表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

元旦、いちばんの魔法は「今年もよろしく」

作者: 星渡リン
掲載日:2026/01/01

 元旦の朝は、世界がまだ目をこすっている時間だ。

 空は薄い藍から淡い桃へゆっくりほどけ、雪の残る石畳は光を待ちながら静かに息をひそめている。町の屋根の上には、昨夜の年越しの名残がうっすらと漂っていた。焚き火の煙、甘酒の匂い、笑い声の余韻。風がそれらを一枚ずつ畳み、遠い森へそっとしまい込んでいく。


 そんな朝にだけ、湯気は特別な形をする。

 ただ温かいだけではない。湯気の輪郭が、見えない糸を撫でる。年の境目にゆるんだ縫い目を、そっと整える。


 町外れの坂道を少し下ったところに、小さな店がある。

 木の看板には、白い文字で控えめに書かれていた。


【薬湯と雑煮の店 カエリの灯】


 扉にはしめ縄。紙垂が揺れ、鈴がひとつ、朝の冷えた空気をからりと鳴らす。鈴の音は、この町にとって合図だった。――今年も、ここが灯る。帰る場所が、ひとつ増える。


 店主のユイは、鍋の前に立っている。

 髪をひとつにまとめ、袖をたくし上げ、火の加減を見つめる眼差しは静かだ。昔、大魔導塔にいたという噂がある。塔の上で雷を呼び、結界を張り、名のある魔法を扱っていた、と。けれど今のユイは、鍋の湯気の色を見ている。塩をひとつまみ落とす指先は、呪文の指先ではなく、暮らしの指先だった。


 出汁の香りが立つ。干し茸の甘い匂い、根菜の土っぽさ、鰹に似た海の気配。そこへ柚子の皮をひと欠片、ふわり。

 湯気が、少しだけやわらかく笑う。


 カウンターの上で、白い毛玉のような小さな精霊がぴょこんと跳ねた。

 コロ、とユイは呼ぶ。湯気に集まる精霊だ。こたつ布団の綿みたいにふわふわで、鈴のような音を鳴らす。コロは今朝、やけに落ち着きがない。窓辺へ行っては戻り、戻ってはまた行く。外の空気を、何度も確かめるように。


 「……うん。今日は、そういう日だね」


 ユイは独り言のように言って、扉の札を指でなぞった。

 札には、少し照れくさい文字が書かれている。


元旦、いちばんの魔法は「今年もよろしく」


 ユイはその言葉を、声にしてみる。


 「今年も、よろしく」


 すると不思議なことに、店の空気が一度だけ、温度を上げたように感じられた。火の熱でも湯気でもなく、もっと小さくて確かな温もり。人の心が「ここにいていい」と思う時の温度だ。


 最初のお客は、いつも老夫婦だった。

 手を擦りながら入ってきて、いつもの席に座り、いつものように笑う。


 「今年も、よろしくねえ」


 「こちらこそ」


 ユイが返すと、床板の隙間に淡い光が走った。

 光は目立たない。誰かが「魔法だ」と指をさして騒ぐようなものじゃない。ただ、店の端から端へ、細い糸が一本引かれる程度。けれどその糸は確かに伸びて、扉の外へ出て、路地の角を曲がり、隣家の玄関へ結ばれていく。


 この王国では、新年の結界は“大きな呪文”で張り替えない。

 塔の上から雷を落とすより先に、町の一軒一軒で交わされる挨拶が、結界の糸になる。言葉が言葉のまま世界を縫う。そういう年のはじめ方を、この国はずっと守ってきた。


 だからこそ、挨拶ができない者は――今年に結ばれない。


 ユイが雑煮をよそう。白い餅が湯気の中でふわりと浮き、器の縁がほんのり曇る。老夫婦は器を抱えるようにして息を吹きかけ、笑う。


 「この湯気を吸うとねえ、なんだか今年も大丈夫って思える」


 「大丈夫、って思えるうちは大丈夫です」


 ユイはそう返して、次のお客の器にも湯気を注ぐ。

 扉の鈴が何度も鳴り、町の人が「今年もよろしく」と言っては、ユイが「こちらこそ」と返す。そのたびに、糸が一本、また一本と増えていく。光は店を中心に、見えない網のように町へ広がっていった。


