第47話「静かな包囲」
最初に変化を感じ取ったのは、王でも、革命家でもなかった。
それは名も記されない侍女の、何気ない違和感だった。
礼拝堂の扉が閉じられたあと、空気が残る。
祈りが終わったはずなのに、静けさだけが去らない。
「……おかしいわね」
誰に言うでもなく呟いた言葉は、やがて別の耳に届く。
形を変え、意味を付け足されながら。
王妃の祈りが、変わったらしい。
礼拝堂で、胸騒ぎがした者がいるらしい。
十字架ではない“何か”を見た、と言う者もいた。
確証はない。
だが、不安にとって確証は必要なかった。
革命政府の一室では、別の言葉が交わされていた。
「象徴は危険だ」
机を囲む者のひとりが、淡々と口にする。
「人は、意味を与えすぎる。
理解できないものほど、都合よく神話にする」
「王妃を、という意味か?」
直接の名は出ない。
だが、誰もが同じ対象を思い浮かべていた。
「彼女が何かをしている証拠はない」 「だが、“何かをしていそうだ”と思われるだけで十分だ」
それは、恐怖政治の時代に磨き上げられた論理だった。
危険かどうかではない。
危険だと“思われるか”どうか。
正義の名を借りた沈黙が、部屋を満たす。
「処置案を――準備しておけ」
その一言で、歯車は回り始めた。
同じ頃、パリの街角で、リュシアンは立ち止まっていた。
非公式な噂。
曖昧な報告。
王妃に関する、断片的な動き。
どれも決定打にはならない。
だが、組み合わさると、一つの流れになる。
――囲われ始めている。
彼女が、ではない。
彼女を“理解できないもの”として扱おうとする世界が。
サンジェルマン伯爵は、何も言わなかった。
問いに答えず、命じもせず、ただ待っている。
それが意味することを、リュシアンは理解していた。
ここから先は、
誰かに与えられる役目ではない。
彼は、剣に手を伸ばさなかった。
会いに行くことも、誓わなかった。
ただ一つ、選ぶ。
――彼女の物語を、奪わせない。
世界が彼女を裁く前に、
その手が届かない場所を、静かに確保する。
それは戦いではない。
だが、逃避でもなかった。
彼自身の意思による、一歩だった。
ヴェルサイユ宮殿。
マリーは公務を終え、回廊を歩いていた。
王妃としての微笑みも、所作も、何一つ変わらない。
それでも、胸の奥に、確かな感覚があった。
誰かが、動いた。
理由は分からない。
名も、顔も、知らない。
ただ、はっきりと感じる。
――もう、自分は完全に一人ではない。
その感覚に、彼女はまだ意味を与えない。
与えられない。
だが、それで十分だった。
その夜、一通の文書が、密かに書き起こされる。
表題は簡潔だった。
「王妃マリー・アントワネットに関する対応案」
署名は、まだない。
だが、歯車はもう止まらない




