序章 出会い 三
「ええぇぇぇ、死んじゃったんですかぁ」
場面は戻り、平日昼下がりの陽光が差し込む魔導店。
ノクティスは目を見開き、声を上げていた。
「なわけないだろう。じゃあ、目の前の私はなんなんだ」
呆れて目を細めるベアトリーチェは紅茶を啜る。
「悪霊退散」
どこからか持ち出した数珠を嵌め、合掌するノクティス。
「誰が幽霊だ」
「とにかく、冗談はさておき」
椅子の背もたれに体を沈め、目を伏せる。
ノクティスはそのまま、「お前が始めたんだろ」というベアトリーチェの声を聞き流し、質問をする。
「そこからの展開はどうなるんです? 失った左腕も、勝手に生えてきた訳ではないでしょう」
ベアトリーチェは深呼吸をして、ゆっくりと言葉を発する。
「……そうだな、ここからが転換点だ。続きを話そうか……」
一
「ベアトリーチェ……」
暗闇の中、男性の声が反響するように響いた。
その声色は低く、落ち着いており――僅かに年齢を感じさせる。
忘れるはずがない、この声は――
「……お前には、剣を選ばない自由もあるんだ」
聞き覚えのある台詞。
何度も、何度も同じ言葉を聞いた。
そして決まって、同じことを返していた。
その答えは今でさえも、決して変わらない。
「私は……」
自分の声が闇の奥に、力なく吸い込まれる。
「……ロードスクヴェルトというのは、決して――」
男の声がもう一度聞こえる。
しかし、世界が白く染まり始めるにつれ、この声はどんどん遠ざかっていく。
ベアトリーチェは「待って」と手を伸ばした。
そんな彼女を無視するように、彼女を包む闇は急速に白光へと変わり、輪郭を失ってゆく。
光は容赦なく全てを呑み込んだ。
「……!」
はっと目を見開く。
伸びた手の先には太陽が輝いており、視界には青空が無限に広がっていた。
――…………?
頭を傾け、周囲を見渡す。
古代竜の影も岩肌も、そこにはない。
ただ、鮮やかな緑の草原と、点々と続く小さな林だけが広がっていた。
もう少し周りを見るべく、ベアトリーチェは半身を起こす。
――…………ッ。
体中に、筋肉痛にも似た痛みが走った。
動けないほどでは無いが、痛い事には変わりない。
――ここは………………。
疑問。
意識が鮮明に起き上がって来た。
先程まで、古代竜と戦っていたはずだった。
しかし今、目の前に広がっているのは穏やかな草原であり、彼女はシーツに寝かされ、かけ布まで丁寧に被せられている。
「………?!!」
ここでベアトリーチェは、ハっと急いで左腕を確認する。
戦闘で焼け消えた左腕。
あの時の喪失感と絶望がせり上がり、冷や汗を呼び戻した。
しかし、視界で、右手でしっかりと確認できた。
――…………左腕が、
そこにはしっかりと、綺麗で丈夫そうな腕が存在していた。
鎧や衣服は焦げて削れているものの、腕は満足に残っており、痛みも当然無い。
腕を持ち上げ、掌を開閉してみる。
「……なんでだ……」
何事も無かったかのような体。
傷は消えており、骨にも違和感がない。
「何が起きた……」
確かに竜に打ちのめされたはず。
困惑したベアトリーチェが顎を摩っていると、
「おはようございます」
左の方から声が聞こえた。
なんとも穏やかで滑らかな声色。
若々しくも渋さを感じさせる声質だった。
「!……」
驚いて顔をそちらの方へ向けるとそこには、
――……………………………………。
思わず、ベアトリーチェは目を見開いたまま固まった。
見蕩れたとも言える。
彼は、白磁を思わせる肌を持っていた。
光に触れてなお影を抱え、血の温もりよりも冷えた美しさを際立たせている。
人形じみたその肌は、刃で切り裂けば砕け散る硝子のように脆そうでありながら、同時に触れることを許さぬ冷厳さを放っていた。
穏やかに開かれた、大きめの猫目と長い睫毛。
瞳に光が無い、まるで底が見えない水底。どす黒く、光を拒んでいる。
見られると背筋が寒くなるような目だ。
直線の髪が、眉のあたりでさらりと揺れる。
その奥から覗く双眸は、獰猛さではなく、無味無臭の静謐さを湛えていた。