 ――その時だった。


 扉の鈴が鳴っていないのに、店の湯気が一瞬、薄くなった。

 火が弱まったわけではない。鍋の中身が冷えたわけでもない。けれど湯気が「迷った」みたいに揺れて、次の瞬間、床に影が落ちた。


 小さな子どもが、座り込んでいる。

 薄い布の服、裸に近い足先。指が赤く、頬が冷え切っている。まるで霧の向こうから、ぽとりと落ちてきたみたいに。


 ユイはすぐにしゃがみ、声を落として言った。


 「……大丈夫。ここ、温かいよ」


 子どもはユイを見上げ、口を開いた。

 けれど言葉にならない。喉の奥で、音が凍っているみたいに震えるだけ。


 「あ……」


 その一音で、ユイはわかった。

 挨拶ができない。名前が言えない。帰り道を持っていない。


 ユイは器をひとつ持ってきて、雑煮をそっと注いだ。湯気を立て、柚子の匂いを近づける。子どもの前に置くのではなく、両手で包ませるように器を渡した。


 「飲んで。熱いから、ゆっくり」


 子どもは器に顔を近づけ、湯気を吸い込んだ。

 その瞬間、床に走っていた光の糸が、ぷつりと途切れた。一本だけじゃない。数本が同時に揺れ、弱くなる。


 コロがカウンターから跳び降りて、子どもの膝に乗る。

 ふわふわの体が、こたつ布団みたいに温度を渡す。子どもは驚いた顔でコロを見て、ほんの少しだけ息を吐いた。


 だが店の外で、紙垂が風もないのに揺れた。

 しめ縄の影から、誰かが現れる。白い縄の装束、胸に結び目の紋。目は澄んだ銀色。


 ユイはその存在を知っている。歳神の使い。境界の管理者。


 「……シメ」


 シメは静かに頷いた。


 「元旦の朝。境は縫い直される。縫い目に結べぬ者がいるなら、糸は乱れる」


 声はやさしいのに、言葉は冷たい。正しさの冷たさだ。


 「挨拶を交わせぬ者は、今年の縁に結べない。日が高くなる前に、その子は境界の外へ出る」


 子どもの肩がびくりと震えた。

 器を抱える手が、さらに強く器を掴む。湯気が、その子の指先を必死に温めている。


 ユイは息を吐き、シメを見た。


 「この子は、まだ凍えてる。言葉は、凍えたままじゃ出ない」


 「言葉は心から出る」


 シメは揺るがない。


 「心は一年のはじめに整えるもの。整えられぬなら、今年は整わぬ」


 正論。

 だからこそ、ユイは一歩だけ踏み出した。正しさの前に立つために。


 「……なら、整える」


 ユイは子どもをこたつへ入れた。

 店の奥の小さなこたつ。布団はふかふかで、座布団は少し日向の匂いがする。コロが布団の中へ潜り込み、鈴みたいに鳴いて、熱を足した。


 ユイは台所へ戻る。雑煮の出汁に、甘酒をほんの少し。柚子をもうひと欠片。

 “元旦の朝だけ許される甘さ”を、湯気の中へ溶かす。


 器を持ってこたつの前に座り、子どもに話しかける。急がない。急がせない。

 元旦の朝は、急ぐほど言葉が遠くなる。


 「ねえ。挨拶って、礼儀だけじゃないんだよ」


 子どもはうつむいたまま、湯気を見つめている。

 ユイは続ける。


 「この国では、挨拶はね……願いの交換なの。

 “あなたが今年も生きてくれてうれしい”って言うこと。

 “わたしも今年、ここにいていい?”って聞くこと。

 それを短く言うのが、『よろしく』」


 子どもの唇が、かすかに動いた。

 でも音が出ない。出そうとして、怖くて引っ込む。願うのが怖い。願ったぶん、拒まれた時に痛いから。


 ユイはその怖さを、知っている。

 大魔導塔の上でも、戦場でも、人は「願い」を口にする時、必ず小さく震える。震えない者は、願いの重さを知らないだけだ。


 ユイはこたつの中の温度を、もう少しだけ上げた。

 子どもの手が、少しだけゆるむ。器の湯気が、頬を撫でる。


 「……言えない?」


 子どもは小さく頷いた。


 「……言ったら……」


 声になりかけた言葉が、また消える。

 ユイは頷く。


 「うん。言ったら、返してもらえないかもしれない。

 言ったら、断られるかもしれない」


 その“もしれない”を言葉にした瞬間、子どもの目に涙が溜まった。

 怖さを言われたからだ。怖さを「ある」と認められたからだ。


 ユイはそこで、先に言うことにした。

 子どもに“言わせる”のではなく、“差し出す”。


 「今年も、よろしく」


 ユイの声は大きくない。けれど確かな温度を持っている。

 それは「返せ」と迫る言葉ではない。「受け取っていいよ」と開く言葉だった。


 床の途切れていた糸が、ふわりと持ち上がる。

