序章 出会い 四
「一つ、提案よろしいでしょうか」
外縁地帯トワイライト・リム。その深い林の中を、ベアトリーチェとリュウドウはゆっくりと歩いていた。
本来であれば、点在する樹海を避けて草原沿いを抜けるのが常道だ。
だが、二人が進んでいるのは樹海内部の小径。
昼下がりだというのに薄闇が支配している。
樹冠が太陽を遮り、落葉の積もる地面にだけ、ところどころ水晶のような木漏れ日が落ちていた。
「もちろん構わない。どうした?」
リュウドウの声音はいつも通り柔らかい。だが、周囲の静寂がその響きを吸い込み、妙に遠く感じられた。
ベアトリーチェの右手には抜き放った剣。
リュウドウの背には、彼女がかつて旅支度として買い揃えた、大型のブリーフケース型の鞄が背負われている。
横目にその革のケースを見やりながら、ベアトリーチェは荷物を任せた時のやり取りを思い返した。
*
「では早速、貴女のお荷物を回収しに向かいましょう。宿で一度休息を取られた方がいい。休みなくリムを抜けるのは、流石に厳しいでしょうから」
そう言ったリュウドウの提案に従い、二人は宿を取っていた町へと戻った。
行きは急ぎの徒歩だったが、帰りは珍しく馬車を使う気になったほど、ベアトリーチェの足は疲れていた。
宿に着き、ベアトリーチェは自室の扉を開けた。
簡素な部屋。
端に置かれたベッドの上には、粗雑に開かれたブリーフケースと、乱雑に散らかった彼女の私物がある。
「あぁ、あったあった。少々待ってくれ。直ぐに支度をする」
ベアトリーチェは部屋に上がり込み、ゴソゴソと衣類や剣の手入れ道具をケースへ押し込んでいく。
「おや、休憩はよろしいので?」
「急ぐに越した事はない。動けない程の疲労でもないしな。少し待っててくれ」
「そうですか、ゆっくりで構いません。差し支えはございませんから」
にこやかに返すリュウドウ。その声音は柔らかいが、視線は部屋の散らかり具合にわずかに注がれていた。
そして、彼は目を細めて小さく息をつく。
「ですが………、これは……」
「あー、すまない……。整理整頓が面倒でな………。衣類もある故、少々嫌だったか?」
ベアトリーチェはわずかに気まずそうに目線を逸らした。
自身は女性で、対してリュウドウは見た目上は若い少年。その意識が彼女の口調をやや弱めた。
「いえ、そうではなく」
あっさりと否定し、リュウドウはベッドの上のブリーフケースを、ピアニストのように綺麗で繊細な指で示す。
「修行の行脚ですよね? なぜブリーフケースを?」
リュウドウはケースの角を指先で軽く叩きながら、首をかしげた。
その無邪気な仕草に、ベアトリーチェは少し頬を引きつらせる。
「これか? 先週立ち寄った町の露天商で買ったものだ。非常に安く売ってくれたものだな」
彼女はどこか誇らしげに言うが、明らかに旅路の共には向かない代物だ。
「商人に上手いこと嵌められましたね」
リュウドウは柔らかい微笑を浮かべつつ、さらりと告げた。
「えっ…………。……あー、まぁそんな気はしてたんだがな……。少々不便だったんだ」
ベアトリーチェは視線を泳がせ、ケースの持ち手をもぞもぞと握り直す。
「普通はリュックサックですから、旅用ではない。便宜はかなり悪いでしょう。俺がお持ち致します。荷物持ちとしての務めです」
リュウドウは淡々とした口調で一歩前に出る。
その所作は自然で、まるで最初から彼が持つ前提であったかのようだ。
「なにっ、良いのか? わざわざ不便な物を……」
ベアトリーチェは驚きつつも、ケースを手放そうか迷うように抱え直した。
振り返ると、リュウドウは虚空に片手を差し入れ、そこから滑らかに二本のベルトを取り出した。
魔術なのか技術なのか判然としない所作に、彼女は大きく目を見張る。
「えっ、え…………?」
リュウドウはしゃがみ込み、手際よくブリーフケースに改造を施しはじめた。
金具の位置を調整し、長いベルトを通し、余った部分を結束していく。
その無駄のない動きは、職人めいている。
「これで背負えるようになりましたね」
ベルトが肩紐のように取り付けられたブリーフケースを、ひょいっと軽く背負ってみせる。
「器用だな、君は。しかし……」
ベアトリーチェは眉をひそめた。
ブリーフケースは革が固く、背負い心地は悪いはず。
そう言いかけたが、リュウドウはモデルのごときしなやかな体型で、背筋はマナー講師のように真っすぐ。
その姿勢の前では、背負いにくさという欠点は意味をなさないようだった。
「……まぁ、君がそう言うなら助かるが。では、片付いたな」
ベアトリーチェはベッドに散らかった残りの私物をさっと掴んでケースに放り込み、最後に部屋を一瞥する。
支度を終えると、リュウドウは背負ったブリーフケースの揺れ具合を軽く確認し、こくりと頷いた。
「では、参りましょうか」
「うむ。……ふぅ、やはり足にくるな。昨日は体に無理をさせた」
軽く足首を回しながら、ベアトリーチェは部屋の灯りを落とす。
戸を閉める瞬間、散らかった名残が視界の端に映ったが、今日の疲労の前ではそれを片付けようという気も湧かなかった。
廊下に出ると、宿の主人がちょうど階段を上がってくるところだった。
「おや、もうお出かけですかい、騎士さん。今日は随分お疲れの顔だねぇ」
「こんにちは。あぁ、少しな。帰りは馬車にするつもりだ。歩くのは、もういい」
苦笑しつつ階段を降りるベアトリーチェに、主人は「無理しなさんな」と短く声をかけた。
リュウドウは丁寧に会釈し、その後ろに続く。
「んん? もしかして……」
通り過ぎようとした所で、眉間に皺を寄せた主人に止められる。
「な、なんだ……?」
主人はまじまじとリュウドウを眺める。
懐疑的な意味合いは見て取れないが、その睨めつけるような視線にベアトリーチェは戸惑いを隠しきれない。
――ま、まさか……、彼が魔王であることに気づかれたか……?
