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執事の逆鱗──『手紙は慎重に書くべきだ』

──言葉とは実に恐ろしい。


それはかつて、蜘蛛だった私が誰よりもよく知っていることだ。

繊細に紡げば心を癒し、幸福を生み出すが──不用意に扱えば、その刃は誰よりも深く傷つける。


だからこそ、言葉を使う者は慎重であるべきなのだ。


だがどうやら、世間にはその自覚がない者もいるらしい。


◆◆◆


朝から書斎で、男爵様が机にうつ伏せになっている。


「どうなさいましたか。体調でもお悪いので?」


問いかけると、男爵様はゆっくりと顔を上げ、力なく私を見つめた。朝の陽ざしの中、その姿は実に哀愁を帯びている。


「……これを、読んでくれ」


差出人を見るまでもない。例の『アルフォンス伯爵』であろう。


私は封を開き、さらりと目を通す。

内容は実に予想通りだった。


『貴殿の執事がそこまで優秀ならば、是非とも連れて来給え。この目で確かめてやる』


……まったくもって面倒な相手だ。

私はため息をつき、男爵様を慰めようと口を開いた。


「随分と面倒な御仁ですね。ですが、これくらいでしたら、穏便に──」


「いや、そこじゃないんだ」


男爵様は疲れた顔で私の言葉を遮った。その表情には、微かな怒りすら宿っている。


「続きを、読んでくれ」


その言葉に、私は再び手紙に目を落とした。


『……まさか、本気であの元蜘蛛に娘を嫁がせるとは、君は何を考えているのか。アトラ嬢はよほど変わった趣味の持ち主らしい。いや、それともゲテモノがお好きなのかな?』


……なんと品のない文章だろうか。しかも続けざまに、


『蜘蛛男を婿に取るとは、君の男爵家も堕ちたものだな。常識ある家門としての見識を疑うばかりだよ』


──よくもまあ、ここまで好き放題書けるものだ。


手紙を持つ私の手が小さく震えるのを、男爵様が心配そうに見つめている。


「クロード、気にすることはないよ。こういうことを言う奴は世間にいくらでもいる。だから……」


男爵様の慰めの言葉を遮り、私は穏やかに顔を上げる。


「男爵様、お気遣いありがとうございます。私のことならば問題ありません。元蜘蛛であることを揶揄されるなど、とうに覚悟の上でございます」


男爵様は、それでも気遣わしげな視線を向けてくる。その優しさに、少し胸が痛む。


だが──


「しかし、私の大切な妻への侮辱だけは許すわけにはまいりません」


「……クロード?」


「『ゲテモノがお好き』ですか。私を揶揄するのは構いませんが、その矛先が彼女に向くのは、どうしても容認できません」


私の言葉は、ゆっくりと鋭さを帯びていった。


「クロード、落ち着きなさい……。君が怒る気持ちはわかるが──」


「これは由々しき問題でございます、男爵様」


ゆっくりと息を吐き、冷え切った手紙を丁寧に折りたたむ。丁寧に、慎重に──怒りを込めるように。


「男爵様」


「なんだ、クロード?」


「馬車の用意をいたします」


「どこへ行くつもりだ?」


「決まっているではありませんか。件の伯爵を叩き潰しましょう」


私の声は静かだが、すでに心は凪いでいない。

これは明確な敵意。蜘蛛として獲物を絡め取る、その瞬間を彷彿とさせる、冷ややかで澄んだ怒りだ。


「お、おい、クロード!本気か!?」


この感覚は非常に馴染み深い。

かつて巣にかかった獲物に冷徹に襲い掛かる、本来の自分が蘇ってきたような気すらする。


「ええ、大真面目です。私への非難なら笑って許しますが、妻に対する侮辱は笑って流すことなど到底できません」


「だ、だからといって、まさか伯爵家に乗り込むつもりじゃないだろうな!?」


「いいえ、乗り込むのではございません。叩き潰すだけです」


「それを世間では乗り込むって言うんだ!」


男爵様は慌てふためいているが、私の覚悟は決まっている。


「あのような男には、教えて差し上げなくてはなりません。手紙というものは、慎重に書くべきだと」


「だから冷静になれ、クロード!」


「大丈夫です。冷静に叩き潰して参ります」


「それ、全然冷静じゃないぞ!?」


男爵様は絶句している。


──これ以上、アルフォンス伯爵に不名誉な言葉を吐かせてはならない。

この屋敷の平穏を守るため、私が払う犠牲ならば、何の問題もない。


蜘蛛としての私を侮辱するのは構わないが、愛する人の名誉だけは、誰であろうと守る。それが私の選んだ生き方だ。


「……クロード。あまり無茶はするなよ」


男爵様は結局、諦めたように苦笑しながら呟いた。


「かしこまりました、男爵様。すぐに支度をしてまいりますので」


私は丁寧に礼をし、そのまま静かに扉に向かう。


手紙というものは、よくよく注意して書くべきである。

言葉を間違えれば、返礼は容赦ない毒となるのだから。


──伯爵よ、貴方のその軽率な言葉に、相応の『罰』を与えて差し上げよう。


蜘蛛には触れてはならぬ糸があるのだから。

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