世界に対し、好奇心を抱きつつも本心では静観を取るとでも言いたげな無機の眼差し。
それに射抜かれれば、自分という輪郭そのものを奪われるかのような錯覚を覚える。
唇が、ほんのり紅い。
妖艶で、だけどそれがかえって不気味である。
まるで死人に紅を塗ったようだ。
言葉を吐けば、きっと嫌でも目を引くだろう。
総じて、なんとも中性的な見た目である。
少しボーイッシュな女性の可能性も感じられた。
――………………。
衣装は妙に浮いてる。
戦場にも、宮廷にも似合わない白いワイシャツに黒いベストとタイ。
まるで喪服だ。
派手ではないが、理由もなく目を奪う。
耳に黒い飾りがある、真珠か宝石か。
小さいが、やけにベアトリーチェの目に残った。
白い肌との対比のせいか。
それは、ただの装飾では無いように感じられた。
妙に、なにかを帯びている感覚。
彼は、人形のような美を持ちながら、人間よりもはるかに人間を遠ざけていた。
無垢と穢れを同時に孕むその姿は、見る者に畏怖と不可解を刻みつける。
……まるで、闇に仕立てられた球体関節人形のように。
「お早いお目覚めでしたね」
後ろで腕を組み、にっこりと微笑みを浮かべる。
視覚だけなら、非常に社交的で親しみ深い。
だが、
――…………線が細いって言えばいいのか。だがなんだ………、威圧感がある。
目の前の人物に圧倒され、動けなくなったベアトリーチェはゆっくりと固唾を飲むことしか出来なかった。
「ァ……、きみ……は」
口の中が乾く。
辛うじて出た声は、喉が擦れたようなか細い音だった。
――……彼は、
先程の戦闘を思い出す。
今目の前に立っている人物は、ベアトリーチェを竜から守ってくれたのだった。
しかしそれ以前に、古代竜を瞬殺した者でもある。
――何者、なんだ……。
年齢は10代にも見てとれる。
体格もスリムで身長はベアトリーチェの首元辺りまでしかない。
「君は……、一体……」
無数の疑問が浮かび上がる。
口を開いたベアトリーチェは、彼に質問を投げかけようとするが、
――…………。
彼女の腹の音がそれを遮った。
ダメージを負い過ぎた体が、悲鳴を上げているような音である。
顔を背け、頬を赤らめる。
彼は戸惑う様子も無く、微笑みを浮かべたまま、
「丁度良かった」
と言った。
「食事を用意してたんです。是非とも召し上がって下さい」
示した先には焚き火と鉄鍋が整然と置かれており、湯気を滾らせる水の貼られた鍋の中には肉の塊が沈められている。
――………………。
しかし、その奥に一際注目を惹かれる。
そこには真っ二つになった古代竜の上側胴体が置かれていた。
とてつもなく巨大。
切断面は内蔵が溢れているものの、刃物では再現できないような綺麗さだった。
一瞬たじろぎつつも、ベアトリーチェは
「あ、ありがとう……」
と弱弱しく呟いた。
二
「大怪我をしてましたからねー……、栄養を取らないと衰弱してしまいます」
そんなことを呟きながら彼は鍋に入った肉を、綺麗に皮の削られた枝でゆっくりかき混ぜている。
ベアトリーチェは傍らに置かれた丸太に腰掛け、怪訝な目でそれを眺めていた。
「助けてくれて、ありがとう。感謝し切れないほどだ……。君がいなかったら……」
「結構、結構。ズタボロでしたから」
お気になさらず、という風に笑顔を称えたまま応える。
「致命傷だったはずだ……。一体どうやって」
「勿論治癒魔法です」
まるで「当然」と言わんばかりにあっさりと返す。
ベアトリーチェは更に困惑した。
あのような大怪我、一般的な回復魔術では延命がやっとのはずである。
それが今やほぼ完治しており、左腕まで生えている始末である。
「………………。」
なにか裏があるのか、そんな事まで考えてしまう。
ベアトリーチェは敢えて口を噤んだ。
―――ただの熟練魔導師とは考え難い気が……。
魔導に疎い彼女でも、この懸念は直ぐに思いついたのだった。
竜を殺傷した時といい、彼の見た目は強力な魔法を扱う魔導師としては相応しくない。