こんな辺境の地で、そのような事がおこれば忽ちパニックである。
ベアトリーチェは冷や汗を一筋垂らし、言い訳を探しはじめた。
しかし、
「あぁやっぱり、君、男性かい! えらい美人だねぇ、女の子かと思ったよ!」
主人はふくよかな腹を揺らし、笑い声を上げるのみであった。
ベアトリーチェは固まった。
緊張は一瞬で砕け散り、代わりに絶妙に言葉を失う。
主人はさらに愉快そうに肘でベアトリーチェを小突く。
「にしても、こんな宿に連れ込むとはねぇ。もしや騎士殿、男娼を頼まれたのかね? 生真面目そうな雰囲気だが、やはり人は見かけによらないね。ワッハッハ」
「はぁあっ?! 違う違う違う違う! 決してそのようなことではなひっ!!」
今年どころか、人生で一番の狼狽だった。
耳まで真っ赤になり、両手を同時に振って否定する。
姿は、鎧を着た状態でありながら滑稽極まりない。
対してリュウドウは、背筋を伸ばしたまま涼しい顔で口元をほころばせた。
「俺としても、端正な淑女様の御相手が出来て棚から牡丹餅で御座います。料金はしっかりと取りますが」
完全な悪ノリである。
「おいッッ!!!」
ベアトリーチェはまるで爆発した様に叫ぶ。
宿の主人は腹を抱え、リュウドウは相変わらず紳士然とした微笑のまま。
場の温度だけが一気に三十度ほど上昇する。
彼女の顔は完全に真っ赤だ。
結局、誤解は解け、会話は終わった。
ベアトリーチェは怒りと恥ずかしさを引きずったまま、玄関の扉を勢いよく開け放つ。
リュウドウはその後ろを涼しい顔でついて行き、背負ったブリーフケースが小さく揺れた。
外の乾いた風が二人を迎え、ようやく彼女は深いため息をつくのだった。
「……ここまでおちゃらけた陛下には初めて会った」
「おめでとうございます」
「祝うな。嬉しくもない」
軽口を交わしつつ、大通りを歩き出す。
馬車が行き交い、木箱の積まれた荷台から麻袋が揺れ、商人達の声が飛び交っている。
その端を、二人は組合の建物を目指してゆっくり歩いた。
――古代竜が死んだ事を報告しなければ、町の恐怖心は収まらない。
その思いを胸に歩を進めていると、前方からざわざわとした喧騒が流れてきた。
空気の密度が変わる。
「……あれが組合ですか。繁盛してますね」
無邪気に笑うリュウドウとは裏腹に、
「いや、何か様子がおかしい」
ベアトリーチェは胸に棘のような違和感を覚えた。
建物前には人の群れが出来ている。
しかし、以前の冒険者たちのざわめきとは質が違う。ざわつきというより、刺々しい圧。
好奇心よりも、緊張と警戒が染み込んだ空気だ。
ベアトリーチェは歩幅を大きくし、群れの中へ踏み込もうとしたが――。
「……うっ」
押し返されるように立ち止まる。
そして気づく。目の前の人々は、いつもの放浪者ではなかった。
肩章のついた制服の役人、腕章を巻いた自警団員、地元の役所職員らしき者まで混ざっている。
普段は組合前に来ない層が、焦燥を帯びた声で周囲に食ってかかっていた。
「そんな馬鹿な、古代竜が本当に……?」
「誰が討ったのか教えたまえ! 町の安全に関わる!」
「情報を隠すつもりじゃないだろうな!」
「被害はもう無くなると考えていいのかねっ?」
怒声、疑念、焦燥。
声が混線し、まるで炎が立つ直前の炉のような熱気が漂っていた。
「何が起きているんだ……」
ベアトリーチェは眉を寄せ、もう一度周囲を見渡す。
すると、
「あっ!」
視界の片隅に見覚えのある男が入った。
近くの露天商で食材を抱えたまま立ち止まり、群衆の様子を眺めている壮年の兵士だ。
軽装鎧に短刀、胸元で揺れるドッグタグ。
昨日、古代竜討伐の説明をしてくれた男だ。
彼の姿を見つけると同時に、胸の底の緊張がわずかに締まる。
「おーい!」
ベアトリーチェは駆け足で男に声を掛けた。
男は目を細め、一瞬だけ疑問の色をにじませたが、すぐに快活な笑顔を浮かべる。
「ああ! 昨日の嬢ちゃんか」
歩み寄りながら、彼女の問いに眉を上げる。
「あの騒ぎはなんだ、何が起きた」
「あれかい。聞いて驚けよ。今朝な、古代竜の死骸が見つかったらしい……」
男は頭を掻きながら、神妙な面持ちで告げた。
「あんな危険な案件を片付けたヤツが現れたって事さ。しかも部隊編成の申請も無し。
つまり……個人か、少数で、あのバケモンを倒したわけだ」
――…………!!!、そのことか……。
まさか、騒動の原因は昨日の「あの出来事」だったとは。
「そ、それは、よ、良い事ではないか……」
真相を知るベアトリーチェは冷や汗を滲ませ、必死に顔を繕う。
話を聞くため、敢えて聞き役に徹した。
「あぁ、だがな。組合に報告がないんだよ。報酬も渡せない、討伐方法も分からない、お偉いさんがたは大混乱さ」
男は眉間に深い皺を刻んだ。
「しかもだ……瞬殺だったらしい。死骸は三等分、大きな断面は炭のように黒くなっていたそうだ……。
普通の武器じゃまず無理だ。いや、どんな名工の剣でも無理だろうな。
街中の連中は口々に"軍一つでも厳しい"だの"国指定の英雄クラスでも無理"だの言ってる。
