元旦、いちばんの魔法は「今年もよろしく」
元旦の朝は、世界がまだ目をこすっている時間だ。
空は薄い藍から淡い桃へゆっくりほどけ、雪の残る石畳は光を待ちながら静かに息をひそめている。町の屋根の上には、昨夜の年越しの名残がうっすらと漂っていた。焚き火の煙、甘酒の匂い、笑い声の余韻。風がそれらを一枚ずつ畳み、遠い森へそっとしまい込んでいく。
そんな朝にだけ、湯気は特別な形をする。
ただ温かいだけではない。湯気の輪郭が、見えない糸を撫でる。年の境目にゆるんだ縫い目を、そっと整える。
町外れの坂道を少し下ったところに、小さな店がある。
木の看板には、白い文字で控えめに書かれていた。
【薬湯と雑煮の店 カエリの灯】
扉にはしめ縄。紙垂が揺れ、鈴がひとつ、朝の冷えた空気をからりと鳴らす。鈴の音は、この町にとって合図だった。――今年も、ここが灯る。帰る場所が、ひとつ増える。
店主のユイは、鍋の前に立っている。
髪をひとつにまとめ、袖をたくし上げ、火の加減を見つめる眼差しは静かだ。昔、大魔導塔にいたという噂がある。塔の上で雷を呼び、結界を張り、名のある魔法を扱っていた、と。けれど今のユイは、鍋の湯気の色を見ている。塩をひとつまみ落とす指先は、呪文の指先ではなく、暮らしの指先だった。
出汁の香りが立つ。干し茸の甘い匂い、根菜の土っぽさ、鰹に似た海の気配。そこへ柚子の皮をひと欠片、ふわり。
湯気が、少しだけやわらかく笑う。
カウンターの上で、白い毛玉のような小さな精霊がぴょこんと跳ねた。
コロ、とユイは呼ぶ。湯気に集まる精霊だ。こたつ布団の綿みたいにふわふわで、鈴のような音を鳴らす。コロは今朝、やけに落ち着きがない。窓辺へ行っては戻り、戻ってはまた行く。外の空気を、何度も確かめるように。
「……うん。今日は、そういう日だね」
ユイは独り言のように言って、扉の札を指でなぞった。
札には、少し照れくさい文字が書かれている。
元旦、いちばんの魔法は「今年もよろしく」
ユイはその言葉を、声にしてみる。
「今年も、よろしく」
すると不思議なことに、店の空気が一度だけ、温度を上げたように感じられた。火の熱でも湯気でもなく、もっと小さくて確かな温もり。人の心が「ここにいていい」と思う時の温度だ。
最初のお客は、いつも老夫婦だった。
手を擦りながら入ってきて、いつもの席に座り、いつものように笑う。
「今年も、よろしくねえ」
「こちらこそ」
ユイが返すと、床板の隙間に淡い光が走った。
光は目立たない。誰かが「魔法だ」と指をさして騒ぐようなものじゃない。ただ、店の端から端へ、細い糸が一本引かれる程度。けれどその糸は確かに伸びて、扉の外へ出て、路地の角を曲がり、隣家の玄関へ結ばれていく。
この王国では、新年の結界は“大きな呪文”で張り替えない。
塔の上から雷を落とすより先に、町の一軒一軒で交わされる挨拶が、結界の糸になる。言葉が言葉のまま世界を縫う。そういう年のはじめ方を、この国はずっと守ってきた。
だからこそ、挨拶ができない者は――今年に結ばれない。
ユイが雑煮をよそう。白い餅が湯気の中でふわりと浮き、器の縁がほんのり曇る。老夫婦は器を抱えるようにして息を吹きかけ、笑う。
「この湯気を吸うとねえ、なんだか今年も大丈夫って思える」
「大丈夫、って思えるうちは大丈夫です」
ユイはそう返して、次のお客の器にも湯気を注ぐ。
扉の鈴が何度も鳴り、町の人が「今年もよろしく」と言っては、ユイが「こちらこそ」と返す。そのたびに、糸が一本、また一本と増えていく。光は店を中心に、見えない網のように町へ広がっていった。
――その時だった。
扉の鈴が鳴っていないのに、店の湯気が一瞬、薄くなった。
火が弱まったわけではない。鍋の中身が冷えたわけでもない。けれど湯気が「迷った」みたいに揺れて、次の瞬間、床に影が落ちた。
小さな子どもが、座り込んでいる。
薄い布の服、裸に近い足先。指が赤く、頬が冷え切っている。まるで霧の向こうから、ぽとりと落ちてきたみたいに。
