【男爵視点】愛情の断層──『飾られた愛、こぼれ落ちた真実』
──執事というものは、本来ならば誰よりも冷静でなければならない存在だ。しかし今、目の前のクロードは明らかにその枠から外れていた。
洗面台の前で必死に唇を洗い続けるクロードの背中を見て、私はひどく胸が痛んだ。
衣服は濡れ鼠のようになっていたし、何よりも──口の端から、血が滲んでいた。
「クロード……もういい。やめなさい」
「……申し訳ありません、男爵様。私は……私は、妻を裏切ってしまったのです」
クロードの声は震え、途切れ途切れだった。
その言葉に私もまた戸惑い、ただ彼の肩を掴んで引き止めることしかできなかった。クロードはまるで子供のように抵抗したが、やがて力が抜け、私は彼を部屋に連れ戻してゆっくりと椅子に座らせた。
ノックの音が響く。私の部屋に、静かにアルフォンス伯爵が入ってきた。彼の顔は蒼白で、まるでこの世の全ての重荷を背負い込んでしまったかのようだ。
「……本当にすまなかった」
アルフォンスは小さく震える声で詫びると、深い息を吐いて私たちの前に座り込んだ。
クロードは何も言わなかった。ただ虚ろな瞳で、どこを見るともなくぼんやりとしている。その姿を見ていると、私は居ても立ってもいられず、つい口を開いた。
「……こうなったら、私が話を聞こうじゃないか。君とティタ嬢の間に何があったのか、全部教えてくれないか」
彼は私の言葉に頷き、ゆっくりと口を開く。
「ジュリエットの話をしよう。ティタの母親であり、私の妻だった女性だ」
アルフォンスの声には苦々しい後悔と痛みが混ざり合っていた。
「ジュリエットは、どこまでも自由奔放な美しい女性だった。子爵家の娘として生まれ、誰もがその美貌に目を奪われた。彼女の周りには常に多くの男が集まり、私もそんな彼女に惹かれてしまったんだ」
彼は自嘲気味に微笑む。
「結婚後も、彼女は一向に変わらなかった。むしろ、自由さは増し、彼女の恋愛遍歴はさらに派手になった。彼女が浮気を繰り返すたびに、私は何度も彼女を諫めた。だが、ジュリエットは決して謝らない。逆に、私のせいで追い詰められたのだと言い放ち、まるで自分に非などないと言わんばかりだった」
私はアルフォンスの言葉を黙って聞いていた。クロードもまた無言で、視線を床に落としたままだった。
「ティタが生まれた時、ジュリエットはまるで自分の人生を奪われたかのように不機嫌になった。赤ん坊の泣き声を疎ましく思い、母親らしい行動は一切取らず──ティタは私と使用人たちで育てたんだ」
アルフォンスの声は次第に沈み、抑えきれない悲痛さが滲み始める。
「私や乳母、それに使用人たち皆は必死だったよ。ジュリエットが娘を抱かないなら、せめて私たちがその分を埋めようとね。ティタはとても賢い子だった。人見知りもせず、可愛い笑顔をよく見せてくれた。……あの子は、我が家の希望だったんだ」
私は黙ってうなずいた。クロードもじっと耳を傾けている。
「でも──ティタが成長して、美しくなり始めたころから……全てが変わった」
アルフォンスの声がわずかに低くなる。懺悔にも似た口調だ。
「ジュリエットが、急にティタに関心を持ち始めたんだ。最初は私も驚いたよ。ようやく母親らしくなるのかと、どこか期待した部分もあった。だが……それは、親の愛ではなかった」
彼は眉間に皺を寄せた。
「ジュリエットにとって、ティタは“自分を飾るアクセサリー”だったんだ。派手な服を選び、髪型を変え、香水をつけさせ、子供なのに毎日夜会に連れ回す。まるで……人形を着せ替えて楽しむように」
言葉を選びながら、慎重に言葉を綴る。
「私が礼儀作法や、勉強、貴族としての務めを教えようとすると、ジュリエットはそれをことごとく妨害した。『そんな堅苦しいことを教える必要はない』と笑って、ティタを甘やかすようになった」
私は思わず息を呑んだ。クロードがほんのわずかに表情を強ばらせたのが、横目で分かった。
「ティタは──喜んでいたよ。初めて、母親が自分を愛してくれたと信じたんだ。……いや、信じたかったんだろうな。小さい頃に拒絶されていた分、その愛が本物であってほしいと願っていた。だから、次第に私や乳母の言うことを聞かなくなってしまったんだ」
アルフォンスの拳が、膝の上で静かに震える。
「私が仕事で屋敷を離れるたびに……ジュリエットは私の悪口を吹き込んでいた。あの人は外で女性と遊んでいるのよ、娘なんてどうでも良いんだわ、愛していないから無理やり勉強させようとするのよ──そうやって娘の信頼を少しずつ削っていった」
私はその言葉に、目を伏せた。クロードは動かなかったが、膝の置かれた指先にかすかな力が入っているのが見えた。
「……気づいた時にはもう、娘の瞳に、私は映らなくなっていた。代わりに映っていたのは、母親という名の偶像だったよ」
部屋に、また沈黙が落ちた。
私たちは誰も、すぐには言葉を返さなかった。静けさの中に、アルフォンスの後悔だけが、重く残っていた。