正装に、錫杖や魔導書すら持っていない手ぶらなのだ。
なにより、大型古代竜を瞬殺できるなど、素っ頓狂な事柄である。
「………………。」
しかし、彼女は思考を巡らせるよりも空腹感が鼻についていた。
湧き出る唾液を飲み込みながら、調理している様子を眺める。
中程度の鍋の中で、水に沈みゆったりとかき混ぜられている肉。
茹でているものかと思っていたが、鍋は組まれた枝の端に吊るされており、火が鍋の横に微かに触れる程度だった。
当然水は湯気を立てているものの、沸騰していない。
「何を作っているんだ?」
無邪気にも、気になってしょうがないベアトリーチェは、彼の左肩あたりから手元を覗き込む。
初見はその存在感に、静かな圧を感じたものの、穏やかな雰囲気と落ち着いた微笑みに、不思議と近寄り難さもあるが親しみを感じさせられる。――単純にベアトリーチェが社交的かつ図太いという理由も考えられる――
間近で見ると彼の髪は、瞳同様真っ黒だが非常に艶やかで漆を塗ったように陽光で照らされていた。
声を掛けて直ぐ、
「ん、」
と彼は振り返る。
髪がサラりと微かに揺れ、なんとも艶っぽい落ち着いた匂いが鼻に伝った。
「ローストをしようと思いまして、今は下処理中で御座います」
まるで従者のような物腰である。
――あぁ、どうりで……。
納得したベアトリーチェ。
温水からは微かに爽やかな香りと金属臭が匂ってきた。
「そこにある古代竜の大腿部を使いました。……抵抗ありましたか?」
近くに古代竜の死骸が置かれている以上予想はできたものの、かなり行き届いた気遣いである。
「まさか。むしろ、放浪者にとって竜はアウトドア料理の高級食とも聞いたことがある」
ベアトリーチェは「しかし……」と呟いて、
「土属性古代竜とは、少々異色だな」
「そうですよね、それ故の下処理です。古代竜は元々肉が固く、更に土属性の影響で筋繊維が密で肉質も更に硬いんですよ。更に血中の鉄分と鉱成分の影響で鉄臭さが目立ちます。岩を直接焼くようなものです」
流暢に、専門的な知識を語る。
深く感心したベアトリーチェは興味津々の態度を隠さない。
「詳しいんだな。それはどんな下処理なんだ?」
「野生の香草である、セージとジュニパーベリーの出汁を混ぜた温水に浸して、鉄臭さと土臭さを消しているところです」
「ほぉ……」
気づけば鉄のような匂いは消え、香草の香りが蔓延していた。
ふと彼女はあることに気づく。
「そういえば、この野営道具は君のか?」
起きたときのシーツも同様に、彼はベアトリーチェと出会ったとき、竜を討ったときは手ぶらであったはずだ。
近くにカバンやリュックの類いも見当たらない。
そんな素朴な疑問へ、彼は
「近くで亡くなっていた放浪者のものを拝借致しました」
淡々と述べる。
ベアトリーチェは「え」と声を漏らした。
「追い剥ぎの様ですが、取り合わせが無かったもので。やはり気になりますか」
「……いや、そういう訳ではない」
トワイライト・リムは魔物や匪賊が跋扈している地帯だ、恐らくその犠牲者だろう。
旅の途中、人の亡骸は度々見る。
ベアトリーチェは軍人であり、慣れてはいるものの、やはり思うところがあった。
「後で埋葬をしておこう」
胸に手をあて、心の中で短い黙祷を捧げる。
「既に施しました」
「なんと……。実直な心がけだな……」
彼の即答に、ベアトリーチェは少し面食らう。
先程から、配慮が細かく行き届いている。
彼は「いえいえ」と言いながら、かき混ぜていた手を止める。
「頃合でしょうか」
下処理が終わったのだろうか、彼は鍋を持ち上げ脇の草むらへ水を捨てた。
水に濡れ光を反射する肉の塊を、用意していた薄いタイルのような岩の上へ置く。
そのまま焼くものとベアトリーチェは思っていたが、彼は肉を掴んで別の場所に移動させた。
「焼かないのか?」
「出来れば、もっと美味しく頂きたいでしょう。このまま拳大に切り分け、湿らせた麻布で包みます」
そう言いながら、立てた2本の指をゆっくり振り下ろす。
すると、
――…………?!
