エピローグ
商業都市マガーリッジ。その一画にある安アパートにローズマリー・クィン――ロージーは暮らしている。この安アパートの部屋で暮らし始めてから三日目の朝。当初は文句をつけていた床での睡眠にもだいぶ慣れ、ロージーは日課となりつつあるシャワーを浴びて朝食の準備に取り掛かっていた。作る料理は決まっている。当然、目玉焼きだ。
「落ち着いて……落ち着くのよロージー。私ならできる。私ならできる。私なら――」
「目玉焼き一つになに追い詰められてんだ?」
そんな余計な一言を呟いたのはロージーの同居人である男――デッドだった。首筋でまとめた長い髪をボリボリと掻きながら欠伸をかみ殺しているデッド。ロージーはギロリと背後に振り返ると眠たそうに瞳を半眼にしているその彼にフライ返しを突きつける。
「うるさいわね! 気が散るから後ろでぶつくさと言わないでくれる!?」
「目玉焼きなんぞ適当に作れるだろ。卵をフライパンで焼くだけなんだからよ」
「これだから素人は何も分かってないわ! 目玉焼きはほんの僅かな火加減が命取りになる繊細で奥深い料理よ! 料理のりょの字も知らない人は黙っていて!」
「二日間連続で目玉焼きを丸焦げにした奴のセリフとは思えないな」
「だからうるさいっての! んん……」
減らず口のデッドを無視して、ロージーは目の前にあるフライパンに意識を戻した。パチパチと音を立てながらフライパンで焼かれる目玉焼き。白身の色合い。卵黄の艶。立ち昇る湯気。油の跳ねる音。ありとあらゆる情報を集中させた五感で感じ取り――
「こ、ここよぉおおおおおお!」
ロージーはフライ返しを閃かせた。
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リビングに設置された折り畳み式の丸テーブル。そこに並べられた二つの皿。その皿の上には世にも美しい目玉焼きが乗せられていた。焦げひとつなく固められた白身。絶妙に半熟加減を残した黄身。誰も文句つけようがない。正真正銘。完全無欠。徹頭徹尾。頭のてっぺんから爪先に至るまで――これは目玉焼き以外の何物でもないだろう。
「ふ、ふふふ――おーほっほほほほほほほほほほほほほほほほ!」
神の献上物かと見紛うほどの目玉焼きを前にしてロージーは高笑いする。
「やった! ついにやったのよ! 私はついに完璧な目玉焼きを作り上げたのよ!」
「んな大層な話かよ」
クルクルと体を回しているロージーにそうぼやきつつ、デッドが皿に乗せられた目玉焼きを一口で頬張る。何の感慨もなく一瞬にして消滅した目玉焼きにロージーはぎょっと目を見開いて回転させていた体を止めた。
「ちょ、ちょっと! どうして一口で食べちゃうのよ! もっと床に頭を擦りつけて『感謝感激げす』とか言いながら鳥がついばむように少しずつ食べなさいよ!」
「目玉焼きごときに人間のプライドを捨てられるかよ」
「ならせめてもっと味わってほしいわ。ホント作り甲斐がないんだから」
愚痴をこぼしながらロージーは椅子に座り直した。自身の前に置かれた目玉焼き。何度見ても完璧な出来だ。ロージーは頬が緩むのを自覚しながら目玉焼きを食べ始める。
「それにしても料理も楽しいものね。貴方がどうしてもと言うのなら、夕ご飯もこれからは私が作ってあげてもいいわよ。いつも適当な惣菜では味気ないでしょ」
「夕飯も目玉焼きになるのかよ」
「目玉焼き以外も作るわよ。そうね。レパートリーを増やすためにレシピ本を買おうかしら。あと食材も買わなければいけないし、これからは私に生活費を預けてちょうだい」
「お前なに一人で決めてんだよ」
「それで私の美味しい料理が毎日食べられるんだから文句言わない。それに貴方どうせ家計簿もろくに付けてないでしょ。そんなガサツな人にお金の管理を任せられないわ」
デッドが表情を渋くする。ここ数日間で彼はお金の重要性を散々と説いてきた。その彼が身近なお金の管理すらまともにしていない。それが多少なりとバツが悪かったのだろう。デッドが不満げな表情ながら「勝手にしろ」と嘆息した。ようやく彼にも一矢報いることができたらしい。ロージーは「ふふ」と微笑みながら残りの目玉焼きを頬張った。
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「ところで――ノーラちゃんの件だけど」