ユイはすぐにしゃがみ、声を落として言った。
「……大丈夫。ここ、温かいよ」
子どもはユイを見上げ、口を開いた。
けれど言葉にならない。喉の奥で、音が凍っているみたいに震えるだけ。
「あ……」
その一音で、ユイはわかった。
挨拶ができない。名前が言えない。帰り道を持っていない。
ユイは器をひとつ持ってきて、雑煮をそっと注いだ。湯気を立て、柚子の匂いを近づける。子どもの前に置くのではなく、両手で包ませるように器を渡した。
「飲んで。熱いから、ゆっくり」
子どもは器に顔を近づけ、湯気を吸い込んだ。
その瞬間、床に走っていた光の糸が、ぷつりと途切れた。一本だけじゃない。数本が同時に揺れ、弱くなる。
コロがカウンターから跳び降りて、子どもの膝に乗る。
ふわふわの体が、こたつ布団みたいに温度を渡す。子どもは驚いた顔でコロを見て、ほんの少しだけ息を吐いた。
だが店の外で、紙垂が風もないのに揺れた。
しめ縄の影から、誰かが現れる。白い縄の装束、胸に結び目の紋。目は澄んだ銀色。
ユイはその存在を知っている。歳神の使い。境界の管理者。
「……シメ」
シメは静かに頷いた。
「元旦の朝。境は縫い直される。縫い目に結べぬ者がいるなら、糸は乱れる」
声はやさしいのに、言葉は冷たい。正しさの冷たさだ。
「挨拶を交わせぬ者は、今年の縁に結べない。日が高くなる前に、その子は境界の外へ出る」
子どもの肩がびくりと震えた。
器を抱える手が、さらに強く器を掴む。湯気が、その子の指先を必死に温めている。
ユイは息を吐き、シメを見た。
「この子は、まだ凍えてる。言葉は、凍えたままじゃ出ない」
「言葉は心から出る」
シメは揺るがない。
「心は一年のはじめに整えるもの。整えられぬなら、今年は整わぬ」
正論。
だからこそ、ユイは一歩だけ踏み出した。正しさの前に立つために。
「……なら、整える」
ユイは子どもをこたつへ入れた。
店の奥の小さなこたつ。布団はふかふかで、座布団は少し日向の匂いがする。コロが布団の中へ潜り込み、鈴みたいに鳴いて、熱を足した。
ユイは台所へ戻る。雑煮の出汁に、甘酒をほんの少し。柚子をもうひと欠片。
“元旦の朝だけ許される甘さ”を、湯気の中へ溶かす。
器を持ってこたつの前に座り、子どもに話しかける。急がない。急がせない。
元旦の朝は、急ぐほど言葉が遠くなる。
「ねえ。挨拶って、礼儀だけじゃないんだよ」
子どもはうつむいたまま、湯気を見つめている。
ユイは続ける。
「この国では、挨拶はね……願いの交換なの。
“あなたが今年も生きてくれてうれしい”って言うこと。
“わたしも今年、ここにいていい?”って聞くこと。
それを短く言うのが、『よろしく』」
子どもの唇が、かすかに動いた。
でも音が出ない。出そうとして、怖くて引っ込む。願うのが怖い。願ったぶん、拒まれた時に痛いから。
ユイはその怖さを、知っている。
大魔導塔の上でも、戦場でも、人は「願い」を口にする時、必ず小さく震える。震えない者は、願いの重さを知らないだけだ。
ユイはこたつの中の温度を、もう少しだけ上げた。
子どもの手が、少しだけゆるむ。器の湯気が、頬を撫でる。
「……言えない?」
子どもは小さく頷いた。
「……言ったら……」
声になりかけた言葉が、また消える。
ユイは頷く。
「うん。言ったら、返してもらえないかもしれない。
言ったら、断られるかもしれない」
その“もしれない”を言葉にした瞬間、子どもの目に涙が溜まった。
怖さを言われたからだ。怖さを「ある」と認められたからだ。
ユイはそこで、先に言うことにした。
子どもに“言わせる”のではなく、“差し出す”。
「今年も、よろしく」
ユイの声は大きくない。けれど確かな温度を持っている。
それは「返せ」と迫る言葉ではない。「受け取っていいよ」と開く言葉だった。
床の途切れていた糸が、ふわりと持ち上がる。
一本だけではなく、周囲の糸も呼吸を取り戻す。湯気が少し、白く濃くなる。
シメがこたつの横に立つ。銀の目が、子どもとユイの間の空気を見ている。