そんな化け物じみた力を持つヤツが、ひとりでやったと考えると……怖い話だよ」
「んん……、なるほど……」
その"桁外れの実力者"本人を、ベアトリーチェは横目で盗み見る。
「…………。」
リュウドウは変わらぬ表情で、男の話に耳を傾けるだけだった。
男は一息つき、息を整えたあと真顔で続ける。
「それにな……土属性の古代竜ってのは、ただ強いだけじゃない。強さによるが、広範囲の地面に影響を及ぼし、地殻にも干渉できうるそうだ。近頃起きていた地震もそれが原因だろう。
倒されず放置されてりゃ、この街だってどうなっていたか……想像もしたくねぇよ。
だからこそ余計に"誰がやった?"が問題なんだ。
恩人かもしれねぇのに、姿が見えないんだぜ?」
男の言葉が重く沈む。
ベアトリーチェは、無意識に拳を握りしめていた。
――これは、言うべきなのか……。彼の正体さえ隠しきれれば……。
「そ、その件だが……」
しかし、その煩悶とは裏腹に、ふとリュウドウが人差し指をゆっくり立てた。
「…………。」
唇に指を当て、微笑をにじませる。
「!」
言わずもがな、"口を噤め"の合図。
奢りもなく、報酬にも興味を示さず。
ただ淡々と、秘匿を選ぶ強者の風格があった。
「討伐した者が、早く見つかるといいな……」
ベアトリーチェは苦笑まじりに呟く。
「全くだ。そんな化け物じみた強者がいるなら、ぜひ守ってもらいてぇもんだ」
男の豪快な笑いは、露天商に広がる活気のようだった。
「ところで、この子は? 昨日は見かけなかったが……」
リュウドウは恭しく一礼する。
「初めまして。騎士様の荷物持ちで御座います」
「宿で待機してもらっていたんだ。今日中に街を発つゆえ、同行してもらっている」
ベアトリーチェはまたもや白々しい笑みを貼り付けて取り繕う。
「こりゃまたべっぴんさんだ。役職は……見たところ重騎士かね?」
「このお方、網膜が腐り落ちてらっしゃいます」
リュウドウは笑顔のまま皮肉を返した。
——この男の重騎士ボケは十八番なのか……?
そんな疑問が胸を掠める。
ベアトリーチェは気持ちを立て直し、改めて頭を下げた。
「とにかく、感謝する。色々と聞かせてもらえた」
「いいってことよ。こんな老いぼれが人様に誇れるのは、知識くらいだ」
男は穏やかな笑みのまま、彼女の肩を軽く叩く。
「街を出るんだな。くれぐれも気をつけて、……特にトワイライト・リムには近づくなよ。念のためにな」
「お気遣い、痛み入る。其方もどうかお元気で」
「はは、まだまだ頑張るさ。家族サービスせにゃならんからな」
三人は軽く会釈を交わし、各々別の方向へ歩き出した。
振り返れば、男はもう人波の中に紛れつつあり、その背はどこか頼りがいを感じさせるものだった。
ベアトリーチェは胸中に小さな罪悪感を抱きながら、それでも足を止めずリュウドウの隣へ歩み寄る。
冷たい風が通り過ぎ、彼女の外套を揺らした。
街を離れる旅路が、静かに始まろうとしていた。
*
場面は戻り、場所はトワイライト・リムの樹海内部。
ベアトリーチェは、この短期間で彼の気遣いを二度も裏切ってしまったのだと、胸の内で思い返していた。
――……ごめん、名も知らぬ退役軍人殿……。
唇を噛みながら、こっそりと心の中で平謝りする。
「提案というよりは、条件に近いでしょうか」
リュウドウの声が、深い樹海の陰に吸い込まれるように落ちた。
「条件……? 大した物は提供出来ないが……」
彼の柔和な容姿に惑わされるが、彼は紛れもない『魔の主』である。魔族が口にする"契約"や"条件"は、書面すら上回る効力を持つというのが伝承だ。
「た、魂をよこせとか……?」
魔導の知識に乏しいベアトリーチェは、昔読んだ神話の一節を思い返しながら、じんわりと冷や汗を流す。
「……?? そんな、どこぞの悪魔のような事などしませんよ」
リュウドウは本気で戸惑った表情を浮かべた。
「あぁ、なるほど……。すまない、早計だな……」
ごまかすように咳払いし、視線を地面に落とす。
軍用ブーツの下で、乾いた落葉がかさりと音を立てた。
「提案というのは……貴女の修行に、俺が余計な手助けをしないという事です」
「えっ……。そんな当然のこと……」
思わぬ内容に、ベアトリーチェはきょとんと目を丸くした。
「貴女を完全に介護してしまっては、修行の意味が無いでしょう。なので俺が行うのは『静観』と『監督』のみです」
――……確かに。
ベアトリーチェは小さく頷く。
史上最凶の存在に四六時中守られ続ければ、安全は保障されても修行にはならない。
「あくまで俺は、『貴女が死なない程度の保険』として振る舞います。指導もしますし、必要な時は助けもします。ただ要点は――『多少危険なことはさせるけれど、それを気遣いとして受け取ってね』という事です」
なんとも丁寧で、過保護とも言える説明だった。
「……ありがとう。そこまで考えてくれて……。不格好だが、助かる」
「いえ、こちらこそ。貴女の成長を見るのは楽しみですので」
柔らかな笑みが浮かぶ。