食事を終えたロージーはポチにミルクを与えながら口を開いた。ベッドで煙草をふかしているデッド。返答がないも話を聞いているだろうその彼にロージーは尋ねる。
「まだ目を覚ましていないの? まさかこのまま目が覚めないなんてことないわよね」
「……さてな」
デッドの気のない返答。ロージーは「さてなって」と碧い瞳を尖らせた。
「無責任なことを言わないで。ノーラちゃんを助けると約束してくれたじゃない」
「サポートすると言っただけだ。第一俺は医者じゃない。他人の容体なんぞ分かるか」
デッドが煙草の煙を吐き出して「……でもまあ」と面倒くさそうに肩をすくめる。
「そんな心配することもないだろ。ちと疲れて眠りこけているだけだ。多分な」
「それならいいけど……ノーラちゃんは心臓も悪いみたいだし心配だわ」
「その心配もない」
デッドがまた煙草の煙を吐き出す。
「人間の姿に戻っているが、その中身は魔獣とほとんど変わらない。魔獣の回復力があれば大抵の怪我や病なんぞで死にはしない。何よりあいつは不死の魔術が使える。心臓の病とやらも魔術で完治しているだろうぜ」
「……ノーマンさんはそこまで見越してノーラちゃんを魔獣に変えた?」
「当然な。俺たちは奴の手のひらでまんまと踊らされたわけだ。まったく気に喰わねえ」
そう言いながらもデッドの表情に苛立ちなどは見られない。デッドの説明にほっと胸をなでおろすロージー。どうやらノーラの命については心配する必要がないらしい。だとすれば彼女のことで気になることはあと一つだ。
「あのデッドさん……その……ノーマンさんの残した借金のことだけど――」
「それなら返済の目途が立っている」
「やっぱり少しだけでも減額するとかできない――は?」
ロージーはポカンと目を丸くする。返済の目途が立っている。それはどういう意味か。?然とする彼女には構わず、デッドが煙草を咥えながら淡々と説明する。
「ノーマンの奴が自分に生命保険をかけていた。保険金の受取人は娘のノーラだ。その保険金が支払われればノーマンの借金も全額返済できるだろうぜ。もっとも――」
デッドがふうっと煙草の煙を吐き出す。
「本来自殺者は保険対象外なんだがね。そこらへんはヘヴンズライフが間に入ってちょろまかすらしい。会社としても借金が回収できなくなる事態は避けたいからな」
「それではノーマンさんが自ら命を絶ったのも私たちの同情を引くためではなく……」
「言っただろ。奴の手のひらで踊らされていたと。あいつは娘の命も人生も売るつもりなんぞなかったってことだ。3Sで働きながら奴はこの機会を窺っていたんだろうぜ」
デッドがおもむろにベッドから腰を上げて首をコキコキと鳴らす。
「とりあえず保険金が支払われるまではガキの面倒は会社が見る。お前が下らない心配をする必要はない。そんなわけでロージー。お前ちょっとどこかに出掛けてこいよ」
ノーラのことで安堵したのも束の間、唐突にデッドがそう言ってきた。一方的なその要求にロージーは「はい?」と首を傾げる。
「何がどう、そういうわけなのよ? 出掛けてこいって……今日の仕事は?」
「会社から特別休暇を貰っている。3Sの一件で会社もごたついているしな」
「……仕事は分かったけど、どうして私が出掛けなければならないの?」
「ここで人と会う約束をしている。人見知りな奴でお前がいると都合が悪いんだと」
デッドがポケットからクシャクシャの100ガル紙幣を取り出してそれをロージーに放った。慌てて紙幣を受け取るロージー。デッドが適当に手を払いつつ投げやりに言う。
「小遣いをくれてやるから適当に遊んで来い。しばらく帰ってくんじゃねえぞ」
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適当に遊んで来い。デッドからそう言われたわけだがロージーは正直困惑していた。以前なら何も気にせずに散財しただろう。だが今はたった100ガルであろうと無駄なことに使いたくなかった。このお金の最も有効な使い道は何なのか。ロージーはそれを真剣に考える。そしてウンウンと頭を悩ませることしばらく――
ロージーは行動を開始した。
ロージーはバスを乗り継いでとある場所へと向かう。窓から見える景色。それが徐々に見慣れたものに変化していく。心臓がドクドクと跳ねる。汗がじんわりと浮かぶ。自分は緊張している。ロージーは他人事のようにそれを自覚した。
