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黄昏のガンダルヴァ  作者: 猫弾正
第2章 流れ斥候

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☆終末こぼれ話 『這いずる者たち』

 ニナはしがない渡り人(オーキー)の小娘である。年上のマギーと共に町外れに暮らしてる。主にマギーが居留地の仕事で日銭を稼ぎつつ、二人は食べ物を探したり、家を修繕して日々を過ごしている。時には危険な廃墟漁り(スカベンジャー)の真似事も行うが、余暇には友人と遊んだり、音楽を聞いたり、本を読んだりと人生を楽しんでいた。


 元は廃墟暮らしをしていたニナは、現在の生活に大いに満足していた。勿論、細かい所に目を向ければ、もっと安全を確保したい。雨風を遮れる家に住みたい。食べものを彩り豊かにしたいと欲望は尽きない。しかし、四六時中、警戒しないで済む程度には安全で、食べるものにも困らない居留地暮らしは悪くなかった。明日への展望が明るいとは言い切れないにしても、数年後を想像しても生きてるかもと想像できるくらいには薄明かりの下に細い道が続いているようにも思える。


 今のところ、ニナにとっての大きな不満と言えば、金を稼げないことだろうか。   

 肌寒い夜など毛布に包まってマギーに抱き着きながら、同居人の足手纏いになっているのが、どうにも歯がゆく感じられる時がある。今の生活が一方的に与えられたものかと言えば、けしてそうではない。基本的にはマギーがニナを世話しているが、ニナもマギーの命を二度ほど危ういところで救っていた。臨時収入としては意外と大きい廃墟漁り(スカベンジャー)稼業など、やや衰えたにせよ、ニナの鋭い目と耳、鼻は危険の兆候を見逃さないし、曠野や廃墟を横断する時にも二人で死角を補い合い、地図の製作や測量においても意見を交換し合ってミスを殆んど潰していた。とは言え、廃墟漁り(スカベンジャー)稼業はあくまで副業に過ぎない。普段から小まめに働いて住環境を快適に保つ努力をしても、生活のおおよそをマギーに負っている。


 或る日、塒の焚火の傍でマギーの太腿に座りながら「笑うかも知れないけど、対等になりたいの」少し恥ずかしそうにニナは告げた。

「対等ね」マギーは、真面目な表情で考え込んでから、ニナの髪を撫でて告げる。

「わたしは、子供時代を楽しんで欲しいと思ってるんだけどね」

「……すぐ子ども扱いする」ニナは不満げに表情をしかめた。

「子供だよ。幾らか私を上回っているところがあっても」いなすような返答に軽く唸ったニナは、マギーの指を猫のように甘噛みした。



 ※※


 文明崩壊後の世界では、教育の機会は限られている。小さな集落や廃墟暮らしなど環境によっては読み書きすら学べない土地もあるが、幸いポレシャでは教育の機会が提供されていた。とは言え、幾らかの費用は払わなければならない。教科書は貸与されるもののノートやペンは自前で揃えねばならないし、通うか否かは、子供や保護者の自由意思に任せられている。居留地にも、確たる教育方針がある訳ではなく、最善を求めて常に試行錯誤を重ねていた。読み書きや計算など家で教える親もいるし、ある程度、学んだあとは働かせる方が良いと考える親もいる。無駄な時間を取られるよりも、さっさと仕事のやり方を身に着けた方が為になるという考え方も、仕事の口が限られた居留地では必ずしも間違いとは言い切れない。


 居留地と近隣には幾つか小さな私設学校が開かれている。町外れでも公営の青空教室が開かれており、暇を持て余した市民階級の老人が格安の授業料で講師を引き受けてくれるのだが、ニナは初等教育を終えていた。元々、廃墟に暮らしていた頃におおよそのテキストは揃えている。電気工学や機械工学に関する貴重な本もあった筈だが、今さら故郷へと取りに戻るのは無謀だろう。


 マギーやその他の大人たち曰く、中等以上の教育に関しては、さらに高額な費用が必要とされるし、一般的な技術や職業教育を受ける為には適切な指導者メンターや訓練施設を見つけることが求められる。専門的な知識や技術に関しては、伝手を得なければアクセスするのも難しい。大きな都市では教育支援プログラムや正式な学校、機関が存在している事も多いが、恩恵を受けられるのは多くが裕福な家庭の子弟であるし、教師の質や教材の充実度によって、得られる知識や技術が大きく異なるため、どこで学ぶかも重要になる。貧しい家庭の子供たちは、自力で学ぶしかなく、多くの場合、それが叶わないことも多い。


 なので、ニナと付き合いのある友人集団は、熱心に学校に通っていた。ニナたちは老人教師をほぼ独占していると言っていい。週に二、三日、青空教室での授業に参加し、中断した箇所から課程を再開したり、自信がない部分を復習したりする。僅かな金さえ払えば、いくらでも学べる環境は、将来に大きな支えとなって返って来ると子供たちは確信していた。「運がいいのだわ。王女に相応しい教養を身に着けるのだわ」と路地裏の王女さまも仰っておられる。路地裏の王女さまは、友人の親を説得して、青空教室へと通わせるよう努力していた。多分に町外れの顔役である父親の影響力もあったのだろう。王女さまの小集団に属する子供らは、常に半数以上が勉学に励んでいる。


 青空教室では、子供たちは座り込み、真剣な眼差しで講師の話に耳を傾けている。生徒の大半は流れ者や近隣からの出稼ぎ労働者の子弟が占めているが、教育の機会に恵まれなかった年嵩の渡り人(オーキー)や自由労働者の姿も時々は見える。些かの金と伝手が必要だが、大きな居留地や都市には機械の扱いや修繕技術、木工や工具の製作、修繕といった実践的なスキルを学べる場所もあるし、狩人から罠の作り方や弓の手入れを習ったり、医師から応急手当の教習を受けたり、縫製工や針子の婦人の元で裁縫を学ぶこともできる。


 三時間ほどの授業を終えて、ニナは元気を取り戻した。

「体育の時間だ!」そんな授業はないのだが、叫びながらニナは学校を飛び出した。木からサンドバッグが吊るされた広めの空き地で七、八人の仲間たちが運動に励んでいた。学校に通うよりも人数が増えてるのは、ご愛敬だろう。