その微笑は、木漏れ日の中でほんの一瞬だけ、年相応の青年の表情に見えた。
「故に、今我々はリムの最危険エリアを歩んでいます」
「……ん、はぁあ!?」
リュウドウのあまりにも淡々とした口振りにベアトリーチェは一瞬、重要な単語を聞き流す所だった。
「先程からの、嫌な空気感はそれか……」
握る剣柄に自然と力が籠る。
樹海に踏み入った直後から、肌を刺すような違和感があった。
本能的に危険を察知した彼女は、半ば無意識に剣を抜いていたのだった。
「剣を事前に抜いたのは加点です。しかし、その『嫌な空気感』を明文化しましょう」
「言語化しろと言われても……、直感的なものだからなぁ……」
肩を落としたベアトリーチェに、リュウドウは優しく声を掛ける。
「貴女の感じている空気感とは、すなわち『魔力』と『殺気』です」
「なに、?!」
殺気という単語が脊椎を駆け上がり、条件反射で周りに視線を走らせる。
見渡せど、見えるのは灰色の木々と夜のように濃い木陰のみ。
「殺気の方は、長年の戦闘経験からでしょうね。しかし重要なのは魔力です。現在、この地帯には危険度の高い魔物が跋扈してるのです」
「最初来た時は、まだマシな筈だったが」
「古代竜が撃破されて、活性化したのでは? 修行の糧になると思って、敢えて進んでいます」
リュウドウの表情はいつも通り。
人形のように儚く、柔らかい顔立ちだ。
しかし、その言動からは強者独特の"俯瞰"と"強かさ"が感じられた。
「魔物とは、何度か戦ってきたが……。ひと味違うようだ」
自然と剣を両手で握り、体が強ばる。
ガサガサ、がササ……
遠くで草の揺れる音が聞こえた。
「何か近づいているな」
音と共に、嫌な気配が濃くなっていく。
「お出ましですね。ここの魔物はユニークな種類が多いのですよ」
どこか楽しげですらある声色。
対照的に、辺りはさらに暗く沈み、何とも居心地の悪い張り詰めた空気が重くのしかかる。
「………………。」
ベアトリーチェは遅くなっていた歩を完全に止めた。
鋭い視線は、1本の太い木へと突き刺さる。
――…………いるな。
そう、彼女が身構えた瞬間。
タ……、タ……
「……?!」
何かが聞こえた。
明らかに、草の擦れる音ではない。
固い何かが地を叩くような、不規則で弱々しい音。
た、タタた、た……ケ……ぇ。
鳥か獣か、それとも――。
か細いが、ハッキリと聞き取れる音量である。
タタた、タタ……ぇ、エ、ええ……
音源は、木の後ろから聞こえる。
タタタタたたた、た……。
――…………人の、声……?
ベアトリーチェは自らの思考を疑った。
こんなおぞましい音が、人間のものとは思えない。
しかし、確かに男性の苦し紛れの声色に聞こえる。
ぴちゃっ……、ぎしぃ……、ギギ、ギシィ……。
「………………。」
ビクリと、体が小さく跳ねた。
木の幹を擦り合わせるかのような、不快な音が鳴った。
手に、足裏に汗が滲み出る。
「一体、なにが」
耐えきれず、ベアトリーチェが一息を吐いたその刹那。
た、たた、エ、タスけてぇ……
「……!!」
木の後ろから、人の頭がゆっくりと覗いた。
そして、確実に助けを求めている声だ。
「……うっ……」
声は掠れ、弱々しい。
だが、声量は不自然に明瞭で苦悶の色がまじまじと感じられる。
たた、すけてクれえ……。
男の頭がゆっくりと伸びる。
その顔は、苦悩の表情に満ちているが、力なく眉を傾け、弱々しく目と口を開いていた。
脂汗と流血がその顔をてからせ、黒目は焦点が一切合っていない。
コッち、だ……、コこだよぉ……。たすけテ……
明らかに無事ではない。
「お、おい」
恐怖心を押し殺し、ベアトリーチェは喉奥から声を引っ張りだす。
「大丈夫か、何があった……。何に襲われたんだ……!」
たたた、タタたす、エっええ……。
男はゆっくりと身体を揺らし、力なく腕を垂らしている。
鼓動と自らの声が、耳奥に響いた。
その目はベアトリーチェが見えているのかも怪しい。
「……安心しろ、直ぐに手当をしてやる」
堪え切れず、慌てるように駆け寄る。
「さぁ、こちらへ……」
膝をつき、手を差し伸べる。
気味の悪い静けさが沈着する中、突然リュウドウが声を発した。
「言ったはずですよ。」
声色は依然変わっていない。
尻目で彼を視界の端に捉える。
後ろで手を組んだ、姿勢の良い直立姿も。
その表情も。
「"お出ましですね"、と」
冷や汗が背中を伝った。
ベアトリーチェは視線を目の前に戻す。
どちゃ。
男は――否、男の"右腕と首から肩"は汚い音を立てて、地面に落ちた。
胸あたりから下は欠損しており、赤黒い血が小さな池を形成し始めた。
顔色は青白く、死んでいると一目瞭然で理解できる。
ベアトリーチェは顔を上げた。
そこには、
タタタタたたタタ、け――。たすけえテェ、テテてエ…………。
人間の男の声を発する、魔物の顔が佇んでいた。
猿のようなその顔は「人のような形状」をしているが、顔面の各パーツが少しずつずれている。
ぽっかりと開けられた目と口は、真っ黒い虚空が覗いていた。
