第46話「動き出す歯車」
夜明け前のパリは、奇妙な静けさに包まれていた。
革命広場にほど近い通りを歩きながら、リュシアンはその違和感を噛みしめていた。
銃声も怒号もない。
だが、人々の声が低い。囁くように、何かを避けるように。
――終わったはずだ。
恐怖政治の狂気は、一度は沈静化した。
処刑台は片づけられ、血に染まった石畳も洗われた。
それでも、街の空気は澱んだままだ。
「……王妃が、祈っているらしい」
すれ違った男たちの会話が、耳に刺さった。
「祈りだと? 今さら何を」 「さあな。ただ……“普通の祈りじゃない”って話だ」
リュシアンは足を止めなかった。
その名を、心の中でも口にしないようにしながら。
会うべき時ではない。
理由は分からない。ただ、そう感じていた。
薄暗い屋敷の一室で、サンジェルマン伯爵は窓辺に立っていた。
夜明けの光が、彼の横顔をわずかに照らす。
「街が騒がしくなってきたな」
背後からリュシアンが言うと、伯爵は振り返らずに答えた。
「騒がしいのではない。
――“動き始めた”のだ」
「何が?」
伯爵はしばし沈黙し、やがて低く告げた。
「彼女が、呼ばれ始めている」
リュシアンの指が、無意識に強く握られた。
「王妃として、ですか」
「いいや」
伯爵はゆっくりと首を振る。
「人としてでもない」
それ以上は語られなかった。
だが、その言葉だけで十分だった。
「……俺は、いつ動けばいい?」
問いかけに、サンジェルマン伯爵は初めて振り返った。
その瞳は、どこまでも静かで、そして遠い。
「彼女が、自分の足で立った時だ」
「その時が来たら?」
「君は、もう迷わない」
それは助言であり、予言だった。
ヴェルサイユ宮殿。
朝の光が回廊を満たし、王妃の私室にも日常が戻っていた。
マリーは鏡の前に立ち、いつもと同じ装いに身を包んでいた。
侍女たちは、昨夜のことを何も知らない。
「本日は礼拝のご予定は?」
「ええ。いつも通りに」
微笑みも、声も、王妃として完璧だった。
だが、礼拝堂に足を踏み入れた瞬間、彼女の動きがわずかに変わる。
跪き、手を組む――その所作は同じはずなのに。
視線が、十字架を越えていた。
もっと古い。
もっと深い。
名を持たぬ“何か”へと。
マリー自身は、まだそれを理解していない。
ただ、確かに感じていた。
――戻れない場所に、立っている。
歯車は、すでに回り始めていた。




