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抗いの意味──『羽なき蝶と足なき蜘蛛は』

──人の姿に、心が追いつくには時間がいる。


だから私たちは過去を背負って歩く。

蜘蛛の記憶、蝶の記憶。


それでも名を選んだ──そう、私たちは。



私は問うた。


「さあ、これからどうしますか」


太陽が天頂に近い昼下がり。伯爵邸の庭に広がる芝生は、緑の絨毯のように滑らかで、ところどころ乾いた土がむき出しになっている。遠くから鳥のさえずりが聞こえるが、空気の張り詰めたこの一角だけは、まるで時間が止まったかのように静かだった。


サンゼールは動かない。白磁のような手が、微かに震えながら土を掴む。それは、どこまでも人間らしく、どこまでも儚かった。


やがて、彼は静かに立ち上がった。軸のぶれた身体が揺れる。肩が上下し、口元には苦痛が滲む。それでもその眼差しだけは、くっきりと据わっていた。細い体が、もう一度構えを取る。崩れそうなほど頼りないその姿に、私はある種の敬意を覚えた。


「ならば、応えましょう」


私は一歩、音を立てずに前へ出る。片足を半歩引き、腕を胸元に構えた。決闘。それは形式にすぎず、すでに私の中には執事の優劣など存在しない。ただ、彼がここまで立ち上がった理由を、最後まで見届けたい——そう思っただけだった。


「私は、絶対、あなたに勝ちます……!」


その声は、酷く若く、酷く真っ直ぐだった。

痛みに引きつった声に、悔しさと、何より焦がれるような想いが込められていた。


私は微笑を浮かべた。

蝶が蜘蛛に勝てると信じている——それは無謀で、だがあまりにも純粋だ。


「では、慈悲を与えましょう」


声は低く、柔らかく。

私の中で過去の魔女の声が響いていた。


「あなたの勝利条件に付け加えます。私が手をつくか、背中が地面を打った時——そのときは、あなたの勝ちです」


サンゼールの瞳が震える。瞬間、その身体が一気に前へと飛び出した。


芝が踏まれ、土が散った。彼の狙いは、私の脚。重心を崩し、私の背を地に落とすか、よろけた私が思わず手をつく——その一瞬を見越した動きだった。


私は、動かなかった。


微動だにせず、ただそこに立っていた。脚を狙ったその一撃を、避けるでもなく、迎撃するでもなく、ただ受け止める。打ち込まれた瞬間、筋肉が悲鳴をあげ、骨が軋むような感覚が背筋を貫く。


それでも、私は眉ひとつ動かさなかった。


痛みなどとっくに知っている。


名も声もなかった蜘蛛が、人の姿を得ようとした瞬間に支払った代償——あの儀式の痛みに比べれば、こんな衝撃など霞に等しい。


サンゼールの攻撃は軽い。されど真っ直ぐだった。自らの羽を失うことを恐れず、真に人になろうとした意志が、確かにそこにあった。


私はふと、過去の自分を思い出す。


名を得たいと願った日。孤独で、誰にも顧みられることのなかった自分が、ひとりの少女の言葉に胸を打たれ、命を変えようとしたあの瞬間——


……同じなのだ。サンゼールと、あのときの私は。


だからこそ私は今、逃げなかった。蹴りを受け、痛みを飲み込みながらも、彼の全てを否定しなかった。


この戦いに勝ち負けなどない。ただ、それぞれが「誰であるか」をかけた問いが交差しているだけだ。


私は、私を名乗るに足る存在か。


彼は、彼のままで羽ばたくことが許される存在か。


その答えを出すために——私は、まだ立っている。

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