「……ヒュッ……、か、あ……」
ベアトリーチェは乾いた息を飲み込んだ。
コッちだぁァ……、。
魔物はぬるりと目線をベアトリーチェに向けた。
「…………。」
大きな頭を非生物的な挙動で小刻みに動かし、顔を近づける。
刹那、魔物がその細長い腕を振りかぶった。
「…………うっ、ガァっ!」
恐怖心を全て飲み込むように、ベアトリーチェは全身に力を入れ、剣でその腕を弾き返す。
タタたた、たすけテえ
即座に距離をとる。
魔物は身体をくねらせ、全容を表した。
薄暗い中でもその気味の悪い容貌は確かに確認できた。
瘦せた猿と鳥の中間のような姿。皮膚は薄く、筋線維が透けて見える。
大きな頭を支える首は細く、腹部は大きい。
ギシィ……、ピチャ、ぎぎぃィ……
手足を動かす毎に関節から乾いた木の皮を捻じるような音が響いていた。
その姿のおぞましさたるや、生理的嫌悪を誘う姿に、ベアトリーチェは歯を食いしばった。
無意識のうちに剣を両手で握り、全身の筋肉が戦闘態勢へと凍りつく。
「ななな、なんだアイツはっ……!!! 気味が悪すぎる!」
リュウドウの横に飛び付き、視線は逸らせないまま縺れる舌で彼に苦言を呈する。
彼は――相変わらず微笑していた。
優雅に、まるで珍しい美術品でも鑑賞するかのように。
「あの魔物は、『ミミゾエ』。人の声真似をする、擬態性哺乳型の生物です」
スラスラと、文献を読んでいるかの如き滑らかさだ。
まるで学者の講義である。
「特徴は人間の声帯を模した器官を喉奥に持ち、人の声を完璧に再現します。喉は大きな声帯で埋まって退化しており、食道としての役割を果たせなくなっております。
森の奥で、助けて、こっちだ、などと呼びかけ、獲物を誘い込みます。
声は一度聞いたものなら数年後でも模倣可能らしいですよ」
「何とも、特徴までもおぞましいとはな。……まて、喉が退化しているなら、どうやって食事を……」
ベアトリーチェが言い終える前に、ミミゾエは足元の遺体を掴む。
「……?!、嘘だろ……」
男の死体を腹に擦り付けるように押し込む。
乾いた皮膜が伸び、裂ける。
腹部がぱっくりと割れ、その中から無数の細かな歯列が覗いた。
ゴリごり、ゴリッ……、グチャぐち、ちゃ
男の遺体は血を吹き出しながら埋もれていった。
耳を塞ぎたくなる音が、森の静寂を汚す。
肉が削られる湿った振動が足元まで伝わってくる。
咀嚼音、ということだろうか。
「生態についてですが、捕食は暗闇か夜間。光を嫌うので、活動は樹海になりますね。
基本的に対象を生きたまま腹部に押し込むそうです。見ての通り、体表が弾性皮膜状で開閉します。
腹中には微細な牙が並んでおり、ゆっくりと削り取るように消化するらしいです」
目の前で捕食が行われているにも関わらず、一切動揺を見せていないリュウドウは、にこやかに解説を続けていた。
「あぁ、今目の前で行われているよっ」
ベアトリーチェは叫び、半歩後ずさる。
しかしミミゾエは首の角度をねじり、彼女へゆっくりと目を向けた。
黒い虚空のような目が、かすかに細められる。
タタタ……たすけてェ……
ココだヨォ……ベエェ……。
嘲るように、男の最期の声を重ねながら。
「ときに、あいつは強いのか?」
ミミゾエは明らかにベアトリーチェらを狙っている。
「魔物の中でもそれなりには。人間への害も多いので躊躇は不要です。あの感じだと、貴女を食べたくて仕方がないようですね」
「だろうな……。私よりリュウドウの方が美味しいと思うんだが」
横目でリュウドウの滑らかな肌を見ながら答える。
半ば褒め言葉の台詞に、等の彼は小さく笑っただけだった。
「まさか。こんな『気味の悪い生物』を食べたいなど、余程の偏食家でしょう」
まるで皮肉を言っているようなその言葉に、ベアトリーチェは戸惑う。
「それは、どういう意味なんだ……? 気になってはいたが、君の種族は一体――」
言い終える前にミミゾエの影が揺れ、骨の軋むような呼吸音が鳴った。
「――!」
瞬間、前兆のない跳躍をし距離を詰めて来る。
長い腕を鞭のようにしならせ、ベアトリーチェの頭めがけて振り下ろした。
「……中々素早いな」
すかさず回避したベアトリーチェは、苦笑いを残しながら呟いた。
腕が振り下ろされた場所は砂ぼこりと落ち葉の破片が舞っている。
「リュウドウっ、大丈夫か!」
彼女の心配に反し、砂塵の向こう側から陽気な声が聞こえた。
「戦闘へ御集中下さい。目の動きに細心の注意を」
「……、!」
リュウドウが言い終えると同時に、ミミゾエの大きな黒目がベアトリーチェを見据えた。
そして、そのおぞましい身体をくねらせ、彼女の方へ走り出す。
「うおっ」
変則的な動きと、細い体に見合わない俊敏性。
呆気にとられたベアトリーチェは、急接近を許してしまった。
咄嗟に半身を下げ、ミミゾエの攻撃を避ける。
真っ直ぐに突き出したその腕と爪は、なんと背後の大木に突き刺さっていた。
――…………今だな。
生まれた隙。
彼女の戦闘経験は、それを見逃さ無かった。
下から、逆袈裟斬りのように剣を振るう。
