廃墟の子_19 逃げろや逃げろ
裏庭に三つ並んだ小さな墓に少女が別れを告げ終わった。
「行ってきます」言って立ち上がった少女の傍らで、お姉さんは墓に向かって黙礼する。
それから第二の自宅へと立ち寄り、二人は幾らかの食料と持ち運びできる工具を回収した。お姉さん曰く、外の世界でも金属製品は貴重品で何かと使い出はあるし、いざという時に換金も出来る。金づちにドライバー、定規と何本かの釘が入った小さな工具箱。そして、ナイフが三本。他に登山用のロープ、マッチにライター。二人とも吸わないが、廃墟漁りの死体から回収しておいた煙草のパックなどは、途中の街道筋で物々交換に使えるだろう。
そうして、すぐにでも旅に出れる荷物を背負ってから、二人は歩き出した。
水や食料にまだ幾分かの余剰はあったが、荷物が多すぎれば足も鈍ると考えて置いていくことにした。或いは、深く潜った廃墟漁りなり密猟者なりが、少女の自宅や隠れ家を見つけて、再利用するかもしれないし、或いは、誰も知らずに朽ち果てていくかも知れない。
このまま侵入者たちの正体を確かめに南西へと歩を進める。仲間であれば合流し、廃墟漁りや放浪者であったならば、そのまま【住宅街】を離脱するのだ。
二人は幾つかの商店街や住宅地を速やかに通り抜け、怪物を隠れてやり過ごしながら、順調に【住宅街】の出口へと近づいた。ゾンビや変異獣が徘徊している事もあり、曲がり角や建物の入り口では静止して一々、様子を伺うが、幸いにも気づかれて襲われることは殆んどなかった。道順としては、まず銃撃戦のあった場所へと立ち寄り、そこから給水塔を経由して町の西口から曠野へと出る予定となっている。
途中の商店街のおもちゃ屋跡では、少女が立ち止まって店頭のショーウィンドウに陳列されている熊の縫いぐるみたちをじっと見つめた。
店舗の奥から、不気味な唸り声が響いてくるにも関わらず、少女は動かない。連れの只ならぬ気配にお姉さんは戸惑ったものの、少女が立ち止まっていたのは十数秒ほどで、何も言わずにふたたび音もなく歩き出した。
ショーウィンドウと少女を一度だけ見比べたお姉さんは、飾られている縫いぐるみが少女が大事に持ち運んでいるのと同じ型であることに気づいた。
少女がお姉ちゃんと呼ぶ縫いぐるみには少しだけ血の跡が滲んでいた気がする。或いは、此処でなにかしらの悲劇が起きたのかも知れないけれど、少女が語らない以上、お姉さんも想像を逞しくする心算はなかった。
道中、小まめにシェルターで休息を取りながら、消耗した神経と集中力を回復させる。水分を補給し、消化に体力を使わない程度の軽食を取り、怪物との遭遇や感じた気配でささくれ立った気持ちを落ち着ける。
迂遠に思えるかもしれないが、例えば、俊足の変異獣五、六匹からなる群れなどと間近で遭遇してしまえば、一貫の終わりなのだ。貧弱な装備の二人組など、不意を打たれたら文字通りに成す術がない。
加えて変異獣の行動範囲などはかなり広く、見晴らしのいい所で様子を窺いながら、気配を避けて少しずつ進んでいくしかない。
先を考えて、お姉さんは少女に曠野の地図を見せた。荒野に出る前に、井戸の位置や各居留地での注意すべき事項など説明して頭に叩き込んでもらう。お姉さんにとって命綱の地図ではあるが、しかし、旅の途中で自分に何かあって少女が一人になった時、生き残れないようでは困るのだ。
水と食料は充分にあり、体力も回復していた。換金できそうな幾つかの品などもある。多分、恐らく、九割がた無事に自由市へと帰りつけると見込んでいるけれど、十に一つはどちらかが死ぬ程度の恐れはあった。
旅の道先案内人が迂闊に知識を教えれば、同行者に用無しとして始末されたり、裏切られるなんて話も、時々、商人同士の集まりで耳にするけれども、お姉さんはもうそこに関して思い煩う事はない。
信じると決めたからには少女を信じるのだ。仮に裏切られても怨みはしない。自分に見る目がなかっただけだ。今この状況で少女が裏切るとは思っていない。とは言え、もし裏切られたら、お姉さんは心という器が木っ端微塵になりかねないくらい深刻な人間不信となるかも知れない。
兎も角、道行きは順調だった。通り過ぎていく商店街には様々な店舗が見受けられた。美容室に本屋、レコード店、喫茶店、食堂、靴屋、法律事務所に歯医者なども並んでいる。