肉の塊が静かに3等分に斬られた。
触れてもいないのに、綺麗な断面を示している。
「同じように岩塩とコリアンダーを拝借しました。その砕いたものと、近くの野生山胡椒を擦り込みます。それから、包みます」
テキパキと3つの肉を布で包む。
「これを、先程用意しておいた熾き火の窪みに埋めます。あとは、灰で埋めて待つだけで完成で御座います」
焚き火のなかで、湿った布がじりじりと音をたてている。
既に香ばしい灰と香草の香りが漂ってきた。
「素晴らしいな、料理人なのか?」
「いえいえ、違います。料理が好きなだけです」
焚き火の炭を、棒でつつきながら応える。
――身なり的にもしや、貴族か……? 研究者ということもありうるか……。
スーツは素人目でも伝わってくる良質な素材と高級感。立ち振る舞いや物腰も雅馴に富んでおり、庶民とは到底思えない。
ただの魔導師ではない、ということだけ分かる。
蒸し焼き中の竜肉に、熱が通りきるまで待つこと20分。
ベアトリーチェは思考を回転させながら、静かに丸太へ座っていた。
「そろそろ……」
そう呟いて布に包んだ竜肉を取り出す。
「出来たのか?」
「もうそろそろですね」
応えながら、包みを丁寧に取り外していた。
中から琥珀色の油が滲み出ている。
「表面を、串で刺して直火で炙って……」
くるくると串を回して香ばしい焦げ目を付けていく。
焼き加減は完璧である。
「完成です。どーぞ」
朗らかに笑みを称え、彼は串をベアトリーチェに渡した。
「ありがとう。いただきます」
彼女の空腹度は限界寸前。
平静を装い、ゆったりと串を受け取った。
「本当に美味そうだ……」
目を輝かせながら、ベアトリーチェは涎を垂らす。
当の料理人は恭しく頭を下げた。
表面は黒ずんだ焦げ色、切り口から覗く内部は深い紅褐色。
「………………。」
噛めば岩を連想させる歯ごたえと弾力がありながら、次第に旨味が溢れてきた。
「うぉぉ……、美味すぎる」
味は牛肉の濃厚な赤みと、野兎の野趣、猪肉の香ばしさを合わせたような強い風味。
香草の香りが土臭さと鉄臭さをほぼ全て和らげており、ベアトリーチェの鼻腔をくすぐる。
「食べないのか?」
肉汁を垂らしながら、かぶりつく。
「貴方の為に作ったものです。俺はダイエット中ですので」
「なるほど、確かにスリムだものな」
この程よく細身で、整った体型は努力によるものか、と彼女は感心を受けた。
無駄の無い身体付きとも言える。
「まぁ嘘なんですがね。肥らない体質なので」
「何のための嘘なんだ……?」
肩透かしを食らったベアトリーチェは口の端を引きつらせる。
焚き火の爆ぜる音が、沈黙を埋めた。
焦げた香草の匂いがふわりと立ち、彼女は小さく息を吐いた。
――……温かい。ついさっきまで、死の中にいたのに……。
「重ねて、礼を言う。何からなにまで、本当に助かった」
あっという間に食べ終わり、空になった串を焚き火へ投げ入れる。
脂を吸った串はシュブっという音を立てて、炭へと変わった。
「礼には及びません。ご無事でなによりです」
そう言いながら彼はハンカチを渡す。
ベアトリーチェはお礼を言って受け取り、口元を拭う。
シルクと植物繊維の混ざった、その布の肌触りは非常に心地よく感じられた。
――………………絶対高いな、洗ってから返そう……。
手と口を拭き終え、はっと気づくようにベアトリーチェは冷や汗を一滴垂らした。
陽が赤く染まり始めている。
刻はいつの間にか逢魔が時であり、不穏な影が辺りを長く伸ばしていた。
夕日を背にした彼は薄黒く染まり、逢魔の雰囲気に溶け込んでいるかのように見える。
妖しげで、美しい。
「それにしても、」
そのほんのりと薄緋のふっくらした唇が開かれる。
声は穏やかだが、どこか含みを残しているかのうようだ。
「なぜ、古代竜なぞ討ち取ろうとしたのです? 僭越ながら、蛮勇と言わざるを得ません」
変わらず、落ち着いた調子で口角を上げる。
「鎧の質も高級だ。そんな貴女が、剰え放浪者をしている」
口調は静謐で優しい。
だが、その深淵のように漆黒で大きな瞳は全てを見透かしているように冷たく光った。
問いかけられている間、ベアトリーチェは無意識に胸を引き締める。「分かりきった自白を待つだけの尋問」をされているような、答えを待つだけのような空気が辺りを満たした。
――当然の……、物言いか……。
鮮やかな桔梗紫の髪を一撫でして、彼女は胸に手をあてる。
