お嬢様は……渡しません
──執着という言葉が、これほど醜い響きを持つものだと気づいたのは、いつからだっただろうか。
蜘蛛の巣は巧妙に編まれた罠だが、それを張る者自身が絡め取られることもある。
私の心は今、まさにその状態だ。絡み合う糸が、抜け出せない迷路を作り出している。
理性ではわかっている──お嬢様には、幸せな未来を歩んでほしいと。
しかし感情はどうだ?
許せない。
お嬢様の傍に立つのが自分ではない未来など、見たくもない。
その“未来”を象徴する──騎士。立派で、誠実で、何もかもが“理想”の形をしている男。
だが、私は元蜘蛛だ。巣を張ることで生き延びる。それは、人間のように何かを選び、望むことなど許されない運命なのだ。
──そう思っていた。
けれど違った。私は望んでしまったのだ。彼女の笑顔の傍にいる未来を。
そのためなら、すべてを排除することすら辞さないと決意している己を、今、この瞬間に自覚している。
だからこそ──
目の前で繰り広げられる茶番劇に、私は心の中で深く溜息をついた。
化け蜘蛛──いや、大蜘蛛がよろめきながら、痛々しい声を漏らす。
「……待て、俺は化け蜘蛛じゃない!ただ……空いていた巣を借りてただけの……ただの大蜘蛛なんだ……!」
その言葉に、騎士は困惑した表情を浮かべた。
「……は? じゃあ、最初に攻撃してきたのはなんだったんだ?」
騎士の問いかけに、大蜘蛛は悲痛な声で答えた。
「そりゃ、お前が剣を振り回しながら突っ込んできたからだろうが……! 蜘蛛違いで殺そうとするなんて……理不尽すぎるだろ!」
その瞬間、騎士団長の表情が曖昧なものに変わる。
「……それは……まぁ、確かに……」と小さな声で呟く。
──呆れ果てる。
「……おしゃべりは、終わりましたか?」
私の冷たく、鋭い声が森の静寂を切り裂いた。
騎士も大蜘蛛も、私の言葉に反応して動きを止める。騎士は訝しげな表情、大蜘蛛は複眼を揺らしながら不安な仕草を見せた。
「ク、クロード……?」
騎士の声はかすかに震えていた。まるで、この場にいるはずのない“異物”を見るような目だ。
「……落ち着いてくれ!」
騎士が必死に手を挙げ、私を宥めようとする。
「そ、そうだ! 俺たちの誤解だったんだ……大蜘蛛はただ巣を借りていただけなんだ!」
その言葉に、大蜘蛛も慌てて続く。
「そ、そうだよ! 俺はただ、平和に暮らしたかっただけで……悪気なんてなかったんだ!」
騎士と大蜘蛛が、顔を見合わせて安堵の表情を浮かべる。
──滑稽だ。
彼らの目の前にいるのが、ただの執事だと思っているのだから。
私はゆっくりと口を開いた。
「──邪魔者を始末し、罪を蜘蛛に擦りつけて殺す……その手はずでしたが……」
私の言葉が落ちると同時に、森の空気が一層冷たく張り詰める。
「……な……」
騎士は、信じられないという顔をして後ずさった。
「……なぜそこまで……?」
「なぜ?」
私は心の中で乾いた笑い声を上げた。
「あなたにはわからないでしょう……いや、誰にもわかるはずがない」
私はゆっくりと一歩を踏み出した。
「私はただ、彼女の隣にいたいだけだ。お嬢様の未来に“私”がいない結末など、認めるわけにはいかない」
声がわずかに震えた。胸の奥に張り巡らされた思いが、冷たくも熱を帯びていた。
「お嬢様は……渡しません」
その一言は、私の心そのものだった。
お嬢様の幸せを願う“執事”ではなく、お嬢様の隣を奪い取るために“手段を選ばない者”の声。そして私自身のすべてを曝け出す言葉。
「ま、待て……クロード、本気なのか……!?」
騎士は恐怖を隠せず声を震わせた。
「……本気ですよ」
騎士と大蜘蛛の目が、完全にこちらを捉える。そこにあったのは疑問、混乱、そして──恐れだった。
「お嬢様の未来に必要ないものなら……騎士だろうと、他の蜘蛛だろうと、容赦はしません」
そして、私は最後にもう一度、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「不肖ながら……お嬢様は、渡しません」
その言葉を最後に、私は動いた。
恐れも、誤解も、蔑みも構わない。
私はそのすべてを背負い、蜘蛛の糸のごとく張り巡らせて、お嬢様との未来を守り抜く。
──それこそが、私が生きている理由なのだから。