目的のバス停に到着してバスを降りる。バスが去っていくのを見送りながらロージーは現在時刻を頭に浮かべた。彼女が普段通りに登校しているなら、そろそろこの辺りを通過するはずだ。ロージーがそんなことを考えていると馴染みある声が聞こえてくる。
「――ロージーちゃん?」
先日もそうだが何ともタイミングが良い。ロージーは苦笑しつつ振り返る。視線の先には青い髪を丁寧におさげにした少女――コニー・カートライトがいた。
「どうして……?」
コニーが気不味そうに視線を泳がせる。先日の別れ際でのことを気に病んでいるのだろう。ロージーは穏やかに微笑むとオズオズと肩を揺らしているコニーに頭を下げた。
「おはようございます。会えてよかった。コニーと話がしたくて待っていたのですよ」
「あ、あたしと?」
「ええ。通学中でお時間もないと思いますが少しだけお付き合いいただけませんか」
コニーが表情を困惑させながら「う、うん」と頷く。先日の対応を非難されるとでも考えたのかも知れない。コニーが申し訳なさそうに顔を俯ける。彼女に余計な不安を抱かせたことに罪悪感を覚えつつロージーは口を開いた。
「コニーにどうしても謝罪をしたいのです」
コニーが「え、謝罪?」と首を傾げる。どうやら心当たりがないらしい。だがそれも当然だろう。この謝罪は彼女に求められたからするのではない。自身がケジメとして必要だと感じたからするのだ。ロージーは頷いて冷静に話を始める。
「コニーも知っているように、私は父の会社が倒産したことで豊かな暮らしをすることができなくなりました。学校も自主退学せざるを得ず、屋敷から今はアパート住まいです」
「う……うん」
「正直なところ苦しいことばかりです。辛いことばかりです。自身の不幸を嘆いたこともありました。どうして私ばかりがこんな目に会うのだと怒りさえ覚えたものです。元の生活に戻りたいと願わずにはいられない。ですが――それを経験して気付きました」
ロージーはふっと自嘲の笑みを浮かべる。
「私がこの数日間で経験した苦しみや悲しみなど何も特別なことではない。恐らく多くの人が似たようなことを一度は経験をしているのだと。お金がないことによる不幸。自分ではどうにもならない現実。誰もがその苦しみを背負いながら生きているのだと」
病気の娘を助けることができず自責の念に潰されていた父。自分のために思い悩みながら苦しんでいるその父の姿に胸を痛めていた少女。お金があれば買えたはずの幸せな未来。それを夢見ながらも二人の親子はどうしようもない現実と戦い続けていた。
「私がその苦しみから免れることができたのはお金があったからです。私が浅ましいと切り捨てていたお金により支えられた幸せだったのです。それなのに私はこれまでお金に対して無神経な発言ばかりをしてきました。その苦しみをまるで理解しようともせず、自分が偶然にも恵まれていたからと、他者にまで自分の理想論を押しつけてきました」
ロージーは言葉を区切るとコニーの瞳をじっと見つめた。ポカンと目を丸くしているコニー。未だに話が見えていないのだろう。ロージーは言い訳がましい話は終わらせて「コニー」と本当に伝えるべきことを口にした。
「貴女のお父様は貴女を学園に通わせるために大変なご苦労をされていますね。そして貴女もお父様のために自分を厳しく律していました。しかし私はそれを理解しながら、お金の有り無しなど下らないと、気にする必要などないと軽々しく口にしていた。貴女の苦労も知らずに配慮の欠けた発言だったと反省しております。どうか許してください」
「……え……ええ? ロージーちゃんが謝りたかったことって、そのことなの?」
コニーがぎょっと目を見開く。本当に心底仰天しているようだ。その彼女の反応にこそ驚きながらロージーは「え、ええ」と碧い瞳を瞬かせた。
「無神経な発言で貴女を傷つけていたのではないかと……お、おかしいですか?」
「おかしいというか……あたしなんかもっとスゴイこと告白されるんじゃないかってドキドキしちゃったよ。なんかこう、あたしの背中にこっそり竜のタトゥーを入れたとか」
「し、しませんよ、そんな変なこと」
コニーの頓珍漢な発言にロージーは肩を落とす。結構緊張していたのだが拍子抜けしてしまう。コニーがポリポリと頬を掻いて「まあでも……そうだね」と小さく笑った。