「あと……五年!」足首を友人に抑えて貰って、腹筋を繰り返しながらニナは呻いた。

「五年後にはマギーを押し倒す……じゃない、組手で倒してみせる」

「邪悪な欲望駄々洩れしてるのだわ。マギー知ったら、ドン引きだわね」路地裏の王女さまが首を振った。

「間違えただけだし……両想いですし」

「どっちだよ……どうでもいいけど私を狙わないでね?」

「大丈夫、そんなに趣味は悪くないよ?」しばし相手を眺めてから、互いに鼻を鳴らした。


 最初に筋肉の柔軟性と可動域を高めに維持するために入念なストレッチを行い、軽いランニングを行う。それから腹筋と腕立て伏せのセットを20回3セット。懸垂を10回2セット。激しい運動はカロリーを消費するので、運動能力を維持できる程度の軽いトレーニングに抑えておく。腹を空かせがちな渡り人(オーキー)や自由労働者の子等にとっては、空腹は常に最大の敵である。


 拳を保護するバンテージを巻いて、ペラペラのグローブを嵌めると、太い木の枝にぶら下がった古いサンドバッグを叩き続ける。

「1、2、6!1、2、7!」

 マイク・タイソンを育てた伝説のトレーナー、カスダマトの考案したナンバーシステムに基づいて、身体に動きを染みつかせる。カセットデッキから流れるロッキーのトレーニングを背景に「体幹を育て、神経の反射速度を高めに維持するのだ」と自らに言い聞かせつつ、ぺち、ぺちん、と小動もしないサンドバッグに打撃を叩きこんでいく。適正のないボクサーはやらない方がいいとも言われるナンバーシステムだが、時間当たりの効率と試合の勝利と言う条件に制約されたプロボクサーの話であって、やり続ければ、凡人でも反射神経とパンチの打ち方の訓練にはなっている。

 腰と背中を使って打つんだ。ジョー。脳裏でアイパッチのおっさんが囁いてる。

 ふぅ、と息をついた。終わった。打ち終わったので、両手を上げながら「うおおー!エイドリアーン!」ニナは叫んだ。受けた。ゲタゲタ笑ってる路地裏の王女さまと交替して、休憩に入った。文明崩壊後の世界でもロッキーとランボーの一作目は、都市や大き目の居留地の映画館などで時々、上映されている。名作は大体、生き残っているが映画や本が多く残っている場所と古代人のような暮らしをしている土地では、住人の情緒や民度の差が顕著だった。特に廃墟民の一部はヤバい。一言で言うと蛮族である。


 タオルで汗を拭き、頭に被ると、ニナは冷たい水を飲み、ナッツを少しだけ齧って目を閉じた。こんな事をしてて稼げるようになるとも思わないし、変異獣に拳で勝てる筈もない。

 それでも、一心に積み重ね続けていた。だが、廃墟の奥で死んでいる姿を見掛ける廃墟漁り(スカベンジャー)やストーカーたちにしても、知識や訓練を積み重ねていたに違いないのだ。素人連中は論外にしても、まともな装備を所有し、探索に慣れていると思しきプロさえ廃墟で死んでいる姿が瞼の裏に蘇ってくる。自分はこの先、何年生きるだろう。時々、ニナは自問自答する。答えは出ない。


 なにか言い争うような声が聞こえたので目を薄っすらと見開くと、仲間たちが学校にも来ないクソガキに罵倒されている。

「アホがおるわ。おまぁらみてえチビッ子がなにやっても無駄だわ」

 近所の同年代の小僧だ。酒飲みの親父に殴られたのか。時々、頬が腫れてるところは不憫に思うが、性格が悪いのでニナは同情はしない。

「うるさいのだわ。あっち行きなさいよ」路地裏の王女さまがサンドバッグを叩く手を止めて、嫌そうに追い払おうとしている。

「おまえこそあっち行けよ。変な言葉遣いしやがって」クソガキは、誰もが思って言わなかったことを口にして、路地裏の王女さまを絶句させた。

「格好いいとでも思ってのかよ」ニヤニヤしながら、止めとばかりに王女さまの肩を押したクソガキ君。

 プリンセスナックゥ!路地裏の王女さまは格ゲーの必殺技っぽい発音でクソガキ君の肝臓に拳を叩きこんだ。野良猫めいた素早い動き。バンテージを巻いた上に腰の入ったいいパンチが突き刺さると、少年の顔色は真っ青に急変する。背は高くとも栄養不足気味だな、とニナは思った。

 うずくまったクソガキ君に対して「え~、お兄さん♥女の子のパンチで倒れちゃったのぉ?ざぁ〜こ♥ざぁ〜こ♥よわよわ♥」何故かメスガキ口調で煽りを入れるのは、仲間内でも一際屈強な男の子ノルベルト君であった。露骨な嘲りが誘発したのか、クソガキ君の背に鞭のように嘲弄が浴びせられる。比較的に善良なニナの友人たちだが、文明崩壊後の過酷な世に生きる逞しい少年少女。先に煽られれば好戦的な反応も見せる。

「お前こそ、嫌われてるのも分からないの?みんな、お前と話したくないのだわ」

 言い返されたクソガキ君は、泣きそうな表情を浮かべている。

「打たれ弱!」ケラケラと誰かが笑った。


 逃げるように立ち去っていくクソガキ君の後ろ姿を見送ってから、「……親ガチャか」ニナは低く呟くと、少しだけ沈み込んだ。

 まあ、多分、自分は運がいいのだろう。

 早くに死なれたが大事な事を沢山、教えられた。

 クソガキの親父は、子供をサンドバッグと勘違いしている。

 仕事でも親父とそのろくでなしな仲間にこき使われているがその癖、ろくに仕事のコツも教わってない。何か口を開けばすぐに殴られるので、自分から聞くと言う発想も潰れている。自尊心も、積極性も潰される悲惨な境遇だ。哀れな奴だと思う。

 他人とのかかわり方を罵る以外に知らない。青空教室の老教師なら、或いは助けようとするかも知れないが、大変なエネルギーを取られるだろう。

 老教師が惜しみなく与えてくれる知識と善良さを、自分の幸運を減らしてまで分かち合うことはできなかった。クソガキは、ただの嫌な奴に過ぎなかったからだ。

 自身の幸運やリソースを割いて他人を助けるのであれば、やはりいい奴がいい。

「……上を見ても、下を見ても仕方ない。やれるだけのことをやるんだぞっと」哀れな子供が遠くの街角に消えていくのを見ながら、ニナはそっと呟いた。小僧は気の毒だが、哀れもうとは思わない。生きることは闘争だ。自分も含め、来年には空き地にいる誰が欠けていてもおかしくない。兎も角も、ニナはそうして一日一日を愛しむように日々を過ごしている。



