第38話:「閉ざされた扉、開かれる影」
ヴェルサイユ宮殿――王妃の私室。
薄明かりの中、マリーは窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
審問が終わったあの夜から、心の中で繰り返すのは、あの“影”の姿。
――凍てつく青い瞳。名も告げず去った青年。
「……あなたは、何者なの……」
かすかな囁きに、背後から低い声が応える。
「知りたいと思いましたか?」
振り向けば、そこにはサンジェルマン伯爵がいた。
闇の中から現れるその姿は、いつ見ても時の感覚を狂わせる。
「……ええ。けれど、それを知るのが怖い自分もいます」
「それでいいのです。問いを持つ者だけが、答えに辿り着ける」
彼はゆっくりと歩み寄り、窓の外を見やった。
遠く、衛兵たちの松明が動いている。侯爵派の残党狩りが続いているのだ。
地下回廊。
三銃士は逃亡を試みた侯爵派の一団を追い詰めていた。
シャレットが剣を構え、低く告げる。
「お前たちの主は捕らえられた。もう終わりだ」
だが、その背後の暗がりから、冷たい声が響く。
「終わりではない。まだ舞台は整っていない」
闇の中に、白い仮面が浮かび上がる。
その男は一歩も踏み出さず、ただ残党たちに視線を向けた。
「主は、お前たちを見捨てていない。まだやるべきことがある」
次の瞬間、仮面の男の姿は揺らぎ、闇に溶けるように消えた。
残党の数名が恐怖と陶酔の入り混じった目で顔を見合わせる。
「……あれが……本当の……」
翌日、王妃の私室。
サンジェルマンが淡々と告げる。
「侯爵派は駒に過ぎません。本当の敵は、まだ幕の向こうにいます」
マリーは唇を噛みしめた。
「その敵は……私を狙っているのですか?」
「あなたを、そして――この時代そのものを」
マリーの胸に、初めて明確な感情が灯る。
それは恐怖と、そして……知りたいという衝動。
「……知りたい。すべてを」
サンジェルマンは微かに笑みを浮かべた。
「ならば、時は近い。導かれし者と、再び会うでしょう」
夜。
ヴェルサイユ宮殿の屋根の上で、ひとりの青年が月を背に立っていた。
リュシアン――名をまだ誰も知らぬ“影”。
手には古びた懐中時計。
それは現代のものに似ており、針がゆっくりと時を刻んでいる。
(……もう時間がない。この時代が終わる前に、やるべきことがある)
その背後、塔の影に仮面の男が立っていた。
しかしリュシアンは振り返らない。
ただ遠くの宮殿を見据えている。
鐘が三度、低く鳴った。
その音が、夜の空気を震わせる。
――やがて、覚醒と真実の時が訪れる。
運命の歯車は、静かに音を立て始めていた。