日が高くなる。時間が近い。
「……決めろ」
シメの声は低い。責めていない。ただ告げている。
世界の針が進む音みたいに。
子どもの肩が震える。
こたつの中で、コロが鈴音を鳴らした。ちりん。ちりん。
湯気が、その音に合わせて揺れる。
ユイは子どもの手を包んだ。熱い手ではない。けれど、冷たくない手。
「大丈夫」と言う代わりに、湯気をもう少し近づける。
「『よろしく』は、上手に言う言葉じゃないよ。
届くように言う言葉」
子どもは目を閉じた。深呼吸をする。湯気を吸う。
出汁の匂い。柚子の匂い。甘酒の甘い匂い。――帰る場所の匂い。
それから、ゆっくり口を開いた。
「……こ……今年も……」
声が震える。
喉が痛い。
それでも、次の言葉が続く。
「……よろしく……」
言えた。
たどたどしい。途切れ途切れ。けれど確かに、今年へ結ぶ言葉が出た。
その瞬間、店のしめ縄が淡く光った。紙垂が静かに揺れ、鈴がひとりでに鳴る。
床から伸びていた光の糸が一斉に張り、町へ走った。路地を縫い、扉を結び、窓を守り、森の端まで、今年の網が広がっていく。
窓の外で、初日の出が山の端を越えた。
金色の光が、雪の屋根をひとつずつ撫でる。町全体が「今年になった」と息をする。
シメはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「結べたな。……なら、今年はここにいるがいい」
子どもは器を抱えたまま、ぽろぽろ泣いた。泣き方が、怖さではなく、ほどけた涙の泣き方だった。
ユイはその頭を撫でない。撫でる代わりに、器を少しだけ持ち上げて湯気を守る。
湯気は、泣いている間に逃げやすい。湯気が逃げると、言葉が逃げる。
店の扉が開く。
常連たちが「今年もよろしく」と笑いながら入ってくる。誰も何も問わない。ただ、器を受け取り、湯気を吸い、目を細める。
元旦の朝の優しさは、説明を必要としない。
子どもは涙を拭き、こたつの中から小さく頭を下げた。
「……よろしく」
返事はすぐに返ってくる。
「こちらこそ」
「よろしくねえ」
「今年も食べに来るよ」
言葉が言葉のまま、糸になる。
子どもの肩が、ほんの少しだけ下がった。
ユイはやっと、そっと尋ねた。
「名前、言える?」
子どもは首を振る。まだ思い出せない。年の狭間で落としてきたのだろう。名前は軽いようで重い。拾い直すには、少し時間がいる。
ユイは少し考えてから言った。
「じゃあ、今日は“ハツネ”にしよう」
子ども――ハツネが、瞬きをする。
「初音。元旦に出た最初の言葉って意味。……さっきの『よろしく』、すごく大事な音だったから」
ハツネは、恥ずかしそうに笑った。
笑うと頬が少し赤くなる。湯気がちゃんと届いている証拠だ。
ユイは器を差し出す。
「食べて。……今年の最初の食卓は、忘れないように」
ハツネは器を受け取り、湯気の向こうで小さく頷いた。
そして、もう一度だけ、今度は少しだけ強い声で言った。
「……今年も、よろしく」
ユイは笑って返す。
「こちらこそ。――帰ってきてくれて、ありがとう」
店の外では、初日の出がゆっくりと町を照らしている。
湯気は窓の隙間からふわりと漏れ、道を撫で、扉を撫で、今年の縁をあたためる。
元旦。
いちばんの魔法は、雷でも光でもなく――たった一言だった。
「今年もよろしく」
それは、誰かを世界に結びとめるための、いちばん小さくて、いちばん温かい魔法だった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
元旦って、派手な出来事がなくても、なぜか胸が少しだけ軽くなる日だと思っています。
昨日までの疲れや迷いを抱えたままでも、誰かと言葉を交わせば――「じゃあ今年もやっていこう」と、世界が小さく頷いてくれる。
「今年もよろしく」は、礼儀じゃなくて、願いの受け渡し。
あなたがここにいていい、今年も帰ってきていい――そんな合図。
最後に――あなたにも。
今年も、よろしく。