 ※※


 廃墟生活者と言っても内実は様々で、中には豊かな生活を送っている者もいる。居留地に合流するのを好んでないだけで、水源と農場を抱えた古い家系もいれば、街道沿いの堅牢な建物に拠点を構えて交易や隊商宿で稼いでいる徒党もおり、そうした縄張りを抱える集団には、生半な市民よりも豊かな生活を送っている者も珍しくない。しかし、それは基本少数派であって、大多数の廃墟生活者は厳しい環境で食うや食わずの生活を強いられていた。トリスが一応、属している徒党も例外ではなく、狩猟や採集で得たわずかな食料で日々をつなぎ、危険と隣り合わせの生活を余儀なくされていた。


 トリスは、ポレシャに近い旧市街地の廃棄区域に隠れ暮らしている。本名はベアトリスと言うが、誰もがトリスと呼ぶ。親はいない。父親はトリスを産んだ母を捨て、一人でトリスを育てた母親もある日、食べ物を探しに出たまま戻らなかった。娘を捨てて逃げたのか。それとも死んだのか。ともあれ、それからのトリスはほぼ独力で生きてきた。目を守るサングラスゴーグルがトレードマーク。擦り切れたシャツと半ズボンに身を包み、こん棒、母お手製の一つ目人形、そして若干の食べ物の入った袋がトリスの全財産である。


 ポレシャ近郊の廃墟生活者たちの生活スタイルは、かなり狩猟採集社会に近い。少なくともトリスの属する集団においては、遺棄された畑で野生化した雑穀や芋を掘り起こし、小動物などを罠で捕らえ、曠野や川で得られる食料を細々と集めている。


 廃墟生活者らの生は、終わりの見えない苦難の連続だ。廃墟や丘陵に潜む怪物たち、無慈悲な人狩り、汚染された水と土壌、容赦ない天候――それらすべてが命を脅かしている。

 野生動物が多かれ少なかれ変異してるように、大地に含まれた汚染物質は人間にも影響を与えている。トリスの仲間にも角の生えた少年カイや鱗肌のジョスなどがいて、トリスも常時、サングラスゴーグルで顔を隠している。薬や手術で治せるとも聞くが、廃墟暮らしの子供たちにそんな金や伝手がある筈もない。大半の廃墟生活者らは採集民として暮らし、命懸けで手にした僅かな糧で食い繋ぎながら、いずれ緩慢な死を迎える運命にあった。


 その日、トリスはしくじった。廃墟に隣接する大き目の居留地ポレシャで暴動だか、騒乱だかが起きたらしく普段は静かな防壁の向こう側から騒然とした雰囲気が伝わってくる。変異獣の大群ホードにでも襲撃されたか。或いは略奪者レイダーの徒党に攻め込まれたか。兎も角、ほぼ一晩中を銃声や騒音が響いてきた。


 激しい銃撃の音や断末魔に怯えながら、夜通し、廃墟の片隅で息を潜めていたトリスや他の子供たちだが、恐らくは居留地側が脅威を退けたのだろう。夜が明ければ、防壁の上を警備兵や民兵が盛んに動き回っており、時折の銃声が聞こえてくる。


 トリスの暮らしている旧市街地一帯はほぼ巻き込まれなかったが、それでも、辺りはどこか騒然とした気配に包まれていた。数人の少年少女が防壁の方をじっと眺めていた。「……タワーの様子を見に行こうぜ」「危ないだろ」

「行ってみよう……なにかいいものが拾えるかもしれない」頭目格のリンが歩き出すと、佇んでいたトリスも腕を引っ張られた。


  防壁近くの一帯は以前、他の廃墟生活者や浮浪者ホーボーの集まった生存者サバイバーグループの縄張りだった。彼らは居留地の住人と小さな伝手を築いていて、低層ビルを拠点として拾ったガラクタを売ったり、酒や食べ物を交換することで他の廃墟生活者たちよりも、ほんの少しだけいい暮らしをしていた。


 其の生存者サバイバーグループが拠点から姿を消したのが去年の秋ごろだ。口さがない浮浪児たちの噂では、小金を貯めて木柵に守られた居留地の下位区画に引っ越したとか、人攫いどもの餌食になったとも、もっと良い土地を求めて廃墟を去ったとも言われている。件の生存者たちと繋がりのないトリスには真実はうかがい知れなかったが、ともかくも重要な事が一つ。暮らしやすい低層ビルが空になった。


 異変を察知して真っ先に低層ビルに乗り込んだのは、リンたちのグループだった。一番、近くで暮らす纏まった集団だから、これはリンの判断力と言うよりは単なる幸運の賜物だろう。安全で雨風を凌げる立派な住処に喜んだのもつかの間。数時間で、ムーアが率いる別の狂暴な少年少女の一団に低層ビルを奪われていた。些か怪しげな根拠に基づいて『正当な』持ち主であると主張するリンの徒党と『不法占拠』している愚連隊予備軍はそれ以来、犬猿の仲であるが、どうやらリンは今も奪われた廃ビルに未練たらたらと見える。


 そうして辿り着いた低層ビルは、しんと静まり返っていた。木製扉や家具で塞がれた入り口は力づくで粉砕されている。尋常ならざる出来事が起きたのは確かだが、誰が。或いは、なにが襲ってきたのかは、全く不明だった。

「何が起きた?」「わからない。相当なことがあったんだろうが」トリスたちは囁き合いながら様子を窺ったが、薄暗い入り口からでは、内部の不良少年少女らがどうなったのか。まったく見当が付かなかった。

「……兎に角、入ってみよう」急かすようにカイが提案した。住人たちが逃げ出したとしても、なにかいいものが残っている可能性は残っている。


 ポレシャを襲ったのが略奪者レイダー盗賊バンディットであれ、大規模な襲撃は大抵、人攫いを伴うものだ。低層ビルの占拠者たちが巻き込まれたのであれば、なにかしらの貴重品を拾えるかもしれない。変異獣が原因であっても火事場泥棒を期待してないと言えば嘘になる。今回も一番乗りしたリンたちだが、荒廃した世で生き延びるためには、どんな手段もいとわない連中も多い。

 辺りには荒っぽい放浪者ワンダラー浮浪者ホーボーたちも暮らしているし、普段から盗みをしている浮浪児の徒党もいる。兎も角、他の集団がやってきて争いになれば、少年少女の多いリンの徒党では戦利品を奪われかねない。手っ取り早く漁って、さっさと逃げるのが得策だろう。


 慎重に周りを見回してから、まずはリンが廃ビルに足を踏み入れた。しかし、建物からは人の気配が感じられず、異様な静寂に包まれていた。

 様子を窺っていたリンが手招きすると、徒党の仲間たちも次々と乗り込んでいく。なんとなれば、廃墟で危険な暮らしを送る少年少女たちは、風雨を凌げる頑丈な拠点の暮らしに憧れを抱いているものだ。


