第44話「過去の囁き」
夜の帳が下りたヴェルサイユ。
審問の余波も冷めやらぬ王宮の回廊は、まるで誰かの嘆きを吸い込んだように静まり返っていた。
マリーはひとり、誰もいない礼拝堂にいた。
蝋燭の炎が微かに揺れ、祭壇の上の十字架が長い影を床に落とす。
彼女は膝をつき、胸の前で手を組んだ。
目を閉じると、耳の奥で誰かの声が聞こえる気がした。
――風のような、炎のような、しかし確かに“女の声”。
「まだ……終わっていないのです」
その声に、マリーは息を呑んだ。
祈りの言葉が途切れ、蝋燭の炎が一瞬だけ大きく揺れた。
そして、まるで夢と現の境が溶けるように、視界が霞んでいく。
気づけば、彼女は灰色の空の下に立っていた。
辺り一面が炎に包まれ、焼けた鐘楼の影が歪んで見える。
その中に――一本の旗を掲げ、祈るように立つ“少女”の姿。
銀の鎧に煤がつき、手には白い旗。
その瞳はまっすぐ空を見上げていた。
「恐れることはありません。あなたはまだ、光を失ってはいない」
その言葉と同時に、炎が彼女を包んだ。
熱い――はずなのに、不思議と痛みはなかった。
ただ、胸の奥が激しく脈打ち、何かが目覚めようとしていた。
「……あなたは、誰なの……?」
「名を――ジャンヌ。けれど、それは“かつて”の名。」
瞬間、視界が白く染まった。
気づけば、マリーは礼拝堂の床に倒れていた。
蝋燭はすべて消え、窓から差し込む月光だけが空間を照らしている。
彼女の手には、焦げた羽のような白い灰が握られていた。
「……夢……? でも……」
その時、扉が軋む音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは――サンジェルマン伯爵。
月明かりが彼の銀髪を淡く照らしている。
「また……お会いしましたね、伯爵」
「眠りの中で“声”を聞かれたのではありませんか?」
マリーははっとした。
彼がまるで、全てを見ていたかのような口ぶりだった。
「ええ……でも、それは夢のようで……誰かが“私に語りかけていた”ような……」
伯爵は静かに頷いた。
「それは、“記憶”です。時を越えてなお、この地に刻まれた炎の記憶。
貴女の魂がそれを呼び覚ましたのです。」
「……記憶? 誰の?」
「いつか、貴女がその答えを見つけるでしょう。
今はただ――“問うこと”を恐れないでください。」
そう言って、伯爵は歩み寄り、焦げた羽を彼女の手から取った。
その表情は、どこか懐かしさを帯びている。
「これは、“彼女”が貴女に託した証です。」
「彼女……?」
「いずれ、その名が貴女の口から呼ばれる日が来るでしょう。
それが、“真実への扉”を開く合図となります。」
マリーは胸の奥に残る熱に手を当てた。
燃えるような痛み。
それは恐怖ではなく、不思議な懐かしさだった。
「私の中に……誰かがいる。
そして、その“誰か”は……まだ、私を見ている。」
サンジェルマンは微笑み、祭壇に視線を移した。
「ええ――それでいいのです。
“目覚め”とは、記憶を取り戻すことではなく、“問い続けること”ですから。」
マリーは静かに頷いた。
窓の外では、雲が流れ、満月が顔を出した。
その光が祭壇の上を照らし出す。
十字架の影の傍に、一瞬だけ――
炎の聖女、ジャンヌの幻が微笑んでいた。




