その名に刻む執念──『お嬢様は、渡しません』
──執着は時に、命より重い。
与えられた役目に魂を賭ける者がいる。
それを滑稽と笑う者には、決して辿り着けぬ真実がある。
私はそれを知っていた。
◆
「……その程度ですか」
その言葉が漏れた瞬間、自身の声ながら、どこか他人のように感じた。太陽は頭上にあり、影の短さがすべてを照らしている。青い芝と柔らかな土の匂い。
静寂の中、私は片足を引いた。刹那、意識の輪郭を蹴りの軌道に収束させ──
迷いなく、振り抜く。
私の靴先が、サンゼールの脇腹に沈み込む。足が入った感触は確かな手応えとして返ってきた。鈍い衝撃。芝の上に、砂埃すら舞わぬまま、彼の身体は崩れ落ちる。
「──ぁ、あぁ……っ!」
その悲鳴が喉から漏れた瞬間、彼の膝が折れ、前に倒れる。腕を突くこともできず、うつ伏せに倒れ込む姿はどこか儚さすら感じさせた。咳き込む彼の唇から、わずかに血の色が混じった呻きが漏れる。
私は笑みを浮かべた。だがそれは勝者のものではない。
「もう、お分かりでしょう。これ以上はあなたの矜持を傷つけるだけです。降参なさい。そして、ティタ嬢を諦めなさい」
言葉は静かに。だがはっきりと、あくまで優しく言い聞かせるように。私はただ、物事を整えようとしているだけだ。誰もが持ちうる感情と、その終着点を指し示すために。
けれど、次の瞬間──
「クロード先輩のばか!意地悪!鬼畜眼鏡っ!!田舎執事!!!!」
子どものような罵声が飛んできた。
振り返るまでもない。イワンだ。涙で頬を濡らしながら、両手で小枝や小石を拾ってはこちらに投げつける。私の肩に一つ、袖口に一つ、ぱちんと当たる──しかし私は動かなかった。
「サンゼール先輩、がんばれええぇっ!!」
さらに視線を移せば、ティタ嬢が顔を両手で覆い、嗚咽をこらえていた。肩を震わせ、少女のように、ただ泣いている。
彼女の涙は、誰のために流されているのだろうか。
──いや、私にはわかっていた。理解し、なお踏み潰す役を私は引き受けた。
再びサンゼールに目を向ける。そのとき彼は地面に這いつくばったまま、両腕を震わせていた。動くべきではない体を、意志の力で動かそうとしている。
やがて、その手がゆっくりと私の足へ伸びてきた。か細い指は、確かに私の足首を掴む。縋るように、絡みつくように。
指先が震えている。それでも彼は、必死に力を込めて私を引き倒そうとしていた。
「……わ、渡しません」
耳を疑った。けれど、確かに聞こえた。
「……お嬢様は……渡しません……」
それは、悲痛というには穏やかで、叫びというには静かだった。彼の魂の奥底から引きずり上げられた一言。私が望んでいたのは、まさにその声だった。
懇願でも、意地でもない、ただ純粋な執着。彼の中にある唯一の本能が、その言葉を口に出させたのだろう。
身体よりも心が先に崩れる者を、私は見てきた。誰かのために言葉を発せられない者を、幾人も。けれど──今、目の前にいる彼は、違った。
「……その言葉を、聞きたかったのです」
私はようやく微笑んだ。それは誰にも見せない、深い深い微笑みだった。
勝者としてではない。執事としてでもない。
私はただ、一人の男として、その言葉を尊んだ。