 建物内は幾つかの部屋に区切られている。打ちっぱなしのコンクリートのがらんとした空間には気配は感じられない。朽ちた壁紙の痕跡が微かに壁に張り付いていた。寝床代わりに藁の山や薄いタオルなどが敷かれており、鼠の骨や腐った野菜くずなどが床に散乱している。「王の帰還だ」言いながら、一人のお調子者が白いシーツをテーブルから取ると、リンの肩にマントのように掛けた。頭目の少女も満更でもない様子で笑っている。

 トリスはいつも通り、皆と少し離れた位置を保ちながら床へとしゃがみ込んだ。

「……誰もいないし、なにもない」囁いたトリスは、床に棒きれが転がっていたのが奇妙に気になった。何故なら、廃墟では絶対に武器を手放すべきではないからだ。持ち主は、どうして武器として使うにぴったしの長い棒を置いていったんだろう?武器を取る間もなく、銃で忽ちに制圧されてしまったのか。


 仲間たちははしゃいだ様子で動き回っている。すでに低層ビルを取り戻した気になっているのだろうか。十数名の少年少女が廊下をわが物顔で歩き回ったり、部屋部屋を漁って値打ちものを探している。中には既に上の階へと向かったものもいた。


 さて、上の階に行くには狭くて急な木製階段を使うしかないようだ。不安を覚えるほどに狭い階段は一階ごとに部屋を挟んで、建物の奥と手前に互い違いに設置されている。信じがたい程不便な構造に、図々しく入り込んだ子供たちは文句を呟いているが、トリス以外に多分、リンだけが感心したように何度も階段を見上げていた。各階の階段に面した部屋には木製扉も備え付けられており、同時にゾンビやら変異獣が建物に入り込んでも、一気に上の階まで侵入されることを防げる仕組みとなっている。


 内部の部屋を少し探索し、上の階へと昇ってみれば、四階ではいくつかの食べ物の屑やコップが転がり、木やブリキの食器が床に投げ捨てられていた。こんなガラクタでも小銭にはなるし、熟練した廃墟生活者なら金目の物はまとめて持ち出せるようにしておくはずが、この場所でも取るものを取りあえず逃げ出しているように見えた。


 天井の縄には袋が吊るされており、手を伸ばしたカイが中身を見て喜びの声を洩らした。

「おぉ!肉だぜ!」袋にはよく焼かれた肉の塊が入っていた。骨の細さからして栗鼠か、野鼠だろうが、腹を空かせた浮浪児には馳走だ。かぶり付いた傍らで、別の少女の手には、泡を立てるビール瓶が揺れていた。

「美味しい!」ラッパ飲みして口元を拭う少女。

 他の袋にはチーズやパン、麦などが詰まっており、戸棚の隅には貨幣やポレシャ紙幣までもが残されていて、見つけたもの同士であわや殴り合いまで起こし掛けた。


「……ビルの連中は何処へ行ったんだろう?」トリスにはどうにも気になった。食べ物や金目の物を見つけてはしゃいでいる他の連中が、少し騒々しすぎるように感じられた。

「リン。食べ物も見つかったし。もう引き返そうよ」撤退を促すトリスを、リンは静かに見つめ返した。

「あいつらだって、かなり用心深い廃墟の住人だよ。余裕もなく逃げ出すなんて普通はない」トリスの囁きに考え込むリンだが「待てよ」とカイが割り込んだ。

「上の階には、もっと値打ち物があるかもしれない」仲間たちを見回しながらカイは、手にした貨幣を鳴らして言った。

「もうすこし金があったら、しばらくは誰も死なないで済む」

 熱に浮かされたように仲間たちに賛同の呟きが広がると「行こう」リンも決断した。首を振るうトリスを見て、リンが告げる。

「トリス。どのみち私たちに選択肢はない。生きていくには糧が必要だ」残念ながら、トリスの発言力は徒党では低かった。


 そうしてトリスは、馬鹿みたいに狭い階段を昇って、ついに最上階に足を踏み入れた。ビル五階はどうやら幹部たちの生活空間となっているようだ。なにかが入り口から侵入して、住人たちは上に逃げた痕跡が残っている。なのに誰もいない。階段に面した部屋には床に擦り切れた絨毯が敷かれており、椅子やテーブルが配置されている。他の階と言えば打ちっぱなしのコンクリート空間であったり、床に毛布が置かれているか、後は精々が物置だった。天井には綺麗な細工物のランプが無用心に吊るされていて、入った燃料が細々と燃えながら室内を照らしていた。トリスの後から昇ってきた仲間たちも、部屋の様子には息を吞んでいた。少年少女らは忙しなく室内に散って戸棚や箱、袋を覗き込み始めた。一応は音を立てないように気をつけながらも、金目の物を探す手は止まらない。


 「最上階も人気がない、か……」トリスは深い息を吐き、慎重に廊下を進んだ。部屋の左端には崩れた扉があり、右手にはいくつかの部屋に続く廊下が伸びていた。斥候としての役目を果たすため、一つ一つの部屋を注意深く覗き込んだ。小さな小部屋にトイレ代わりのバケツが置かれ、臭気が立ち上っている。他の部屋は、貯水用の瓶や入れ物が置かれていたり、薪やら壊れた家具の置かれたガラクタ置き場になっている。


「……なにもない、か」戻りかけたトリスだが、何か違和感を覚えて立ち止まった。

 トリスが一度、足を踏み入れた部屋の隅。古びた棚の戸が先刻よりも微妙に開いているような気がした。トリスはそっと棚に近づき、目を細めてその裏側を覗き込んだ。そこには怯えた表情の幼い少女が、身を縮こまらせて隠れていた。衣服は汚れ、顔は恐怖で強張っている。ムーアの徒党にしては知らない顔だが、あの粗暴な少年たちも、年下を保護する度量は持っているのだろうか。トリスは一瞬だけ戸惑ったが「大丈夫、怖がらないでいい。リンは幼い子を傷つけて楽しむような奴じゃない」できるだけ優しい声で答えた。少女は怯えながら涙目で首を横に振ると「声を出しちゃ駄目……気づかれる」震える声で囁いた。