鋭い音が響き、腕へとヒットした。
しかし、
「な……」
刃は通っていない。薄皮だけが裂け、赤い線が浮かぶだけ。
冷たい汗が背中を伝い、ほぼ反射で剣を防御の形に構える。
爪が岩を引っ掻くような甲高い音を響かせた。
ミミゾエの長い爪は、剣を掠め、ベアトリーチェの頭の横を通り過ぎる。
風圧と風を切る音が、耳元で聞こえた。
「ミミゾエの皮膚は、他の肉食動物から身を守るため、牙や爪の攻撃に耐性を持っています」
背後からリュウドウの声が落ちてきた。
この極限の状況で、その声だけが妙に冷静で、逆に安堵しそうになる。
「故に、斬撃が通り難い。体も、案外柔軟性と膂力が高いのでお気をつけて」
「りょ、了解した」
奥歯を噛み締め、剣を強く握る。
――……相性は少し悪いな。
たたすけェダダぁ……、
ミミゾエは依然として、身体をくねらせてベアトリーチェを見据えている。
腹部の口からは涎が垂れ、息も上がっており、完全に獲物として捉えている様子だ。
――俊敏かつ、柔軟……。あまり距離を詰めたくはないが……。
固唾を飲み、2歩後ずさる。
ごっ。
何かが足に当たる感触があった。
硬いが、石よりは柔らかい。
ふと足元に、目線を動かす。
「…………。」
濃い鉄の臭いが、鼻腔に絡み着いた。
視界の端に転がった頭部が見えたが、今は意識を割けなかった。
――他の放浪者か……。すまない……。
死臭が空気の層になって張り付く。
暗がりでミミゾエの眼球だけが濡れたように光っている。
またもや腕が振り下ろされた。
「……!」
意識を集中させ、攻撃を受け流す。
野生動物らしく、獰猛に、無作為に攻撃は繰り返された。
力強い連撃を、薄暗い中必死に目で追う。
相手は素手だが、剣で受け止めているにも関わらず目立った傷は一切見当たらない。
「……ふッ!」
攻撃の合間を見極め、アッパーカットのように逆真向斬りを繰り出した。
斬撃は顎にクリーンヒット。
しかし、大したダメージもなくミミゾエは小刻みに頭を揺らし、ベアトリーチェへ倒れ込むようにして突進をした。
「うおっ、嘘だろ……」
――顎だぞ……。
眉間に皺を寄せて、辟易する。
「さて、どうするか……」
苦笑いを浮かべながら、頭を働かせる。
「一つだけ、アドバイスしましょうか」
途端、この空気感に反するように爽やかな声色が響いた。
「完全放任するのはダメだと思いまして。一言だけ、ミミゾエに雑な斬撃は通用しませんので、『鎧を着た人』と対峙しているイメージで戦うとよろしいかと」
「鎧を着た、人……」
曖昧なアドバイスだが、この好機を捨てる訳にはいかない。
「貴女に与える、最初の試練です。頑張ってくださーい」
「な、中々陽気に言うじゃないか……」
にこやかなリュウドウに反し、彼女の表情は当然ながら険しい。
――……斬撃は効果薄め、か……。
息を整えながら、ベアトリーチェはミミゾエの身体を見据える。
およそ動物とは思えない挙動を見せるそれは、油断をすればすぐさま命を刈り取って来そうな雰囲気だ。
――斬撃に、頼らなければ……なんとか……。
握っている剣に目を落とす。
「……そうか。……なんとなくだが、閃いたぞ」
ハッとしたように顔を上げ、ミミゾエを視界に収めた。
「ほう、良いじゃないですか。どのように対応するのか、楽しみです」
彼の姿は見えないが、楽しげな声だけが聞こえる。
ベアトリーチェは身を屈め、太腿へ力を入れた。
ミミゾエが鳴き声を上げ、目をギョロギョロと動かす。微かに開閉する腹部の口から、かちかちと歯列の音が聞こえる。
「斬撃が効かないなら……ッ」
そう言った瞬間、彼女は地面を蹴りミミゾエの方向へ跳躍した。土が弾け、矢のような速度でミミゾエへと跳ぶ。
剣はあえて下げたまま。接敵の一瞬、身体をしならせ、回転蹴りを放つ。
その踵がミミゾエの顔面にめり込み、乾いた衝撃音が森に散った。
足が顔にめり込み、鼻血を吹き出しながらミミゾエは吹き飛ばされる。草木を破りながら、遥か後方へ飛んで行ったのだった。
「打撃に転ずるまでッ!」
ベアトリーチェは空中で体勢を整え、軽やかに着地した。肺に一度だけ息を満たし、視線は獲物から外さない。
「……えっ、それは流石に脳筋では」
後方から、困惑を隠せないリュウドウの声。
しかしベアトリーチェは振り返らず、その声音を置き去りにするように走り出した。
彼女の姿は一瞬にして暗闇に消える。
「まさかそう来るとは……」
取り残されたリュウドウは、顎を摩り僅かに口角を上げた。
「見立て通り、彼女は面白くなりそうだ……」
微かに差し込む陽光が彼を照らしている。
光の輪郭の裏側で、彼の背に影だけが深く沈む。それは彼の思考とは別の、生々しい気配を孕んでいた。
リュウドウの背後には木々による、深い闇が染み付いている。
「………………。」
その闇の奥から、湿った声が漏れた。
タタ、たすけテ……、こい、コチラぁに……ィィ。
草と土を押しつぶす鈍い音が近づく。
ぬめった光をたたえた二つの目が、闇の中でゆっくり持ち上がった。
