第49話「正義の使者」
朝の空気は、妙に整いすぎていた。
ヴェルサイユ宮殿の正面回廊。
磨かれた床。曇りのない窓。乱れのない足音。
どれもいつも通りのはずなのに、その日の静けさだけは少し違った。
人が声を潜めている。
何かを知っていて、まだ口にしていない空気だった。
シャレットは回廊の奥に立つ男を見て、目を細めた。
礼装。
革靴。
姿勢は整い、顔つきも穏やか。
一見、何処にでも居そうな紳士にも思えるが…否…
何か違和感を感じる…
「来ましたか」
隣でド・モードが低く言う。
ピシグリューは壁に寄りかかったまま、男の背後に控える二名へ視線を流した。
「付き人にしては、目が玄人だな」
「宮廷の者ではありませんね」
ド・モードが答える。
シャレットは短く言った。
「通すな、とは言えない。だが、好きにはさせない」
三人が前へ出る。
それだけで、回廊の空気が変わった。
使者の男は足を止め、静かに一礼した。
「朝早くに失礼いたします。私は民会よりの使者として参りました」
「ご用件は」
シャレットが正面から問う。
「王妃陛下の安全に関わる件で、正式なお話を」
穏やかな声だった。
だが、穏やかな声ほど厄介だと、三人とも知っている。
ピシグリューが口を開く。
「正式、というわりに、随行の顔ぶれが物々しいな」
「昨今の情勢を鑑みての配慮です」
「配慮、か」
ピシグリューは薄く笑った。
笑ったが、目はまったく笑っていない。
「誰に対する?」
使者は答えを急がなかった。
それがまた、腹立たしいほど丁寧だった。
「すべての者に対してです。王妃陛下にも、宮殿にも、民衆にも」
ド・モードが一歩だけ前へ出る。
「ずいぶん便利な言葉ですね。
“すべてのため”と言えば、どこまででも踏み込める」
「踏み込むつもりはありません」
「そうですか。では、ここでご用件だけを」
使者は三人の顔を順に見た。
誰一人、道を空ける気がないのを確認してから、言った。
「現在、王妃陛下に関して、民衆の間にいくつかの不安が広がっております」
「不安?」
シャレットが返す。
「礼拝堂での振る舞い、近頃の動き、宮殿内で囁かれている幾つかの話。
事実かどうかは問題ではありません。
問題は、それが拡がっているということです」
その言い方に、ピシグリューが小さく鼻で笑った。
「なるほど。危険なのは事実ではなく、噂だと」
「噂もまた、時に秩序を壊します」
「だから王妃から自由を奪うと?」
「言葉が強いですね。
我々はあくまで、安全の確保と状況整理を――」
「同じことだ」
シャレットの声は低かった。
短いが、はっきりと切り捨てた。
使者はそこで初めて、少しだけ表情を硬くした。
「誤解なさらないでいただきたい。
こちらは王妃陛下を害そうとしているのではありません」
「守るために閉じ込める」
ド・モードが静かに言った。
「よくある理屈です」
「閉じ込める、とは申しておりません」
「まだ、でしょう」
言葉が止まる。
丁寧な会話だった。
だが、その場にいた誰もが分かっていた。
これは、すでに剣のない戦いだと。
使者は息を整え、穏やかな表情で言葉を放つ。
「王妃陛下ご本人にも、ご理解をいただきたいのです。
できれば、直接――」
「その必要はない」
シャレットが即答した。
「必要なら、あります」
別の声が入った。
三銃士が振り向く。
回廊の奥に、マリーが立っていた。
侍女が慌てた顔で後ろに控えている。
「王妃陛下」
シャレットが低く呼ぶ。
マリーは歩みを止めず、三人の横まで来た。
その顔にはいつもの穏やかな気品がある。
崩れていない。
だが、その奥にあるものを、三人は知っていた。
ただ従うだけの顔ではない。
使者は深く頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です、王妃陛下」
「用件を聞きましょう」
マリーは真っ直ぐに言った。
使者は一瞬だけ間を置き、丁寧に言葉を選ぶ。