目には芯の強さを宿していた。
ゆっくりと、言葉を紡ぐ
「命の恩人に、身分を隠す真似はしない。
私の名前は、ベアトリーチェ=アウレリア・ロードスクヴェルト。代々聖なる剣技を磨き上げ、皇室に仕える一族の跡取り。見ての通り、ハーフ・ダークエルフだ。そして、アウスデリア統一帝国の騎士団長を務めていた者。今は、雪辱を晴らすべく自己研鑽の旅をしている」
彼は顎に手を当て、驚いたように息を漏らす。
だが、その薄ら笑いはどこかわざとらしく、静かな漆黒の眼差しには計り知れない含みがあった。
「ほう、これは驚きの経歴ですね」
「特に好きな食べ物は肉と魚だッ」
「その情報はいらないかも」
声を上げたベアトリーチェを、さらりと流す。
「私の説明は以上だ。是非とも、其方のことを教えてくれまいか」
姿勢を正し、強い意志を持って問いかける。
一瞬目を伏せた彼は、小さく息を吐いた。
そして、ゆっくり口を開く。
時間が、周りの音が凪いだような錯覚が走った。
「……私は、『第八魔王』リュウドウ=ヴァルゼルト・フォン・ギルデマール。世界に八人存在する、災禍の王が一人で御座います」
その声を聞いた途端――、
焚き火が、ぱちりと音を立てて弾けた。
次の瞬間、あたりの空気が重く沈む。風が止み、木々のざわめきも遠のいていく。
世界が、彼の名を告げたその瞬間に「呼吸を止めた」ようだった。
確かに、彼はそう告げたのだ。
その名は、歴史上最凶と謳われた"大災厄"の権化。
強き王たちには一目置かれ、弱き人々には畏怖をもって語られる存在。
この中性的で美麗な青年が、その名を背負っているなど――誰が想像できただろうか。
そんな強大な概念が、今、目の前に座している。
肌の上を、冷たい圧のようなものが這い上がる。
ベアトリーチェは、思わず拳を握り締めた。
――この者が、"最凶の魔王"……。
彼は静かに微笑んだ。
「……恐れず、見据えるのですね。やはり、貴女は只者ではない」
薄紅に染まる陽光の中で、彼の眼差しは穏やかに光を帯びている。
「私は貴女の在り方が気に入りました。その修行の旅、もし許されるならば――私も、同行を願いたい」
ベアトリーチェは、言葉を失ったまま彼を見つめていた。
逢魔が時の焔が、二人の影をひとつに溶かしてゆく。
これが、後に語り継がれる。
大英雄と最凶魔王の、最初の邂逅である。
三
「と、ここまでが出会いの顛末だな……」
語りを終え、深く息を吐いたベアトリーチェは、紅茶を一口啜った。
白磁のティーカップは、窓から差し込む陽によって美しい光沢を示している。
「……まさに電撃的な出会いでしたね」
ノクティスも感嘆するように息を漏らす。
「疑いはしなかったんですか?」
「まさか。大型古代竜を瞬殺だぞ、八大魔王以外考えられない」
古代竜と直接一戦交えた経験から、確信を持って言える事だった。
竜は山のように大きく、表皮も岩盤の如し硬さだったのだ。
「衝撃さ……。世界にはこんなに強い人物がいるのだと、蛙が井戸から顔を出した気分を体現した瞬間だったな」
「しかし、気になることが一点……」
ノクティスは口に手を当て、目を細める。
「なぜ、リュウドウ様は同行を提言したのですかね。彼にとってはメリットなど無いはずですが」
その問いに、ベアトリーチェは「あー、それは」と顳かみを人差し指で摩る。
困り顔の彼女に、ノクティスは怪訝な目線を送る。
「私も同じような事を思ったんだ。……ゆえに、リュウドウに直接訊いてみたんだ……」
ベアトリーチェは当時の事をもう一度回想した――。
*
「1つ、質問宜しいでしょうか……、陛下殿……」
恐る恐る、といった風にベアトリーチェは問いを投げかけた。
一行は食事を終え、焚き火の赤い光に包まれながら、仮眠の準備をしているところだった。
リュウドウは薪を数本くべ、火の勢いを確かめるように手をかざしている。
「なんですか急に、そんな敬語は必要ありません」
柔らかく笑う声。火の反射で浮かび上がる横顔には、威圧感など微塵も無い。
謙遜なのか、それとも気配りか。――その真意は測りかねる。
「旅における助手に対する態度で結構です」
「あ、あー……。分かり、……分かったです」
ぎこちない返答に、ベアトリーチェは自分でも頬が強ばるのを感じた。
――一国の王ともあろうお方が……、なんとも寛大な……。なにか思惑があるのではないか……?