骨を軋ませ、長い腕を引きずりながら、一匹のミミゾエが立ち現れたのだった。
*
ベアトリーチェは草木を掻き分け、凄まじいスピードで走り抜ける。
数メートル先に、倒れているミミゾエが視界に入った。
「やはり、打撃には弱いようだな」
そう言葉を残し、走りながら跳ぶ。
ミミゾエがよろよろと起き上がろうとした瞬間、彼女は剣を横に持ち替えた。刃ではなく、ちょうどフラー部分――刀身の中央部――が相手に向くように。
そのまま、剣をミミゾエの脳天めがけて振り下ろした。
鼻から多量の血を流し、ミミゾエは呻き声を上げて再び地面へ倒れ込む。
形勢逆転である。
「……………フゥ」
軽く深呼吸をし、息を整えた。
――大丈夫だ、リュウドウ。決して、軽い考えで突っ込んだ訳ではない……。
一見、「殴れば良い」という単純な案に見えるものの、ベアトリーチェには確固たる考えが浮かんでいたのだった。
「『鎧を着た者』を想定しろ、だったな」
リュウドウの声を反芻する。
――『捕食は夜間で、光を嫌います』。
彼の解説が、脳内に響いた。
ミミゾエが、荒い息を吐いて起き上がる。
ベアトリーチェ目がけて走り出した。
大振りの一撃を剣で華麗に受け流す。
そしてフラーでミミゾエの喉部分を、横ぶりで打ち返した。
堪らず、呻き声を立てながら後ずさる。
その隙に、ベアトリーチェは
「暗くて忘れがちだが、今は真昼だったな」
そう言って剣を斜め上に向かって一文字斬りをするように、振った。
強烈な斬撃が、木々の枝葉を切り裂いた。
!!…………!、!
昼下がりの、鋭い陽光がミミゾエを照らした。
ミミゾエは光を極端に嫌う。昼光が直に当たると、甲高い悲鳴をあげて顔を押さえた。
その瞬間、ベアトリーチェは瞬時に距離を詰める。
片目を抑えながら、ミミゾエは腕を振り下ろす。
しかし、彼女は俊敏な動きで後ろに周り混んだ。
――鎧には、弱点がある。動きが柔軟なら、尚更……!
そのまま、素早い刺突をミミゾエの肩裏にお見舞いした。
――動き安いように、鎧の関節部は布で出来ている。故に、柔らかく攻撃が通りやすい。原理は同じことだったみたいだな。
刃が肩を貫き、濃い紅が噴き出す。ミミゾエは金切り声をあげ、もがきながらも反撃してくる。
だがベアトリーチェはさらに正確な剣捌きで膝裏、肘裏を次々と断つ。
関節が軋み、動きが鈍る。
とうとう、ミミゾエは膝を着いた。
「よし……!」
正面に立ち、ベアトリーチェは地面を強く踏み込む。
身体に溜めを作り、剣を一直線に突き出した。鋭い先端が、相手の喉頸を正確に捉える。
喉の柔弱な部分を貫き、剣は後方の木幹にまで突き刺さった。
断末魔は途切れる間もなく、ミミゾエは静かに崩れ落ちた。細い腕がぬるりと落ち、首が傾く。
断末魔が聞こえる間も無く、剣は喉を貫通し後ろの幹に刺さり制止した。
ロングソードの刺突は元来、鎧をも穿つパワーがある。いくら魔物といえど、剛腕であるベアトリーチェの溜めが入った一撃は致命的だ。
剰え、首も関節部であり鎧に置き換えても装甲が無い部分だ。
ベアトリーチェの読み通り、ミミゾエは剣で穿たれ、息絶えた。
「はぁっ……、ハア」
剣を抜き取り、荒くなった息を整える。
ようやく、勝利を奪い取ったのだった。
「……なんとも、厄介な魔物だったな」
地面に落ちた死体は、蛇のようにぐにゃぐにゃと曲がっている。
「それに、見た目も恐ろしい……。もう会いたくはないな」
戦闘中、ベアトリーチェは放浪者らしき遺体を何度か目にした。
中にはミンチのように食い散らかされた者もあった。
彼女は、ミミゾエの見た目だけでなく生態、習性に対する嫌悪感を飲み込むように、深く深呼吸を残した。
――これが、何体もいるのか……。
周りの暗闇を見渡し、顔を引き攣らせる。
剣を鞘に差し込み、ベアトリーチェは振り返った。
「…………ッ!」
突如、彼女の鼓動が跳ねた。
「リュウドウ……!」
リュウドウの姿は見当たらない。
完全に一人にしてしまっていた。
冷や汗が頬を伝い、焦燥感が湧き上がる。
ベアトリーチェは地面を蹴って元来た道を駆け出した。
*
ゆっくりと、背後の漆黒からミミゾエの顔が覗いた。
ミミゾエはリュウドウを見定めると、関節を軋ませながら距離を詰めていく。
頭部をブリキ人形のように小刻みに震わせると、腹の裂け目から無数の歯列がちらりと覗いた。
「…………。」
リュウドウは依然として無表情のまま、声を発さない。視線は前を向き、微動だにしない。
だが、彼の背後にその魔物が立っている。
だァ、こ、ココ……
断片化した人間の声を紡ぎながら、ミミゾエは伸ばした手をゆっくりと差し出す。
奇妙な好奇心を宿した目つきで、目の前の彼を舐めるように見回した。
「俺を避けずに、興味を持つとは。少々様子のおかしい個体のようですね」
リュウドウは振り返らず、ただ前を見据えたまま呟く。
台詞は静かだが、どこか含むところがある。
ミミゾエへ、あるいは背後の"何か"へ向けられているかのように響く。
ぐゥあ、タタた、スけけ……
ミミゾエは顔を近づけ、舐めるように彼を観察する。
