表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/80

執事は保身故に献身する

──私がいなければ、この屋敷はどうなるか?

そんなことは考える必要もない。なぜなら、私はいるのだから。


しかし、この愚問はしばしば出る。

そしてそのたび、私は心の中で小さく溜息をつく。


元蜘蛛という身にとっては、言葉一つの響きさえ、空気の振動によって糸を伝わってくるように鮮明だが、それがいつも心地よいわけではない。


「クロードがいなければ、この家は回らないなぁ……」


ダイニングテーブルの主席で、男爵様は柔らかな笑みを浮かべながらそう言う。

否定も肯定もしない声色だが、その言葉は妙に重い。まるで屋根の梁に負担をかける蔦のような重みがある。


お嬢様が箸を止めた。いや、正確にはフォークであるが。東洋風な譬えをするのは私の趣味だ。


「……お父様、それを本人の前で言ってはダメよ」


声色は優しいが、どこか微かな緊張が滲む。お嬢様の声にはいつも、そうした“繊細な張り”がある。まるで風に揺れる一枚の糸。それが切れるかどうかは風次第──いや、私の言動次第かもしれない。


けれども、お嬢様。あなたはわかっていない。むしろ、私はその言葉を聞くたびに内心で苦笑している。


「お嬢様、お気になさらず。私は屋敷を守るためにここにいるのですから」


そう言いながら、私は夕食の肉料理をさらに一枚、優雅にテーブルへ置く。金銭的に質素な食事といえど、私が手を加えれば一流の味になる。なぜなら、蜘蛛は獲物を味わうとき、一滴の毒をも完璧に調合するのだから。いや、それはかつての本能の話。今はただ、献身の技術である。


──かつて、獲物を絡め取り、粘つく糸で包んだ記憶は今や遥か彼方。

この屋敷の台所が、私の巣の代わりだ。そして、獲物ではなく家族に食事を捧げる。この矛盾にさえ、私は微笑むべきなのだ。


「本当に君がいてくれて助かっているよ、クロード」


男爵様は心からの感謝を込めた声を出す。貧しいが、貴族の矜持を失わない、誇り高き声だ。私はその重さをよく知っている。金銭以上に重い言葉だ。


私はこうして言葉を呑み込む。

「恐れ入ります、旦那様」


──これ以上語るべきではない。


「……そんなことばかり言って……クロードだって、休みたい時だってあるのに」


お嬢様は優しい人だ。だからこそ、私が休むという概念を真剣に心配する。しかし、元蜘蛛には休息など不要だ。むしろ、時間を持て余すと無意味な糸を張り巡らせる本能が疼くのだ。


「お嬢様のお気遣いはありがたいですが、私は休むよりも仕事をしている方が性に合っています」


偽りはない。いや、蜘蛛としての本能と人間としての誓いを同時に守るため、私は正直すぎる。


その瞬間、お嬢様は少しだけ表情を曇らせる。


「クロード……でも、あなたはどこか遠くに行ってしまいそうな気がするのよ」


鋭い洞察だ。いや、蜘蛛の巣が繊細な振動を拾うように、彼女もまた、私の本質を感じ取っているのかもしれない。


──遠くへ行く? 否、私はここにいる。お嬢様が微笑んでいる限り。


「私は、どこへも行きませんよ」


そう言いながら、私は再び皿を置く。そしてその皿には、お嬢様の微笑みをもう一度見たくなるような小さなデザートを添えて。甘さは控えめだが、ひと口ごとに温かい記憶が蘇るような味。彼女のためだけに生み出した献身の一滴だ。


男爵様が目を細めて言う。


「君がいなければ、この家は本当に立ち行かないよ」


「ですから、それを本人に言うのは──もう!……ありがとう、クロード」


お嬢様の言葉に、私はふと胸を突かれたような感覚を覚える。私が糸を張り巡らせて守ろうとしているこの屋敷で、唯一、私の真意を知る必要がないはずの方が、最も深い言葉をくれるのだから。


「どういたしまして、お嬢様」


──私は決してこの巣を離れない。ただ、あなたの微笑みが続く限り。


そしてもし、私がいなくなる日が来るとしたら──その時は、この蜘蛛のすべての糸を、感謝と共に残していこうと思う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