 棚の奥で見つけたばかりの服は汚れが殆んどなく、喜んで着替えていたジョスだが、カイに呼びつけられた。

「おい、木箱をどかすから手伝ってくれよ」カイの言葉に頷いて、木箱を抱えると「箱の後に扉があるよ」小柄なメイが言った。

「まだ、なんかあるかも知れねえ」嬉しそうに言うカイの傍らで、ジョスはくんくんと鼻を鳴らし「なんか、臭えな」と顔を顰めた。

 木箱を動かしてると、扉の崩れた向こう側の部屋から何かが軋むような音が響いてきた。「ムーアか?隠れていやがったのかな」カイが扉を睨みつけた。

「出てきやがれ。相手になってやる」こん棒の重さを測りながら、ジョスが好戦的な笑みを浮かべた。


 今日が決着の日とばかりにこん棒を手に待ち構える視線の先、地を這う何かが隣室の影からずるりと進み出てくるのが見えて、困惑したように三人は僅かに身構えたが、奇襲に備えるにはまったく不十分だった。

「……逃げて!」とリンが鋭く警告するよりも早く、半壊した扉を一息に押し倒しながら、真ん中にいたジョスへ圧し掛かったのは成人ほども大きな蟻だった。

 その巨大蟻は、朽ちた廃墟と広大な曠野で生き抜いてきたはずの少年少女の誰もが目にしたことがない、悪夢から出てきたような怪物だった。黒と茶の斑が入り混じった外骨格の硬質な甲殻には鮮血が染み込み、刺々しい突起には住人たちの衣服の切れ端や、皮膚の一部がまるで戦利品のようにぶら下がっていた。顎は鋭く、絶え間なくギチギチと音を立て、骨を砕く予告音のように響き渡っていた。複眼は闇の中で不気味に燃え上がり、子供らを獲物と見据えたかのように冷たく見据えていた。


 大きく開かれた両の顎がジョスの腹部を挟み込み、喰い込んだ。痛みに絶叫し、口から血を吹き出したジョスが友人たちに助けを求めて手を伸ばした。半狂乱になったカイが巨大蟻に棒切れを叩きつけた。強靭な外骨格に手が痺れ、棒があっさりとへし折れる。少年たちがジョスの腕を掴み引っ張ると巨大蟻が顎を動かした。ぶつん、と切断されたジョスの上半身が飛び込んできて、メイが恐怖に絶叫した。


 仲間の無惨な死を至近で目の当たりにし、誰かもが悲鳴を上げた。忽ちのうちに、少年少女の一団は恐慌に陥った。リンが声を張り上げて統制を取り戻そうとするが、悲鳴を上げながら逃げ惑う者や高い所に昇るものなど、誰もがどうしようもないパニックに陥った。辺りが混乱と悲鳴に包まれる中、小柄な人ほどもある巨大蟻がカイへと迫った。鎌のような顎を大きく開き、顎が今にもカイの足に食い込もうとした瞬間「カイ!」叫んだリンが素早くカイの腕を掴んで後ろへと引っ張った。リンと一緒に転倒したカイをギリギリで巨大蟻の顎が掠めた。リンが立ち上がるよりも早く誰かが彼女の背に当たって転倒した。巨大蟻の方へと飛び出すように転がった少女が恐怖に絶叫を迸らせるが、悲鳴がぶつりと途切れた。仲間が犠牲となっている間にトリスがリンを立ち上がらせた。

「逃げないと全滅するよ、リン」何時ものように淡々と呟いているトリスの囁きに冷静さを少しだけ取り戻したのか、リンは頷いたが状況は笑えるほどに絶望的だった。


 恐ろしく狭い階段入り口が唯一の逃げ道だった。なのに、いや、だからか。誰もが逃げ出そうと細い廊下の隙間のような出入り口に皆が殺到して、身動きが取れなくなっていた。自分が先だと腕を引っ張り、仲間を罵ったり、泣き喚いている少年少女の無様な状況は信じられないほど馬鹿々々しく、しかし、恐ろしい程深刻な状況を前にして、リンは笑いの衝動に襲われたかのように肩を震わせた。

 巨大蟻が廊下に飛び込んできたら、ものの数分もせずに全滅しかねない。普通に逃げても間に合いそうもないのに、十人以上の仲間たちが死に物狂いで足を引っ張りあっていた。

「……ムーアたちは、あいつを閉じ込めていたのか」部屋では、数人の仲間が死に物狂いで蟻の顎から逃げ惑っていた。恋人が死んで泣き喚いている少年。一人か、二人は、隙を見て廊下に飛び込んできたが、すし詰めの廊下を見て、絶望したようにへたり込むと頭を掻きむしる者さえいた。自棄になったのか、巨大蟻に殴りかかる少年らもいたが、どのみち浮浪児たちの貧弱な武装では、骨の柔らかな巨大鼠すら相手どるのは難しい。ちゃちな棍棒や小刀では怪物は小動もしない。逆に振り回される顎に手足を引っ掛けられては、血しぶきが部屋に散った。幸いにも死人は増えなかったが、場の混乱と恐怖は増すばかりだった。


「ムーアはどうやってあんな怪物を閉じ込めた?」傍に駆け寄ってきたトリスが淡々と疑問を口にした。

「……部屋の向こうに誘い込んで、扉で封じ込めた」答えてから、リンが舌打ち。

「ああ、そうか。囮だな」

「……多分ね」とトリス。

「仕方ない。私が行く」何でもないようにリンが告げると、カイが真っ青な顔を上げた。

「カイ。みんなをお願い」言いながらリンが髪を後ろに結んだ。

 カイは震える声で「……いやだ」

「そうは言っても、私のミスだよ」

「……そんなことは出来ない」断固として言い張ったカイの髪をリンの指が掻いて「できるよ」優しく囁いた。


 リンが上手く怪物を惹きつけるなら、隠れたままの少女を回収できるだろうか、とトリスは考えた。階段までなんとか連れてくるには、と頭の中で計画を組み立てながら、待機するトリス。

「みんな、こっちへ!」扉に立ったリンが叫ぶと同時に、トリスは背中に衝撃を受けた。「え?」驚愕しながらも突き飛ばされたトリスは後ろを振り向く。同じく驚愕の表情を浮かべたリンを、泣き笑いのカイが抑え込んでいて「カイッ、離し……」別の誰かが扉を閉めて、喚いてるリンの声が小さくなった。

「……は?」数瞬、思考停止したトリスの前。仲間が飛び込んできて死に物狂いに扉を叩いた。「リン!カイ!開けてくれ‼リィン!!」叫んでいるところに巨大蟻が迫ると、少年を串刺しにしたまま扉が軋むほどの体当たりをかました。今、部屋の中で動いているのは、巨大蟻を除けばトリスただ一人。口から罵りを洩らしながら、トリスは命懸けの鬼ごっこを開始した。



