その名前の意味──『クロードとサンゼール』
──生まれついたものを捨てるには、理由がいる。
けれど、それを忘れない覚悟にもまた、理由がいる。
名はその両方を繋ぐ橋だ。
私がクロードであるということ、それがすべての解だ。
◆
「もっと……早く気づくべきでした」
そう口にした瞬間、胸の奥に残る古い疼きが、静かに広がっていくのを感じた。
昼下がりの光が、伯爵邸の庭に柔らかく差し込んでいる。夏草の匂いと、風にそよぐ噴水の水音が混じり合い、どこか遠い夢のようだ。だが、この庭の中心に立つ私は、今、確かに過去と対峙している。
「私は、ある存在に願いを届けました」
目を伏せてから、私は視線をゆっくりと上げた。膝をつくサンゼールと、その向こうに控えるティタ嬢の姿が目に入る。二人とも、何も言わずに私の言葉を待っていた。私はその沈黙に丁寧に応えるように、声を落とし、話を続ける。
「深淵の森に棲む魔女のもとへと赴き、私は、願いを告げたのです。……人の姿と、名前を得たいと」
その言葉を口にするたび、脳裏にあの湿った森の記憶が蘇る。苔むした木々、朽ちた枝の中で眠っていた黒い魔女。私の願いは、理性の声ではなかった。ただただ、得体の知れぬ衝動だった。人間の世界に、彼女の隣に立てる形を──ただそれだけを欲していた。
「代償は、脚と、眼。八本のうち、人間として必要な四本の脚を残し、他は差し出しました。眼も同様。八つの単眼の中の主眼二つを除き、副眼はすべて、彼女に捧げました」
冷ややかな風が、頬をかすめた。陽の光が庭の片側を照らしていたが、私の足元には、その影が長く伸びていた。何かを語るたび、身体の奥が軋むように痛む。それでも、語るべきだった。今、この瞬間だけは、言葉にしなければならなかった。
「クローディアス」
私はそう口にした。
「それが、私に与えられた名。意味は――『足の不自由な者』。すなわち、クロード。私は、そうしてこの姿を得たのです」
アトラの瞳が微かに揺れたように思えたが、彼女は一言も発しなかった。私もまた、それを求めてはいなかった。ただ、自らの輪郭をこの場に刻みつけるように、静かに、丁寧に語り続けた。
私は視線を、隣に控える伯爵に移す。彼の表情には、驚きと困惑が入り混じっていたが、それでもこの場を逃げずに受け止めてくれている。私はゆっくりと問う。
「伯爵。サンゼールの……いえ、彼の、本当の名を、お聞かせ願えますか」
ほんの一拍の間があった。伯爵は唇を引き結び、やがて低い声で応えた。
「……サンク・ゼール・クレメンス。それが、彼の正式な名だ」
私の中で、音が重なった。森の中で聞いた言葉。魔女が最後に囁いた、誰かの名に似た響き。
私は微笑んだ。
それは、戦いの勝利に酔ったような笑みではなく、ただ理解の末に辿り着いた、穏やかな微笑だった。
「サンク・ゼール……サンゼール。フランクス語では、『羽のない』という意味です。……つまり、貴方は、命に等しい羽を代償に捧げた。人の姿と名を得るために」
風が止んだ。
あれほど柔らかかった木の葉のざわめきさえ、今はぴたりと鳴りを潜めている。サンゼールは表情を動かさなかった。ただ、呆然としていた。私はその姿に、一歩だけ近づく。
「それが、貴方の選んだ覚悟なのですね」
私は、自分の声がどこか遠くで響いているように感じた。言葉にした今、ようやく霧が晴れるように、己の過去と向き合えた気がした。
心の奥底には、未だに確かな痛みが残っている。脚のことでも、視界の端が歪むことでもない。それは、理解に辿り着くまでに、あまりにも長く時間をかけてしまったことへの、悔い。
けれど私は、ここに立っている。
あの日、名もない蜘蛛と蝶を救った二人の少女。彼女達に恋をし、魔女の森で願いを告げた私と彼。すべてが、今ここで、繋がっているのだ。
私はそっと深く一礼した。サンゼールの返答は求めない。ただ、名を持った同胞として、礼を尽くしたかった。