執事が蜘蛛だった頃のおはなし
──己の存在を否定されることほど、滑稽で哀れなものはない。誰が私を何と呼ぼうと、それが私の本質を変えるわけではないというのに。
それは、私が純然たる蜘蛛だった頃の話だ。
八本の脚で巣を張り、無数の糸を紡ぎ、ただ生きるために獲物を絡め取る──それが私のすべてだった。感情もなく、理性もなく、あるのはただ生存本能。
しかし、その平穏な無心の生活は、ある日の出来事で一変する。
それは、とある夏の終わりの昼下がりだった。
風が草を揺らし、遠くで蝉の声が鳴いていた。私の巣に、小さな蝶がかかった。柔らかな黄色の羽を持つ蝶。
腹が減っていた私は、迷うことなく糸を伝って近づいた。そして、狙いを定め──噛みつこうとした、その瞬間だった。
「──蝶々が、かわいそう!」
高い声。幼いながらも、どこか鋭さを帯びた声が響いた。
次の瞬間、巣は無慈悲に引き裂かれた。細かな糸の破片が光を浴びてキラキラと散る。
──何が起きたのか、理解する間もなかった。
巣を破壊した“それ”は、白い小さな手だった。そして次の瞬間、私の体は無慈悲にも摘まれた。
「蜘蛛なんて嫌い!大嫌い!!悪い蜘蛛は、溺れちゃえばいいんだ!」
そう叫んだ子供の声と共に、私は宙を舞った。
放物線を描き、草むらを越え──大きな水たまりの上に落ちた。
水の冷たさと、蜘蛛としての本能的恐怖。
小石のような体では浮かぶこともできず、私はもがき、もがき、沈みかけていた。
──ここで終わるのか?
そうかもしれない。蜘蛛は小さな命だ。終わりはいつも無慈悲に訪れる。しかし、その日は違った。
「──ダメだよ!」
また声がした。けれど今度の声は、あの残酷な手の主とは違った。
水の中に差し込む影。そして、その影は水に手を入れた。
私を掬い上げる、優しい手だった。
「……よかった、生きてる……!」
──眩しかった。
私は、その手の持ち主を見上げた。
──小さな少女。
白いドレスが濡れて汚れるのも気にせず、私を抱きかかえていた。
まだ幼いはずなのに、瞳の奥には深い輝きがあった。
「蜘蛛さんは悪くないよ!」
その声は怒りに震えていたが、同時に優しさに満ちていた。
「蜘蛛さんは、ご飯を食べようとしただけでしょ!」
私は心の底から驚いた。
それは、“救い”の言葉だった。私のような嫌われ者の小さな生き物に向けられるものではなかった。
──そして、次の言葉が、私を完全に捕らえた。
「ごめんね……蜘蛛さん。私は蜘蛛さん、好きだよ」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
冷たい水に濡れた体が、彼女の温かな手の中で震える。
「……私も、好きです」
声にならない声で、私はそう呟いた。蜘蛛に声帯はないが、確かに心が叫んでいた。
「大丈夫。もう大丈夫だからね」
彼女は優しく私を木の枝にそっと離した。その仕草はまるで花を飾るようだった。
そして最後にもう一度、笑って言った。
「元気でね、蜘蛛さん」
──それは、一目惚れだった。
私は巣を失い、自由を奪われ、水に投げ込まれ、それでも救われた。
──その瞬間から、私は決めたのだ。
「いつか、あなたと一緒になりましょう」
私はただの蜘蛛だったが、すべてをかけてその誓いを立てたのだ。
そして今。
森で成長し時を経て人間となり、私はあの日の少女に執事として仕えている。
あの時と変わらぬ優しさを持つ、私のすべての始まりの人。
──そう、お嬢様こそ、私の運命の番なのだ。