 壊れた扉の向こう側。他の巨大蟻は多分、いない。いたら死ぬことになる。(ええい、ままよ)それを承知で反対側の部屋へと飛び込んで、しかし、一瞬立ちすくんだ。巨大蟻はいない。だが、巨大な赤い染みが床に幾つも広がっており、ごくわずかにへばりついた肉片や服の切れ端が廃ビルを根城としていた徒党の末路を教えてくれた。(肉団子に……ッ!)吐き気がこみ上げるも、恐ろしい勢いで巨大蟻が迫ってくる。ゾッと背筋に冷たいものを感じながら、追ってきた巨大蟻の突撃をなんとか凌いでトリスは駆けた。細い一本道の廊下を通り過ぎると穴の開いた天井に例の狭い階段が設けられている。

「一々、壁なんか作りやがって」製造者を罵りながら、身体を横向きにして潜り込むと、直後に階段全体が大きく揺れた。

 必死になって昇るトリスだが、よく考えたら、あの大きさだと入ってこれないよな、と冷静さを取り戻しつつ、下を見れば、巨大蟻は横向きになって入り込み、這い進んでくる。嘘だろ。

「おああああああ!」トリスの喉から意味のない言葉が迸った。恐怖で腹に痛みを覚えるほど膀胱が縮みあがる。絶叫しながら、トリスは階段を駆け上った。幾らか小便が洩れていたが、気に留めようとも思わなかった。

「殺してやる!カイ!他の連中も!」トリスは久方ぶりに他者を罵った。呪いの言葉を撒き散らしながら、屋上に転がり出る。


 低層ビルの屋上。逃げ場を探す。血走った眼でトリスは周囲を見回した。給水塔が目に入った。梯子の元に駆け寄ったところで、巨大蟻が階段をすり抜けてきた。

 捕食者を目の前にして動けなくなる馬鹿な小動物みたいに身体から力が抜けそうになった。(……生きたい!)手を必死に動かしてなんとか梯子を駆け上ってから、トリスは息をついた。ぶるぶると瘧のように全身が震えていた。


 給水塔の上にたどり着いたトリスは、裏切った仲間たちを呪い、罵り、泣き叫んだ。体力を温存する為に黙るべきだと理性が警鐘を発していたが、抑制しても意味がない事は分かっていたので最後に好き勝手叫ぶことにした。


 廃墟では、他人を助けに来るようなお人よしなどいない。お人よしでも助けるのは友人までだ。そしてトリスの知り合いにお人よしなどいない。トリスは、涙で曇ったサングラスゴーグルを一回外した。手は今も震えて、指先から力が抜けそうだった。

 何度か目を擦ったが、大きな目から涙が溢れ出て視界をぼやけさせる。絶望感に打ちひしがれながら、トリスはゴーグルをごしごしと袖で吹いてから、再びはめ直した。


 少しだけ疲れて、また冷静さを取り戻したので静かに考える。(……もしかしたら、考え直して助けに来てくれないだろうか?)と期待もしてみるが、地上に建物から出ていく仲間たちの姿を見つけ、切り捨てられたと悟って天を仰いだ。

 リンの名を呼ぶが、後ろも振り返らなかった。まあ、トリスがリンの立場でも切り捨てる。一人を助けるために他の仲間を危険には晒さない。おまけに、どちらかと言えば、トリスは軽んじられている。間違いなく切り捨てる。簡単な計算だった。

「仲間を選べばよかった!地獄に堕ちろ!糞野郎!」トリスが叫んだ。

「見る目が無かったな!」地上からカイが言い返して、数人が大笑いした。


 トリスは悔しさに歯噛みした。いや、それよりも助かる為の方法を考えなくてはならない。廃墟では、諦めたものから死んでいくのだ。

 隣のビルを見る。ジャンプして届かない距離でもない。だけど、ギリギリでもある。トリスはそこまで運動神経のいい方でもない。分の悪い賭けだった。

 巨大蟻。足元をうろうろしていたが、今は屋上の真ん中に陣取っている。怪物。あれを躱せるだろうか?いや、あれはトリスよりも早い。駄目だ。

 再び、トリスは泣いた。体は震え、涙は止めどなく溢れ出た。感情の抑制が効かなくなっていた。


 トリスは絶望に甲高く叫んだ。追い詰められた獣のように。そして疲れて、うずくまった。

「此処で死ぬのかな」と小さく呟いた。覚悟はなかった。そんな精神論は嫌いだ。廃墟の弱い浮浪児が、死を恐れなくなってはお終いだと言うのがトリスの考えだった。だが、今は恐怖に怯えている。


 トリスに大した欲や望みはなかった。ただ生きてればそれでよかったのに。カイが許せない。欲を張って他人を誘い込み、その癖、他人にツケを押し付けて危険から逃げた。舐められているのは分かってたが、此処まで酷い扱いをされるとは想像してなかった。トリスは拳を握りしめると貯水槽に叩きつけようとしたが、躊躇ってから止めた。ため息を深々と吐いてから、寝転がる。巨大鼠やゾンビ、他の徒党や人攫いだけ警戒していればいいと生き残れると思い込んでた。人間関係を疎かにすれば命取りになる。仲間に対する警戒が足りなかった。カイを信用すべきではない徴候はあったのに。手痛い教訓だが、トリスにはもう活かせそうにもない。


 カイを殺してやりたい。許せない。死にたくない。トリスはじたばたと暴れた。巨大蟻は無機質な目でじっと見てる。トリスは寝転んだ。袋から野鼠の燻製を取り出し、食べてから骨を巨大蟻へと投げつけた。

 怪物は死んでるみたいに動かない。だが、その複眼。じっと動きを窺っている。


「……死にたくないよぉ」沈黙に耐えかねて、トリスは情けなく呻いた。

 ぐすぐす泣いてるうち「……助けてやろうか?」そんな女の声が聞こえたような気さえして、トリスはヒステリックに笑った。幻覚まで聞こえてきたようだ。

「おーい」再び、声が聞こえたような気がしたので、錯覚ではないと辺りを見回した。と隣接した廃ビルの屋上。チビとのっぽの二人組の若い娘が佇んで、トリスに手を振っていた。

「え……あ……どうして?」トリスの呆然とした言葉に「……屋上で泣き喚いていたら、そりゃ聞こえるよ」と小さい娘さんから返答が来た。


 冷静になって鑑みれば、何時もの縄張りとは違って、廃ビルは下層地区に隣り合っている。助けを求める声が届いても、さほど不思議でもない。トリスの悲鳴を耳にした二人組は態々、見に来てくれたらしい。追い詰められすぎて都合いい夢を見てるのだろうか。そう思いきや