【住宅街】は文字通り、大崩壊前に栄えた地方都市の小さなベッドタウンだと聞いている。不動産業者が開発した新興住宅地の、おまけ程度であったはずの商店街が、今現在で目にすることのできるいかな大規模居留地の定期市より遥かに品揃えがよかった。これほどに繫栄した時代は二度と訪れないだろうな、ともすれば寂寥の感に襲われつつも、お姉さんは値踏みを忘れない。
勿論、漁れる余裕などはないが、往時の繁栄ぶりを偲ぶだけでも充分に楽しめる。
残念ながら宝飾店だけは見当たらない。工具店と並んで廃墟漁りや密猟者たちが真っ先に狙う標的であるから、あったとしても見逃されはしなかったに違いない。
殆んど人が踏み込んだ様子もない商店街の一角、服飾店を見つけると、今度はお姉さんが立ち止まった。
ディスプレイに飾られているのは見た目、劣化した様子もなく、虫食いもない薄青のブラウスにピンクのリボンタイ。
(……似合いそう)
戸惑いながら足を止めた少女の纏っているボロ布と、店内のマネキンがつけている活動的な少女服を見比べてると、意図を察したのか少女が眉をしかめてチベットスナギツネのような顔となった。
「え?まさか、お店に入りたいの?」
一部技術や生産性が手工業まで衰退している世の中ゆえ、襤褸布を着込んでいる風体もさして珍しくはないが、お姉さんは言い張った。
「マニッシュで似合うと思うんだけど……」
「パッと見、大丈夫そうだけど……お店の奥や物陰に怪物が潜んでいるかも知れないよぅ」と少女は気が進まない様子。
ガラス越しに服飾店をじっと観察する二人だが見た目、気配は感じられない。
「静かな分だけ恐い。ちょっと騒いだら次の瞬間、通りの彼方此方から湧きだしてくるなんて事もある」そう少女が忠告する。
怪物の気配が薄い通りを選んで進んでいるが、必ずしもいないとは限らないし、逃げ場があるとも限らない。
一家言ある制止にお姉さんもあっさり諦めようとした時、少女がため息交じりに告げた。
「だから深入りしないで。取るなら手前の一着か二着だけ。すぐに出てきてね」
殺風景なコンクリートの部屋には、血の匂いが立ち込めていた。
うたた寝しかけていたジルは、ハッと目を覚ました。
誰かが苦痛に呻き声を上げている。
「黙ってろ。糞野郎」遠慮会釈ない罵声を太鼓腹トニーが飛ばした。
すると呻いたのはレギンか。傷が化膿しているようだ。
レギンは駄目かも知れない。かなりの熱を持っている。
「俺は、ついてるんだ。こんなところじゃ……くたばらない」
無精髭に削げた頬のやつれた風情でありながら、レギンの落ち窪んだ小さな眼だけがぎらぎらと貪欲な光を放っていた。
「そうかよ」トニーは鼻で笑った。
ジルは無言で再び蹲った。少しだけでも体力を回復させておきたい。なにしろ四方からゾンビの唸り声の響いてくる。
近くで気配がする度に目を覚ますために、殆んど眠れていない。
ジルの頬もじくじくと痛みを発している。ゾンビの爪に抉られた。それでも幸い、噛まれてはいない。感染してなければいいのだが、と傷に触れて痛みを呼び起こしながら、なんとなく笑った。しかし、なった時はなった時だ。惜しむ程の人生でも無し。どちらにしろ、永遠に生きる奴はいない。
三人は各々、部屋の隅に距離を取って座っていた。誰かがゾンビに変異しても、相手の頭をぶち抜くだけの時間があると言う訳だ。
一行三人は、神経と体力を鑢を掛けられたように削られながらも、辛うじて黒い波のようなゾンビの群れを振り切り、廃墟の片隅にある小さなビル屋上へと逃げ込んだ。
一面の街路を埋め尽くしたゾンビの群れは夜の間、一帯の街路をうろついており、一晩中響いてくる無数の建物と呻き声、そしてドアを叩き続ける音に誰もが発狂寸前になるほど追い詰められていたが、ゾンビどもは夜明けと共に扉の破れた建物の内部や建物と建物の細い路地などに吸い込まれていった。
疲れることなき死者たちの怪力に建物入り口の鉄製扉さえ破られ、二階非常口までも破壊されていたが、廊下をうろつくゾンビの姿は少なく、辛うじて建物の外へと逃げ出すことが出来た。防火扉そのものは破られないでも、叩きつけられる死者たちの怪力に劣化したコンクリートと蝶番の接合部が持たなかったのだ。
