」
「そ、そんな……ことが……」
「まあそう悲観することはない」
デッドの表情に音もなく冷笑が浮かぶ。
「キングストン聖女学院の元お嬢様。そのブランドがあるなら高額取引は間違いない。買い手にこと欠かないだろうぜ。金持ちの変態にせいぜい可愛がってもらうんだな」
「じょ、冗談ではありません!」
嘲笑するデッドにローズマリーはテーブルを強く叩きながら立ち上がった。
「お、お父様が借金返済のために私を売るなどあり得ませんわ! 貴方は大きな勘違いをしている! お父様の真意はそうではないはず! そうですよね! お父様!」
「いいや、デッドの言う通りだよ」
シェードの淀みない返答にローズマリーはピシリと体を強張らせた。硬直しているその彼女にシェードが「もっとも」と言葉を付け足す。
「君が正式に売られるのは一年後の話だ。それまでに僕が彼らからの借金を全額返済することができれば君を解放する約束となっている。いわゆる君は担保ということさ」
「た、担保って……で、ではその一年もの間、私は一体どうすれば?」
「そこでヘヴンズライフの人間である彼――デッドに君を預けることになったんだ」
シェードがデッドを一瞥して、すぐにまたその視線をローズマリーに戻す。
「一年間は彼が最低限の衣食住を保証してくれる。僕はその間、新しい事業を展開して彼らからの借金を必ず返すつもりだ。だからその一年間だけロージーも我慢してくれ」
「むむむ、無理です!」
シェードのあまりに無茶な要求にローズマリーは思わず席から立ち上がった。
「知らない男性の方と――それも人身売買をするような犯罪者に預けられるなど受け入れられません! お父様が新事業を起こすのであれば私もそのお手伝いをします!」
「それは駄目なんだ。担保を一時的に預けることが借金の返済期限を一年間延長する条件だからね。君が彼らの手の内にあることで、僕が逃げ出す心配がないと言うことさ」
「そんな……お、お父様は本当にそれで宜しいのですか!? 一人娘である私がこのような犯罪者の方の世話になるなど心配ではないのですか!?」
「もちろん僕にとっても苦渋の決断なんだ」
シェードが眉間にしわを寄せて拳を握りしめる。
「だがもはや無職の僕にはもう君を養うだけの甲斐性がない。これはそんな僕に与えられた最後のチャンスなんだ。どうかこの不甲斐ない父のために涙を呑んではくれないか」
「し、しかし犯罪者などに――」
「ほんのしばらくの間だけ我慢してくれ! 僕たちは頼れる身内もいない二人きりの家族だ! その家族がまた幸せに暮らしていくためにロージーの協力が必要なんだ!」
シェードがローズマリーの肩を掴んで懇願の言葉を口にする。父親の真剣な面持ちにローズマリーの思考がグルグルと巡る。二人きりの家族。その家族が幸せに暮らしていくため。母親も兄妹もいないローズマリーにとってその言葉はあまりに重い。
「お願いだ! ロージー!」
詰め寄るシェードの勢いに押されて――
「わ……分かりましたわ」
ローズマリーは思わず頷いてしまった。