「昨今、陛下に関する様々な憶測が広がっております。
それらが民衆の動揺を招き、予期せぬ事態を引き起こす可能性がある。
ゆえに我々は、陛下の安全を確保し、同時に状況を鎮めるための協力をお願いしたく――」
「協力、とは何を指すのですか」
マリーが遮るように聞いた。
「礼拝の場所と時間の見直し、出入りの管理、文書の確認、面会の調整。
必要に応じて、一時的な保護の措置も――」
「保護」
マリーはその言葉を、静かに繰り返した。
「はい。あくまで陛下の安全のために」
その場が、しんと静まる。
マリーは少しだけ視線を落とし、すぐに上げた。
「私を守ると言うのなら」
その声は大きくなかった。
けれど、回廊の端まで届いた。
「私の祈りまで奪わないでください」
使者の顔が、わずかに揺れる。
マリーは続けた。
「不安を鎮めたいと言うのなら、
その不安に形を与えないことです。
王妃を守る名目で、王妃を囲う。
それが本当に人々を安心させると思っているのですか」
言葉は鋭かった。
だが怒鳴ってはいない。
あくまで静かに、王妃としてではなく、一人の人間として返した言葉だった。
使者は一度だけ目を伏せた。
そして、丁寧に答える。
「陛下のお言葉は、確かに承りました」
「ならば、答えは聞いたはずです」
「……ええ」
だが使者は下がらなかった。
「しかし、我々にも守るべき秩序があります」
ピシグリューがすかさず口を挟む。
「便利だな、その言葉は。
秩序のためなら、何でも正しく聞こえる」
「混乱を防ぐには、手順が必要です」
「手順の名で首輪をかける気か」
ピシグリューの声に、背後の随行者がわずかに身じろぎした。
その動きを見て、シャレットの視線が鋭くなる。
ド・モードは穏やかな顔のまま言う。
「ここは王宮です。
王妃陛下への言葉は、もっと慎重に選ばれるべきでしょう」
「慎重に選んでおります」
「選んでその程度なら、余計に危うい」
使者は、それ以上言い返さなかった。
代わりに、マリーへもう一度頭を下げる。
「本日は、お願いに参りました」
「断ります」
マリーは迷わず言った。
短い。
だが、その一言で十分だった。
使者は顔を上げる。
その目の奥に、一瞬だけ何かが出た。
苛立ちでも、怒りでもない。
もっと乾いたものだ。
――では、次へ進むだけだ。
そう言っている目だった。
「承知しました」
声はまだ丁寧だった。
「では、手順に従います」
その言葉に、三銃士の空気が変わる。
シャレットの肩がわずかに下がる。
力んだのではない。
次に動ける姿勢に入っただけだ。
ピシグリューは壁から背を離した。
ド・モードは侍女たちへ下がるよう目で合図する。
使者は最後に言った。
「明朝、改めて正式な通告をお持ちします」
それだけ残し、一礼して踵を返す。
足音が遠ざかる。
随行の男たちも続く。
回廊には再び静けさが戻った。
だが、それはもう朝の静けさではなかった。
マリーはしばらく黙っていた。
そして小さく息を吐く。
「……来るのね」
シャレットが答える。
「はい」
「次は警告では済まないでしょうね。」
ド・モードが言う。
「実力行使で来るかと。」
ピシグリューが続けた。
マリーは目を閉じずに、前を見たまま言った。
「物騒な話になるのかしら」
その言葉に、三人ともすぐには返さなかった。
最初に口を開いたのはシャレットだった。
「その準備は必要かと。」
ド・モードが静かに添える。
ピシグリューは短く言う。
「もう猶予は長くない」
マリーは頷いた。
その頷きは小さい。
けれど、逃げるようなものではなかった。
「分かったわ。
なら、私も考える」
三銃士は何も言わなかった。
ただ、その一言をそれぞれ受け取った。
もう守るだけでは足りない。
王妃自身が、選ばなければならないところまで来ている。
回廊の先、開いた窓から風が入る。
冷たくはない。
だが、何かが変わる前の風だった。
シャレットが低く言う。
「次は、対話では済まない」
誰も否定しなかった。