疑うのも当然である。
疑念は拭えなかった
「……なぜ、こんな私なんかに同行を乞うんだ? ただの旅ならまだしも、これは修行だ……」
約やかとも言える問。
その問いには、警戒と戸惑いが滲んでいた。
世界一の強者である魔王が、ただの騎士に付き従う理由など、到底考えられない。メリットは皆無だ。
リュウドウは火を見つめたまま、低く静かな声で答えた。
「……先程も述べたように、貴女に魅せられた、と」
ベアトリーチェは息を詰め、彼の声を待つ。
「私は、何もしていないはずだ……」
「否定致します。俺にたじろがない、その気概。なにより、あの古代竜戦でのこと……」
「……負けた、だけだ」
「ええ、そうでしょう。ただ、貴女は負けたにも関わらず、死の淵に立っているにも関わらず、俺に『逃げろ』と言った」
その言葉に、ベアトリーチェの記憶が疼いた。
あの焦げる空気。視界の端で崩れる岩。
それでも彼を庇ったあの瞬間を、彼女ははっきりと覚えていた。
「覚悟を決め、自らを囮にしてまでも他人を助けようとするその御心……。とても感銘を受けました」
「……………………。」
「簡単に言うなら、貴女の性格が好きになりました。ですので、ついて行きたい。ただそれだけです」
なんとも、薄いと形容できる理由であった。
あまりに単純な理由。
だからこそ、逆に嘘ではないのだろう。
「まさか、本当にそれだけ……、なのか……?」
疑いの念が途切れない彼女は、ゆっくりと質問を重ねる。
確かに、この理由だけでは不十分とも言えた。
「んー……。単純に、『面白そうだから』が本心ですがね」
「……………………へぇ?」
間抜けな声が漏れた。
「ほんとに言ってる……?」
「はい。完全に俺の気分ですね」
「?……??!?、??」
ベアトリーチェはその場で、躓いてもいないのにずっこけそうになった。
特大の肩透かしである。
「ぷっ……、あはははっ」
リュウドウが口を隠して笑う。
焚き火の火が彼の顔を照らし、まるで普通の少年のように見えた。
当のリュウドウは笑顔を称えるのみであり、企みも下心も無さそうだ。
「全容が一切見えないな……、君は……」
呆れながらも、ベアトリーチェの口元にはわずかな笑みが浮かんだ。
火の粉がぱちりと弾け、静かな夜に柔らかな空気が広がる。
「とにかく、執拗いようですが俺に気を使う必要は皆無です。身分を隠し、貴女の従者として振る舞いましょう」
両手を広げ、ゆったりと述べるリュウドウ。
その口調には、冗談めかした軽さと、どこか誇りのような響きがあった。
「貴女に、真の強さをお教えするべく、修行を手伝ってあげます」
焚き火の光が彼の横顔を照らす。
赤い火影がゆらめき、ベアトリーチェの瞳にその輪郭が映る。
その言葉に、胸の奥で微かな鼓動が高鳴った。
これは、彼女にとって願ってもない話だ。
「誠に、願ったり叶ったりだ……」
自然と口元が緩む。これまで独りで背負ってきた旅路が、格段に軽くなった気がした。
「『荷物持ち』というのはどうでしょう。旅の間、俺が背負うのは肩書きではなく、荷物です」
わざとらしく胸を張るその姿に、ベアトリーチェは思わず小さな笑みを零した。
「至れり尽くせり、大船に乗った気分だ。…………私に、最凶とは何たるか、教えてくれ!」
「フフ………、いいでしょう。存分に、頼って下さい」
ベアトリーチェは立ち上がり、差し出した手を力強く伸ばした。
迷いはもうない。
リュウドウもまた静かにその手を握り返す。
手のひらが重なった瞬間、焚き火の炎が一際大きく揺らめいた。
契約成立、という言葉が頭をよぎる。
互いの掌の熱が、これからの道を確かに照らしていた。