吐き気を覚える程の緊張と恐怖の一夜を越え、さらにゾンビの追撃を振り切り、幾度となく隠れる場所を転々として、今いる場所がどこかは朧げになってきていた。負け犬のように怯えながら休憩を取っていたが、ジルは衝動的な笑いの発作に襲われた。
事ここに至っては撤退するしかない。撤退できれば、の話だが。
わずかな戦利品も投げ捨て、弾薬も浪費し、挙句の果てに負傷して逃げかえる。
それは構わない。生きて還れるだけで御の字だろう。だが、鼠を投げつけてきた糞野郎。鼠の血と臓物の匂いでゾンビを招き寄せた何者かにだけは礼をしなければ、ジルの気が済まない。そんな会話をトニーと交わすことで、辛うじて気力を保っていた。
トニーの顔に巻き付けた包帯には血が滲んでいる。腕にも深い傷を負っているようで、今も血の筋が腕を伝っていた。
(トニーは嚙まれたかもしれないな)ジルは薄々、感じ取っていた。
如才ない肥満体の男を少し好きになりかけていただけに残念だったが、ゾンビや変異獣の狩りでは、よくある事だった。
「当たりだ。来やがった」そのトニーが低く抑えた声で呻いていた。声には、隠しきれない喜悦の色が滲んでいる。
街路には、幾つもゾンビの死骸(奇妙な言い方だ!ゾンビはすでに死んでいるのに)……が転がっているが、一面の惨状を窺うように斜め向かいのマンション三階の窓の奥で灰色フードが動いていた。
「その辺りに来ると思ったぜ。ストリートの様子を覗き見るのにちょうどいい辺りだからな」
汚い襤褸を着込み、フードを被った人影が、ひょこひょこと動きながら街路を覗き込んでいる。
「外すなよぅ、ジル。目にもの見せてやれ」
無論、言われるまでもない。ジルたちを罠に掛け、地獄のような惨憺を味わわせてくれた糞野郎には命で償わせてやるつもりだった。
「あーあ」と檄を飛ばす太鼓腹のトニーに答えながら、唇を舐めたジルは寝そべって狙いを定めた。態勢を安定させるために足を広げる。
目測で、おおよそ42メートル。反動が大きく、精度もいいとは言えない手製の鉄パイプライフルだが、ジルも狙撃にはそれなりの自信を持っている。
(……くたばれぇ)声には出さずに呟きながら、ジルは力まずゆっくりと引き金を引き絞った。
軽い銃声が響き渡った。発射された32口径弾は、フードのど真ん中に吸い込まれるようにして、覗き見野郎の顔面を破壊した。
「やったぜ!糞野郎が!」
快哉を叫んだトニーの傍で、ジルは音高く舌打ちした。
「外れだ。あれはマネキンだ」
直後、背の高いジャケットの女と可愛らしい半ズボンの少女が斜め向かいの建物から飛び出し、屋上伝いに逃げていくのが目に映った。
呻いていたレギンが立ち上がり、目を瞠った。
「そうか……お前だったのか。俺はやっぱりついている」
いまだ街路を彷徨っていた僅かなゾンビたちが、銃声に戸惑うように右往左往するが、ほんの2、3体は音を正確にとらえたのだろう。ジルたちのいるビルへと向かって、よろめきながら歩き出した。奴らが押し寄せてくる前に、すぐに居場所を動かなければならない。足早に歩きだしたジルと太鼓腹トニーにレギンが声をかけた。
「おい!あいつらを仕留めたら約束の三倍、いや五倍をくれてやるぜ」
口元に嘲笑を張り付けたレギンが、屋上を逃げていく二人組を熱の籠った視線で凝視しながら、もう一度、低く哄笑をもらした。
念の為、というお姉さんのアイディアで、部屋の奥で動かしてみたマネキンが、一撃で粉砕された。
「ヤバイ……めっちゃヤバい!」
涙目で蹲った少女を叱咤して立ち上がらせると、手を取ったお姉さんは部屋から飛び出した。
なにしろ人間の殺意に当てられたのは、生れて初めてだった。
怪しい奴、と牽制でちょっと銃撃された経験はあったけれども、狙撃の標的として命を的にされるのは衝撃だったようだ。
ちょっとすすり泣きながら走っている少女の後ろで、お姉さんも嘆くように愚痴っている。
「危ない奴ら……誰何くらいはしてくるかと、っと?!」
屋上から屋上へ。二人は怪物のいない経路を進んで離脱しようと試みたが、しかし、眼前で渡り橋の木板へと着弾して大きく亀裂が走った。
(渡るのは無理か!割れるかも!)
