執事は謝罪ではなく決意を表明する
──静寂というものは、いつだって最も不意打ちに弱い。
その足音は、まるで屋敷全体を揺るがすかのようにけたたましく響いた。
普段なら物音ひとつ立てずに歩くはずの召使いが、何かを告げるため全速力で走ってきたとわかる。
「男爵様……お嬢様が……いません!」
その一言は、真冬の北風のように屋敷を包み込んだ。
私は言葉を失ったまま、微動だにせずその場に立ち尽くした。
聞き間違いだと自分に言い聞かせようとしたが、召使いの表情はあまりにも青白く、そして真剣だった。
一瞬、世界が止まったかのようだった。いや、止まったのは私の時間だけで、他の者たちはむしろ加速した。召使いの声、男爵様の表情の変化、周囲のざわめき──それらすべてが一瞬にして糸の振動のように私を包んだ。
──お嬢様が、いない?
「どういうことだ!」
男爵様の声が轟く。普段は穏やかな彼が、父親としての威厳を纏うその瞬間。声は、低く、そして震えていた。
召使いは涙目で言葉を続けた。
「……おそらく、騎士様が森に住むという化け蜘蛛退治に向かわれたと聞いて……お嬢様も……心配で……!」
言葉は途切れがちだったが、伝わってくるのは紛れもない恐怖と焦燥。
その理由を理解するまでに、さほど時間はかからなかった。
──やはり、お嬢様は……。
一瞬、喉の奥に冷たい鉛が落ちた。
私の脳裏に浮かぶのは、お嬢様の優しさ、そして無謀なまでの真っ直ぐな心。
己の命よりも誰かを案じ、全てを顧みずに行動してしまうその無垢さ──それこそが、今この瞬間に最悪の状況を招いていた。
理由などわかりきっている。あの騎士を愛し、心配し、命を救おうとしているのだ。
「馬を出せ!」
男爵様が命じる声が響く。
普段は温厚な彼の口調とは思えないほど鋭く、屋敷中を響き渡った。その命令を受け、召使いたちは慌てて走り去り、厩舎へと向かう。
「……私も同行させてください」
静けさを切り裂くように響く自分の声が、やけに冷たく、遠く聞こえた。
しかし、内心の焦燥が声を震わせたのか、いつもより少し掠れた響きが混じっていた。
男爵様は振り返り、鋭い視線をこちらに向けた。
「……クロード、お前を危険に晒すわけにはいかない」
では、私はどうすればいい?
お嬢様を守るために生きている私が、危険だからとここに留まり、ただ無事を祈れとでも言うのか?
私は、男爵様の目を真っ直ぐに見つめ、唇をわずかに引き結んだ。
「申し訳ございません、男爵様。そのご命令は聞けません」
その言葉は、謝罪ではなく決意の表明だった。
「……私も行きます」
たとえどれほど強い言葉で引き止められようと、私の“忠誠”の糸はお嬢様のもとへと張り巡らされている。
それを断ち切る理由など、この世に存在しない。
「クロード……」
男爵様はしばらく私を見つめていた。そして、静かに頷いた。
蹄の音が厩舎の方から響いてきた。用意された馬が引かれ、私と男爵様を待っている。
馬に手をかけ、私は男爵様の隣でしっかりと鞍に跨った。
緊張が走り、風が肌を撫でるたびに、張り詰めた糸のような胸の鼓動が強く響く。
「……お嬢様……どうかご無事で」
私の祈りは、ただ風に溶けていくだけだった。
──蜘蛛は巣を張る生き物だが、時にはその巣を抜け出し、自ら狩ることを選ぶこともある。
それが、今この瞬間の私だった。
守るべき存在をこの手で掴むためなら、私はどれだけ絡まり、傷ついてもかまわない。