「……渡り人(オーキー)でも、自由労働者でもなさそう。廃墟の浮浪児かな」小さい娘さんがトリスを眺めて淡々と呟いた。

「礼は期待できそうにないね」でかい女性が肩を竦める。見ず知らずの人間を態々、助けようとするのは解せないと思えば、仲間か、顔見知りかもと思って様子を見に来たようだ。


「……返事もない。助けはいらないのかな」二人の言葉に「お礼!!お礼しましゅ!助けて!」噛みつくようにトリスは叫んだ。この状況下では他に頼れるものはない。どのみち、乞食は選べないのだ。見捨てられたらお終いだった。

「怪物の数は?そいつだけ?」大きい方の問いかけに「一匹だけです!」トリスはあらん限りの声で応えた。

「分かった。今からそっちに行く、頑張りな」言って大きい方が踵を返した。


 それからの数十分は、トリスにとって人生で一番長い時間だった。五階を降りて、昇って来るには長い時間にも思えた。今までの人生で裏切られたり、痛めつけられた経験から、或いは見捨てられたとか、揶揄われているとか、碌でもない考えが幾度も脳裏を掠めては、準備をしてるのだとか、一々、手の込んだ演技をして楽しむ悪人はそんなはいないと自分に言いきかせて、正気を保った。


 バットを携えた長身の女と、結ったタオルに石を入れた小さい娘さんが屋上に姿を見せた時、トリスは安堵のあまり気を失いかけた。同時に、巨大蟻が動き出した。

「時計回り」とでかい方の女性。

「りょ」と小さい方。一定の距離を保ちながら、二人は別れて怪物を挟み込んだ。

 大きい女へと向かった巨大蟻の尻を、小さい娘さんがタオルに石を包んで叩きつける。もう一人は、単なるバット。いや、鉄の板やテープを張って補強してあるようだが、素早い動きで巨大蟻の顎を難なく躱し続けていた。


 二人では、勝てないのではないか?殺されたら悪いけど逃げよう。そんなトリスの思惑をよそに、二人とも均整の取れた体格で動きは素早く、巨大蟻のタイミングも計って、舞うように打撃を与えたり、余裕をもって攻撃を躱している。驚くほど巧みな連携だった。使ってる武器は、廃墟生活者と大して変わらないこん棒。小さい方なんてタオルと石なのに。


 あまりにも一方的で容易い、ように思えるが。観察して、ようやくトリスも気づいた。巨大蟻を中心に据えた二人は、常に対角線上の位置を維持している。時計回りと反時計回りを切り替えながら、常に片方は無防備な巨大蟻の下半身に攻撃を与えられる位置取りをすることで、恐ろしい怪物に何もさせない。よく考えた戦術を押し付けられることで、巨大蟻は単なる獲物に堕していた。だけど、戦術と口で言う程に簡単じゃない。まったく危なげなく集中力と運動を維持し続けるなんて、余程入念に鍛錬を積んでいるに違いない。少なくともトリスならすぐに息切れする。


「これで7発!」小柄な少女がタオルで包んだ石を蟻の腹に叩きつけた。

 人間が腹に食らえば、七転八倒してるだろう衝撃を受けても、しかし、巨大蟻は獰猛に動き回っている。「中々、効かないね」少女がぼやき、背の高い女性は「まあ、気長にやろう。訓練の成果を見せてもらうよ」そう楽しげに笑っていた。

 トリスが祈るような気持ちでハラハラと見守っている中、二人は延々と巨大蟻を殴り続けた。


 ……12 鈍ってきたかな。あかん。まだ元気だ。


 ……19 ひびが入ったよ。お腹は割れたらぶよぶよだね。


 ……28 臓物が洩れてる。足狙う?

     まだ、いい。


 ……31 大分、遅くなったね。あと一息かな


 ……45 中々、死なないね。

     足を砕いてみよう。


 ……53 後ろ足が折れた!動きも鈍くなってきた!


 ……71 お腹ズタズタでまだ動くんだ。凄い生命力。

     死ぬまで殴ってみよう。生命力を知りたい。


 ……88 まぁだ生きてる。


 ……97 と、いい汗かいたねぇ。


  完全に動かなくなった巨大蟻を覗き込みながら、二人の娘はナイフで蟻の腹部を解体したり、節足を切断して刺を調べていた。

「でかいね。兵隊蟻かしらん?」少女が首を傾げて、背の高い娘が否定する。

「少し大きめの働き蟻だね……胃の内容物を調べる。蟻酸に気を付けて」

「……働き蟻にしては大きくない?」少女の疑問に、背の高い娘は外骨格を指さした。

「兵隊蟻はもっと刺が多い……が、形状は兎も角、大きさは兵隊蟻以上と言ってもおかしくないな、ふむん」

「どういうこと?」

「小さな親戚と違って、巨大蟻は一体のリソースが貴重だから、変異を起こしたのかな。可塑性が……」背の高い娘はブツブツと呟いている。トリスは震える手足でなんとか梯子を下りた。「あ……わ、わたし……」極度の緊張とそこからの解放感に頭がクラクラしていたが、安心感にふっと気が抜けて、足から崩れそうになった。

 長身の娘さんがふっと笑うと「ほら、気つけ」小瓶を寄越してくれたので、トリスは礼を言いながら、カラカラの喉に流し込みんだ。カッと胃が燃え上がり、がつん、と目の前に火花が散った。「……はりゃ」意識が暗転する。



 ※※


 目覚めた時、トリスは薄暗い部屋の片隅に転がっていた。死にそうなほどに頭が痛んだ。猛烈に気分が良くない。頭の中で不協和音がオーケストラをしている。かと言って、目を閉じても、不快な脈動が鈍痛で自己主張してくる。冷汗が額に滲み、風に触れるだけで身体が震えた。


(ここは……いや、それよりも、今、何時だ?)兎に角、時間が気になった。こみ上げてくる吐き気に苦しみながらも、浅い呼吸を繰り返すと、空気に濡れた土の匂いが混ざっている。トリスから血の気が引いた。それは日没を知らせる匂いだ。鳥肌を立てながら、トリスは唸った。日没後の廃墟は、変異した野生動物やゾンビが彷徨う人外の危険地帯。今すぐに安全なねぐらを探さなくては。声にならない声を洩らしながら身じろぎしたトリスは、そこで薄いマットレスに横向きで寝ていたことに気づいた。