細長い手が、ぎこちなくリュウドウの上半身に触れた。
長い爪と萎れた指で、肩から首筋へと這いのぼる。
そして。
………ア、あぁ…………………。
左手が彼の頬に触れ、さわさわと揉む。
「………………。」
触り方は、慈しみではなく、玩具の扱いのようだ。
リュウドウは振り返らない。
無表情のまま、視線は何処にも留まっていない。
「…………汚い手で……私に、触るな」
その声は、いつもの柔らかな敬語ではなかった。
低く、濁り、明らかに別人のように重い響きが空間に落ちる。
空気が、音ごと冷たくなった。
言い終えたと同時に、ミミゾエの頭部が――風船のように、弾けた。
パンっ、
という薄い破裂音。
粉々の肉片と血が、短い時間に飛散する。
まるで幾重もの力が一点へ収束したかのように、頭は四散した。
肉片、骨、脳、全てが目に捉えられない程に細かく、小さく、そして勢い良く吹き飛ぶ。
軽く、些細な事が一瞬起こっただけと言わんばかりに、空気も、草木も、震えることなく。
ミミゾエの体は倒れ、泥と血が混じる音だけが残る。
振り返ったリュウドウは、口角をほんのわずかに上げた。
「俺に、変な企みは通用しませんよ。全く、趣味の悪い」
彼は淡々と言い、だがその声に軽い辟易が混ざる。
近づきながら、破裂した頭部を眺める。
断面は白く、肉片は散っている。
血が首の断面からゆっくりと滴った。
「まぁ、もう聞いてないでしょうけど」
細い皮肉を零した。
言葉はいたずらのようだが、周囲の闇はそれに応えない。
リュウドウは死骸を一瞥し、足元を踏み直してから後ろを振り返る。
草木を掻き分ける足音が、遠くから近づいてきた。
彼女が――走って来ている。
やがて、早足の呼吸が木々の間を震わせた。
*
「リュウドウ! 大丈夫かっ!」
草木を割って飛び込むように、ベアトリーチェが姿を現した。
肩で息をしながら、剣を構えたまま周囲を見渡す。その視線が――リュウドウの足元で動かなくなったミミゾエの死骸を捉えた。
「………………え?」
わずかな戸惑いが、剣を握る手を緩ませる。
ミミゾエの頭部は跡形もなく失われ、首の断面から血だけが静かに滴っている。
ベアトリーチェは瞬時に状況を悟り、剣先を下げた。
「……どうやら、私の心配は杞憂だったようだな」
その言い方は、安堵と同時に、どこか肩透かしを食ったような響きすら含んでいた。
――いや、当然か……。彼は魔王なのだ。余計な心配は不敬にすらなり得るかもしれん……。
リュウドウはベアトリーチェの方を向き、いつも通りの落ち着いた所作で軽く頭を下げる。
「ええ。ご心配をおかけしました。それより、勝ったようですね。お疲れ様です、ベアトリーチェさん」
その声には不穏な色は一切残っていない。
何事もなかったかのように、穏やかで雅馴な敬語だけが静かに響いた。
「……あぁ。初めの修行は、無事突破だ」
ベアトリーチェは剣を鞘に収めながら、ミミゾエの死骸へ一瞬視線を落とす。
その不可解な破壊の痕跡に眉を寄せかけた。
――頭部が……。どこにも転がっていない。……何をしたんだ。
結局、何も言わずに視線を戻した。
「ここに残っていた個体は、それだけか?」
「はい。私の方へ来たのは、この一匹だけでした。もう危険はありませんよ」
リュウドウは死骸からひとつ距離を取り、裾についた砂埃を軽く払った。
その手つきは、あくまで上品で、静かだ。
「では、とっとと樹海を抜けよう。正直、ミミゾエとやらにトラウマを抱きそうだ……」
「はは、なるほど。承知しました、先導いたします」
二人は並んで森の奥へ歩き出した。
風が吹き抜け、わずかに血の匂いを運び去っていく。
「一旦、修行は休憩ですね」
その背中を、倒れたミミゾエの口から漏れた黒い血が、じわりと広がるように染めていた。
退役軍人のおっちゃん
年齢:58歳
かつて帝国軍・第二リィド要塞都市の哨戒部隊に所属していた退役軍人。
およそ10年前、戦闘で負った足の傷とPTSDにより軍を退いた。
現役時代は危険地帯トワイライト・リムの哨戒任務に従事していたが、その任務中に部隊は壊滅的被害を受ける。
妻を含む多くの仲間がミミゾエによって命を落とし、生き残った隊員はわずか数名だった。
彼が首から下げているドッグタグは自分のものではなく、亡き妻のもの。
ミミゾエが彼女の声を真似るようになったこともあり、事件以降は強いトラウマと鬱症状に苦しんだ。
その後は後方任務へ転属し、経験と知識を活かして部隊の支援に回る。
現在は軍を完全に退役し、息子と娘が営む農園を手伝いながら穏やかな老後を送っている。
ただし家族に少しでも贅沢をさせたいという思いから、時折ギルドの依頼を受けて小遣い稼ぎをしている。
危険な仕事は避けており、魔物やトワイライト・リムに関係する依頼は決して受けない。
人と話すことが好きで、特に活気のある若者を見ると嬉しくなる性格。
なお、帝国の軍制上ベアトリーチェは彼の上官にあたり、加えて年齢的にも先輩。
なので、作中のあの態度は軍人として結構危うい。




