執事はその期待に絶望する
──最悪だ。これ以上ないほど最悪だ。
「蜘蛛にとって最悪とは何か?」と問われれば、かつての私ならこう答えていた。「巣が破られ、獲物に逃げられ、飢え死にすること」と。
しかし、今の私は違う。
最悪とは、お嬢様の手を取るべきではない男が、堂々とその手を求めてきた瞬間だ。
しかも、その男がこの前の怪我人で、実は王都で名を轟かせる“騎士団長”だというのだから、事態はより悲惨だ。
勇敢で、名誉を重んじ、人々を守る英雄──そのすべてが、私の中で最も忌々しい響きを持つ。
「……最悪だ」
内心で何度目かの呟きを繰り返しながら、私は静かにお嬢様の部屋へと向かう。
「クロード……相談があるの」
お嬢様は椅子に座り、小さな声でそう言った。その表情には迷いと不安、そして──どこかほんの少しの期待が混じっていた。
──その期待が、私を苛立たせる。
「王都の有名な騎士様から求婚されたの……」
私は聞き流そうとした。しかし無理だった。
その言葉はまるで鋭利な刃物のように私の心に突き刺さる。
「どうしていいのか、わからなくて……」
お嬢様の問いは純粋だ。その純粋さが、私をさらに追い詰める。
──どうするべきか?
答えは一つだ。殺せばいい。
しかし、それは執事としての意見ではなく、ただの蜘蛛としての本能だ。人間の社会では通用しない。
私は深呼吸をし、仮面を被る。
冷静で、忠実で、優雅な執事という仮面を。
「……お嬢様、それは良いお話です」
──喉が焼けるようだった。
「良いお話」などではない。最悪だ。地獄だ。しかし、この場で真実を告げて何になるというのか?
「……クロード?」
お嬢様が不安そうに私を見つめる。
「私は、お嬢様の幸せを願っております」
嘘ではない。
嘘ではないが──決して本心のすべてではない。
「その騎士様が誠実で、お嬢様を心から愛しているのであれば……これ以上の幸せはありません」
──心臓が軋む音がした。
自分の言葉が自分を切り裂いていく。
しかし、これが私の役目だ。執事として、お嬢様の笑顔を守ることこそが私の存在意義であり、唯一の使命。
「……ありがとう、クロード」
お嬢様はそう言って微笑んだ。その微笑みは、かつて水たまりの中から私を救ったあの少女の面影そのものだった。
──だが、その笑顔を、別の男が手に入れるかもしれない。
それでも、私はこう言うしかなかったのだ。
「どういたしまして、お嬢様」
──最悪だ。地獄だ。この世の終わりだ。だが、それが執事という生き物の在るべき姿なのだ。