「行きますか。夜が明け次第、次の地へ」
リュウドウが薪の残りを入れ、シーツを整える。
「了解だ。……荷物持ち殿」
「おや、早速呼ばれましたね」
軽口を交わす二人の背に、深夜の冷たい風が吹き抜けた。
遠くで梟の声が響き、空の端がゆっくりと月光で白み始める。
旅は明け、夜が深まった……。
*
ようやく全てを語り終えたベアトリーチェは、椅子の背にもたれかかって深く息を吐いた。
「……ふう」
店内には、魔導具の灯りが柔らかく揺れている。薬草の乾いた香りと古書の匂いが混じり合い、外の世界とは別の時間が流れているようだった。
「なんか……、彼らしいというか」
ノクティスは半歩前へ出て、顎をひねる。
相変わらず、敬語混じりの柔らかい口調が、どこか憎めない。
「面白そう、だけで動き回っていい存在じゃないでしょ」
「それは、君の話を聞いた後で言えるが、全く同意だ……」
ノクティスの相槌に、ベアトリーチェは苦笑を浮かべる。
胸の奥に、ほんの少しの安堵が灯った。
あの時を思い返して、生きている、という実感がゆっくり戻ってくる。
「とにかく、ご丁寧な回想、ありがとうございました。事の顛末を詳細に理解出来ましたよ」
ノクティスは少しだけ背筋を伸ばし、頭を下げるように礼をする。
その顔は真剣そのもので、単なる社交辞令ではないことが伝わる。
「いやいい、こちらこそ長々と聞いてくれて助かった」
ベアトリーチェは短く頭を下げる。言葉は控えめだが、感謝は確かにある。
「君のお陰で、魔王についても詳しく知れた」
「お易い御用です。魔導学と歴史学については、一人を覗いて引けを取りませんから」
そう言ってノクティスはカウンターの引き出しから小さな包みを取り出した。
藁で縛られたそれは、乾燥させた薬草と小瓶が入っており、かすかに香りが漏れている。
「冒険の途中、負った傷が悪化したらこれを使ってください。消毒と止血効果のある香草と薬液です。足りなければどっかで買って下さい」
言葉はそっけないが、その手付きは確かに丁寧だった。
「なんと。誠に……感謝申し上げる」
ベアトリーチェは包みを受け取り、両手で軽く抱える。
指先に残る温もりに、ひどく救われた気分になる。
「それと、リュウドウ様に伝言を」
ノクティスは窓の外を指さした。
表通りの遥か先、角の小さなカフェの前に人影が見える。
外で待っているのは彼の姿だ。
「『荷物は程々に、はっちゃけ過ぎないよう』ってね」
「ああ、了解した」
ベアトリーチェは小さく笑い、立ち上がる。
かつては大怪我を繰り返したが、歩を進めるだけの力は当然ある。
店の扉を押し開けると、冷たい外気と昼過ぎの匂いが流れ込んだ。
石畳に人々の足音が響き、通りの向こうにリュウドウの影が見えた。
彼はカフェのパラソルの下に腰掛けており、小さく手を振る。
「全く、あなたも幸運ですね。リュウドウ様に同行して頂けるなど、修行が捗るに違いない」
「本当にその通りだ。だが、彼に頼りっぱなしも良くないからな」
ノクティスはヒラヒラと手を振りながら、声を掛ける。
「行ってらっしゃいませ。またのご来店お待ちしておりますよー。魔導品のことなら何でも御座れ。八百万魔導店に投げ銭を!」
「ははっ、分かった! またよろしく頼む」
ノクティスは冗談混じりに挨拶しながらも、目には確かな案じが滲んでいる。
ベアトリーチェは振り返って一度だけ深く礼をした。
「お気をつけて」
「ありがとう」
そしてベアトリーチェは、ゆっくりと通りを進んでいった。
ノクティスの声が遠ざかる。
しかし、どこかでまた交叉するだろう、という予感が彼女をそっと包んだ。
リュウドウの見た目は、私の趣味モリモリ全マシ。