「少しモヤモヤはしたかな。だけど全然気にしてないよ。ロージーちゃんは初めからお金にちょっと疎かったし、そんなロージーちゃんだから、あたしは救われたんだもん」
「私に救われた?」
今度はロージーが首を傾げる。コニーがコクリと頷いて青い瞳を静かに細めた。
「学校の入学式当日ね、あたしすごく心細い思いをしていたの。周りが有名な会社とか政治家の関係者ばかりで自分がすごく場違いな気がしてさ。たまに話しかけてくれる人もいたんだけど、その人もあたしの家のこと聞くとすぐに離れていくの。ロージーちゃんだけだったんだよ。あたしの家のことを聞いて、それでもお友達になってくれたの」
「……だから救われたと? でもそれは少々大袈裟ではありませんか?」
困惑するロージーにコニーが「そんなことないよ」と自分の胸に両手を当てる。
「あたしは本当にそれで救われたんだよ。ロージーちゃんは確かにお金の苦労を知らなかったのかも知れない。でも他の人と違って、お金で人の価値を決めようともしなかった。だからロージーちゃんが謝る必要なんてないよ。プラマイゼロってことで、ね」
「……分かりました」
「ねえ、ロージーちゃん今から時間ある?」
コニーからの唐突の問い。ロージーは困惑しつつ「え、ええ」と頷いた。
「今日は仕事もなく暇を持て余しているところです。しかしなぜですか?」
「それならさ、今からデパート行こうよ」
コニーからの思いがけない提案にロージーは「え?」と目を丸くした。
「い、今からですか? でも学校は?」
「一日ぐらい休んでも大丈夫だよ。前に行きそびれた埋め合わをしたいの」
「しかし学校をさぼって遊ぶのは……」
「学校をさぼって遊ぶから楽しいんじゃん」
コニーの謎理論。それが何だか可笑しくてロージーはクスリと噴き出してしまう。
「分かりました。コニーがそれで良いのなら」
「それじゃ行こ。あ、それとさ――」
コニーがその表情に満面の笑顔を咲かせる。
「あたしたちずっと友達だよね」
コニーのその眩しい笑顔に――
「うん、もちろん」
ロージーもまた笑顔で頷いた。
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「あいつはこの仕事に向いてない」
安アパートの一室。最低限の家具だけが詰め込まれた狭苦しい部屋。その壁に寄り掛かりながらデッドはその視線をベッドに向けていた。安物のスチールベッド。そこに腰掛けている一人の男。デッドは視線をベッドから外すと煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
「元の生活に戻してやればいい。お前ならそれも簡単なことだろ?」
デッドの言葉に、ベッドに腰掛けた男が「意外だな」とクスクス肩を揺らす。
「ひねくれ者の君がまさかあの子のことを心配してくれるなんてね」
「子守りが面倒だと言っているだけだ。どうせあいつはお前の思惑通りにはならない」
「そうかも知れないね」
「……俺にはお前が理解できない」
デッドは僅かに表情を歪める。
「クィン商会なんて架空の大企業を作り上げてまでこの世界から切り離してきたというのに、どうして今になって関わらせようとする。何を考えているんだお前は」
デッドの問い。ベッドに腰掛けた男が「別に難しい話じゃない」と頭を振る。
「必要な素質を育てるためさ。お金に恵まれた富裕層の視点。お金に恵まれない貧困層の視点。お金の本質を知るにはそれぞれ異なる二つの経験が必要なんだよ」
「……やっぱ俺には理解できないな」
「それならそれで構わない。どちらにせよ君のすべきことに変わりはないからね」
男がのんびりとベッドから腰を上げる。
「君はヘヴンズライフに人生を買われた人間だ。君が納得しようとそうでなかろうと会社の命令に逆らうことは許されない。君は僕たちの所有物なんだからね」
「……分かってんよ」
「結構。だけど今回の件は素直に礼を言わせてもらうよ。大切な娘を守ってくれてありがとう。これからもロージーのことを宜しく頼む。決して死なせてしまわないようにね」
男が部屋の出口へと歩きながら淡々と言う。
「彼女こそ次代を担う――金勇王の末裔なんだから」
そう念を押しながら――
現在の金勇王である男――
シェード・クィンが部屋を出ていった。