少女を引っ張りながら、お姉さんは横合いの階段へと飛び込んだ。
そこで息を整えながら、手鏡で様子を伺った。
「まったく……いい腕してる。風が吹いて、走ってるのに近くに当ててきた」
運動以外の理由で噴き出した汗を拭いながら、お姉さんが呻いていた。
ビルの踊り場で二人は足を止めた。素早く離脱するべきだと分かっているが、怪物が巣食っているかも知れない建物に迂闊に踏み込むのも躊躇われる。
「……さて、どうする?射線が通ってるから、屋上を進むのはまずい」
焦りながらも考えるお姉さんの傍らで、窓から街路を覗き込んだ少女が顔色を悪くする。
「派手に撃ってるから、ゾンビも出てきてる。このままだと街路もいけないよぅ」
巨大鼠なども怯えたように道の端を駆け抜けていくが、なんといっても危険なのは死者の群れだった。
廃墟で怪物が多い場所をすり抜けるには、音もなく歩くか、怪物に気取られても一気に走り抜けるか。そのどちらかだが、のんびり歩いていては狙撃されてしまう。
「怪物の少ない……庭や建物の中を抜けられる?」
お姉さんの提案に、脳裏で【住宅街】の地図を展開していた少女が頷いた。
「銃撃を受けながらだと、かなり引き付けるけど……
普段と違うルートを行って……いけると思う。多分」
巨大蟻や巨大鼠ごときの縄張りは、走って振り切る必要があり、その心算であったが、巨大蟻や巨大鼠にしてからが3匹4匹と集えば、お姉さんの手に負えない程度には危険な存在だった。
自信なさげにいう少女に厳しい局面なんだな、と悟ったお姉さんはほろ苦く笑って、背嚢を床におろした。
「連中が走って迫ってくる音が聞こえる。どんどん間合いを詰めてくる」
耳をそばだてた少女が、震える声で告げる。
「まだ追ってくるの?なぜ?大した持ち物なんて奪えないのにッ」
毒づきつつも、お姉さんは背嚢からマシンガンを取り出した。鉄パイプに荒削りの木工ストックを針金で結んだマシンガンは、精度が低くて至近でも弾の散るガラクタだが一発ずつ絞って撃てば、牽制くらいには使えるだろう。
まったく酷いことになった、思いながら、弾数を確かめる。弾薬数は十八発。錆びの浮いた薬莢であり、不発が混ざっていてもおかしくない。四人組と戦うにはひどく心もとないが、容易くやられるつもりはなかった。
精々、自信ありげに見えるよう少女に笑いかけると、マガジンを装着し、コッキングレバーを引いて薬室に装弾する。
「……牽制してみる。こちらも音を立てて大丈夫?」
「一気に走り抜けるしかないと思う。撃つなら走り続けることに」
結論した二人は、足早に階段を降りていく。建物内部に巨大鼠やら野犬、或いは変異獣などの怪物が巣食っている事例は多く、普段なら様子を窺いながら慎重に進むべきだったが現状、足を止めるのも危険だった。
不意を打たれたら成す術もない状況に、腹痛を覚える程の緊張をしながらビルの裏手の細い路地へと出てみれば、ゾンビたちが彷徨い歩いているもののその数は少なく比較的、容易に傍らを通り抜けられそうだった。今なら、まだ。
追われる状況では、事前の偵察も不十分なままに経路を進むことになる。加えて、怪物が多い領域にも足を踏み入れる必要があるだろう。常に運動し続けない限りは、発砲音に引き寄せられたゾンビや変異獣に四方から包囲された挙句に餌食になると、幾人もの廃墟漁りたちの末路を見てきた少女はよく知っている。
側溝から這い出てきたゾンビを小走りに避けながら、少女が肩を呟いた。
「参ったなぁ。なんか悪い事したかな」
そうぼやいた声は恐怖の為か、僅かに震えていた。バットを振り回して少女の背中を守りながら、お姉さんは気楽な口調で断言してみた。
「いい子だと知ってる。大丈夫、一緒に外に行こう。きっと楽しい」