 一本だけではなく、周囲の糸も呼吸を取り戻す。湯気が少し、白く濃くなる。


 シメがこたつの横に立つ。銀の目が、子どもとユイの間の空気を見ている。

 日が高くなる。時間が近い。


 「……決めろ」


 シメの声は低い。責めていない。ただ告げている。

 世界の針が進む音みたいに。


 子どもの肩が震える。

 こたつの中で、コロが鈴音を鳴らした。ちりん。ちりん。

 湯気が、その音に合わせて揺れる。


 ユイは子どもの手を包んだ。熱い手ではない。けれど、冷たくない手。

 「大丈夫」と言う代わりに、湯気をもう少し近づける。


 「『よろしく』は、上手に言う言葉じゃないよ。

 届くように言う言葉」


 子どもは目を閉じた。深呼吸をする。湯気を吸う。

 出汁の匂い。柚子の匂い。甘酒の甘い匂い。――帰る場所の匂い。


 それから、ゆっくり口を開いた。


 「……こ……今年も……」


 声が震える。

 喉が痛い。

 それでも、次の言葉が続く。


 「……よろしく……」


 言えた。

 たどたどしい。途切れ途切れ。けれど確かに、今年へ結ぶ言葉が出た。


 その瞬間、店のしめ縄が淡く光った。紙垂が静かに揺れ、鈴がひとりでに鳴る。

 床から伸びていた光の糸が一斉に張り、町へ走った。路地を縫い、扉を結び、窓を守り、森の端まで、今年の網が広がっていく。


 窓の外で、初日の出が山の端を越えた。

 金色の光が、雪の屋根をひとつずつ撫でる。町全体が「今年になった」と息をする。


 シメはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


 「結べたな。……なら、今年はここにいるがいい」


 子どもは器を抱えたまま、ぽろぽろ泣いた。泣き方が、怖さではなく、ほどけた涙の泣き方だった。

 ユイはその頭を撫でない。撫でる代わりに、器を少しだけ持ち上げて湯気を守る。

 湯気は、泣いている間に逃げやすい。湯気が逃げると、言葉が逃げる。


 店の扉が開く。

 常連たちが「今年もよろしく」と笑いながら入ってくる。誰も何も問わない。ただ、器を受け取り、湯気を吸い、目を細める。

 元旦の朝の優しさは、説明を必要としない。


 子どもは涙を拭き、こたつの中から小さく頭を下げた。


 「……よろしく」


 返事はすぐに返ってくる。


 「こちらこそ」

 「よろしくねえ」

 「今年も食べに来るよ」


 言葉が言葉のまま、糸になる。

 子どもの肩が、ほんの少しだけ下がった。


 ユイはやっと、そっと尋ねた。


 「名前、言える?」


 子どもは首を振る。まだ思い出せない。年の狭間で落としてきたのだろう。名前は軽いようで重い。拾い直すには、少し時間がいる。


 ユイは少し考えてから言った。


 「じゃあ、今日は“ハツネ”にしよう」


 子ども――ハツネが、瞬きをする。


 「初音。元旦に出た最初の言葉って意味。……さっきの『よろしく』、すごく大事な音だったから」


 ハツネは、恥ずかしそうに笑った。

 笑うと頬が少し赤くなる。湯気がちゃんと届いている証拠だ。


 ユイは器を差し出す。


 「食べて。……今年の最初の食卓は、忘れないように」


 ハツネは器を受け取り、湯気の向こうで小さく頷いた。

 そして、もう一度だけ、今度は少しだけ強い声で言った。


 「……今年も、よろしく」


 ユイは笑って返す。


 「こちらこそ。――帰ってきてくれて、ありがとう」


 店の外では、初日の出がゆっくりと町を照らしている。

 湯気は窓の隙間からふわりと漏れ、道を撫で、扉を撫で、今年の縁をあたためる。


 元旦。

 いちばんの魔法は、雷でも光でもなく――たった一言だった。


 「今年もよろしく」


 それは、誰かを世界に結びとめるための、いちばん小さくて、いちばん温かい魔法だった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


元旦って、派手な出来事がなくても、なぜか胸が少しだけ軽くなる日だと思っています。

昨日までの疲れや迷いを抱えたままでも、誰かと言葉を交わせば――「じゃあ今年もやっていこう」と、世界が小さく頷いてくれる。


「今年もよろしく」は、礼儀じゃなくて、願いの受け渡し。

あなたがここにいていい、今年も帰ってきていい――そんな合図。


最後に――あなたにも。


今年も、よろしく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