 室内には、幾人もの見知らぬ大人たちが寝転がっていた。或いは、奴隷商人の手に堕ちて、閉じ込められたのか。毒を飲まされた?最悪の想像に脅えて縮こまったトリスだが、片隅に小さくなって五分、十分が経過するうち、人攫いに浚われたにしては目の前の人々の様子がおかしい事に気が付いた。誰もが荷物を持っているし、輪になって談笑したり、のんびりと食事を取っている一団もいる。なにより出入り口と思しき扉から、自在に出入りしているのに気が付いて、戸惑いながらトリスは観察を続けた。


 雰囲気からして、もしかして木賃宿だろうか。廃墟にも幾つかあるが入ったのは初めてだった。人攫いの商品になるよりはましだけど、それはそれでトリスは胃の縮こまる想いを味わった。金もないのに宿や店に浮浪児が忍び込んだりすれば、叩きだされるだけで済めば御の字だ。治安が最悪の地域では、スープの具にされると囁かれている。

 出入り口に陣取った太った親父がギロリと睨みつけてきて、トリスの喉から小さく悲鳴が洩れた。

「お、お金は……」喉がカラカラに乾いて呟くトリスに、親父が机の下から何かを取り出した。

「お前が目覚めたら、渡すよう頼まれた」トリスの袋を押し付けられた。全財産が入った袋だ。

「宿代は、もう貰ってる」それだけぶっきら棒に告げると、もうトリスに一瞥もくれなかった。人形が無いことに気づいたが、恐ろしくて聞く気になれなかった。


 外に出てみれば、すでに夕刻。空は深い紫色に染まりつつあった。太陽が地平線の向こうに沈み、残された空は闇の帳に覆われている。黄昏の時間帯に居留地も静まり返って、人々は闇に対する恐れを抱きながらも、穏やかな夕食後の時間を楽しむ。

 辺りに視線を走らせて、すぐに街路の一部を木柵と高い木壁が塞いでいる事に気づかされた。無法の廃墟と下層地区を遮る頑丈な境界線。廃ビルの付近であれば、それも不思議ではないが、それ以外にもすぐに違和感に気づいて「ここ、何処?」とトリスは呟いた。


 日没間際にも関わらず、破れた服をまとい、青白い肌を持つゾンビの呻きや重々しい足音も聞こえてこないし、野犬や変異獣の咆哮も聞こえてこない。なにより、路傍をのんびりと住人が歩いている。廃墟であれば、怪物や人攫いを恐れて誰もが塒に閉じこもっている時間帯の筈。

「居留地……なのかな」戸惑いながら、トリスは周囲を不安そうに見回した。夕暮れの陰が廃墟を覆いつくし、風に揺れる草木が静かなざわめきを生んでいた。砕けたコンクリートと錆びた金属が無残な建造物の断片として残っている。一見して廃墟とさして変わらぬように見える町並みだが、それでも人々の纏っている空気がまるで違った。恐怖や不安と言った負の匂いが、錯覚ではなく感じられない。


 食料や安全を求めて居留地に入ることを求める廃墟民は絶えないが、下層地区とは言え、当然、入り口は厳重に見張られている。マスケット銃やクロスボウを所有し、手斧や大ぶりのナイフで武装した自警団は、怪物やならず者を警戒しつつも、廃墟の連中が居住区に入るのも当然に好んでいない。大人数で出入りしようとしても歓迎されないし、単独、或いは少人数で上手くやっている廃墟生活者もいるようだが、数はそれほど多くはない。

 体力は渡り人(オーキー)や自由労働者には劣っているので、出来る仕事は限られているし、売れそうな代物も大方は漁り尽くされている。廃墟の主食となってる巨大鼠や茸なんかは下層居住区でも当然、養殖しているし、労働者たちはもっと上等な豚肉や鶏肉、大麦粥やライ麦パンの方を好んでいた。曠野で採れる野生の玉ねぎや根菜、野鼠や栗鼠だって、それほど採れはしない。そしてなにより居住区の暮らしには食べ物や寝泊まりにも万事、金が掛かった。そう言う意味で下層居住区とは縁がなかったトリスは、今まで壁を越えたことはなかった。


 廃墟の夜は怪物の世界だ。襲われないよう隠れ家に閉じ籠るのが当たり前だ。しかし、居住区の住人たちは、なにも恐れている様子がない。驚くことに、道路の真ん中で火を焚きながら、ギターをかき鳴らして歌っている者たちがいた。路地にハンモックを吊るして、眠っている者たちもいる。何もかもが廃墟とは違い過ぎて、色々と驚きすぎて、トリスは入り口の階段横に座り込んだ。


 あの二人組が連れてきてくれたのだろうか。隠れていた幼女はどうなったのだろう。気になることは多々あったが、手元には僅かな財産の入った袋が残っていた。もやもやとしながら、トリスは手にした布を引っ張り、汚れた服のしわを伸ばそうと試みた。トリス自身は自分がどうしてここにいるのかさえよく理解できなかったが、何故か服装を少しでも立派に取り繕いたい衝動に襲われたのだ。


 急に光が差した。飛び上がったトリスを見て、ランプを軒先に付けていた宿の親父が水の入ったコップを差し出した。

「酷い顔色だ。飲め」

 トリスは金を持ってない。脅えて首を振るトリスを眺めて「安心しろ。この一杯は奢りだ」親父がジョッキを押し付けてきた。

 濁りのない、透明な水だった。呆然と受け取って、恐る恐ると口を付けた。水は温いが清潔で大ぶりのジョッキ一杯に入っており、喉を嚥下するたびにトリスは生き返るような気持ちになった。気が付けば、半リットルの水は身体に吸い込まれるように消えていた。「気付け薬と餓鬼にウィスキーを飲ませる馬鹿がいるものか。脳みそまで筋肉……」何やらブツブツと呟きながら、ジョッキを回収してる親父に、慌てて「あ、ありがとう」と小さな声でトリスは礼を言った。

 親父が鼻を鳴らして「此処では、人と話す時はもう少し声を出せ。夜だからって声を潜める必要はない」と机で新聞を広げた。


 トリスは木賃宿入り口の階段に座り込んだまま、地平に沈む夕日を眺めた。夕暮れ時、隠れ場所を探すでもなく、穏やかに過ごすなど人生で初めてかも知れない。


 ……命を拾った。助けてくれた二人組に、ろくに礼も言ってない。トリスは、廃墟民としては義理堅い方だと自分で思ってる。態々、助けてくれたのだから礼をしないと。考えてから、相手の名前も知らない事に気づいて、苦笑を浮かべる。


 遥かな地平でゆっくりと陽が沈もうとしていた。なのに誰も怯えた表情をしていない。


 ……星が綺麗だ。

 記憶にない程、久しぶりに空をのんびりと見上げてトリスは呟いた。



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