廃虚の子_14 恐怖の匂い
窓から陽光が差し込んできた。ロッカーの隙間から見えるリノリウムの床が白んでいるのに気づいて、少なくとも夜を越せたと少女は安堵する。
狭いところで寝た為か。少しだけ体が痛んだ。或いは、寝床が硬かったからか。
伸びをすると、少女の関節がぽきぽきと音を立てて鳴った。
血行が悪くなってるかも知れない。手の先と足の先を音を立てないように意識しながら、ゆっくりと廻してみる。また小さく関節が鳴った。感覚が鋭さを取り戻すまで、寝起きから三十分ほどは寝床でうとうとし続ける。
思考がはっきりとしてきたので、再び、ゆっくりと動き出す。できるだけ音を立てずに柔軟体操を行った。
寝床代わりの薄いシーツを背嚢にしまい込みながら、頭の中で行動計画を立てた。
トイレは部屋の隅にするか?いや、匂いが付くとシェルターが使いにくくなる。
尿意の強さを確かめてから、携帯式トイレ、と描いたペットボトルを取り出した。
(行動開始、と)
トイレを済ませてから背嚢を背負い、扉をそっと開けると手鏡で廊下を確認。敵影も異常も感じられないので、足音をできるだけ殺しながら階段へと向かった。
階段もクリア。それから下の階覗き込んで、ヒュッと小さく息を呑みこんだ。
音もなくゾンビが立ち尽くしていた。一瞬だけ頭が真っ白になったが、一秒足らずで再稼働する。危険すれすれだが、まだ危険には至ってない。この程度の危地であれば、何度となく味わっている。鏡を動かして確認。最低でも五体。
(嘘……ヤバ……大丈夫、落ち着いて、ゆっくりと後退)
例え一体でも、ロメロの映画のように戦う気にはなれない。他所はいざ知らず【住宅街】のゾンビは早足で動くし、集団になれば建物の壁や鉄の扉も粉砕して、逃げた獲物を追い詰めてくる。
見える範囲だけで五体なので、影にはもっといるかもしれない。いつの間に、どうやって、どうして入ってきたのだろう?
二階の廊下には、本当にいなかったか?簡易で調べただけだ。気づかなかっただけで何処かの部屋に入り込んでいるかもしれない。扉の開いてるオフィスも他にあるのだから、少女の背後に潜んでないとも言い切れない。
心臓が音を立てて大きく脈打っていた。耳の奥で血流が囂々と鳴っている。
体の震えを抑え込み、鏡をポケットに入れて、ゆっくりと後退。更衣室へと戻って扉を閉めた。
(ここは、もう使えないな)
少女はノートを取り出すと、簡易地図に記されたシェルターにバツ印を書き込んだ。窓からビルの谷間を覗き込み、まずは安全を確認。荷物が大した重量ではないと確かめてから、シーツロープを掴んで窓から脱出する。
脱出地点は、視界を遮るものがない場所をきちんと選んである。他所から視認されやすいが、即死は避けられる。出っ張った軒先の下など、何がいるかわからない場所の近くに着地することは可能な限りは避ける。着地は、もっとも無防備となる瞬間だった。
体を動かすと、彼方此方の関節と筋肉が軋んでいる。
(痛いな。もう。寝違えたかな。今日は、自宅に帰ったら休もう)
着地して、ロープはそのままに残し、そっと足早に、足音を殺し、その場から離脱した。周囲に視線を配りながら、大通りを横断する。開けた場所では、いつも肝が縮む想いを味わう。狭い路地や建物の入り口から突然、飛び出してくる怪物に襲われるリスクを冒しても、隠れながら進んでいく。ゾンビが確実に屯っていたオフィスビルとは状況が違う。怪物の少ない西区域に近づいてきた。目撃される確率が小さい方が多分、生存率は高いのではないか。正解は分からない。どちらの道を選ぼうが、廃墟では常に危険が付きまとう。
結局、自宅に帰還するまでは、本当に心身が休まることはなかった。
帰宅した少女は、最低限の戸締りを確認すると倒れこむように寝床に飛び込んだ。時々、建物が軋む音や彼方からの呻き声、遠吠えにびくびくと体を震わせて目覚めながらも、それなりに疲労も取れた。起き上がって、冷えた焼きジャガイモで食事を取ると、槍の修繕に取り掛かる。民家で見つけておいた手頃なモップの先端を切断すると、刃物で形を整えて具合のいい長さへと調節し、ナイフをダクトテープと接着剤で固定する。
斧やのこぎりと言った工作用具があれば色々と捗るのだが、あいにくとそうした道具は貴重品で、廃墟では滅多に見つからない。正確には在るところには在るのだが、安全な西区域では、工具や機械、電子部品などは廃墟漁りや密猟者があらかた持ち帰っているし、危険な区画にある品は手が出せない。
南区域には、ショッピングモールや商店街が点在しているが、ショッピングモールは文字通りに数千からのゾンビに囲まれているし、商店街も漆黒の大型変異獣が群れで徘徊しているので、迂闊に踏み込んでは命が幾つあっても足りなかった。
マシンガンや散弾銃で武装した十人からの熟練探索者すらも逃げかえるしかない魔境が、南区域にほぼ手つかずに広がっている。戦う術などほとんど持たない只の小娘では、手も足も出ない。
「何時か、どこか安全な居留地で暮らしたいなぁ。暮らすんだよ(裏声)。遊園地のある大きな居留地がいいなぁ」
手槍を直し、しかし、これで何とか対処できるのも小動物程度に過ぎないという現実に挫けそうになった。なんか辛くなってきたので、幸せな絵空事を口にすることで脳みそをいい感じにとろけさせ、辛い現実をやり過ごす。ボッチ特有の得意技を少女も身に着けていた。
現実的には引っ越すのも難しい上、安全な居留地などは存在すらも疑わしい。
風体や持ち物から、つい先日まで農民なり居留地に暮らしてたと思しき一団。老若男女の構成からして一家と思える小集団が、当てもなく曠野を彷徨っている姿を建物の屋上から年に二、三の頻度で目にしていた。
彼らの旅装は旅人や放浪者、遊牧民のようには整ってはいない。多くは着の身着のままに西の街道を移動している姿を目撃しただけだが、見逃したり行き倒れた者たちも含めれば、視界の範囲内だけでも実際には遥かに多い筈だった。
略奪者や怪物によって居留地が壊滅したのか。水や物資不足で居留地を放棄したのか。ただ単に食い詰めてより良い暮らしを求めて故郷を離れたのか。
兎に角、よその居留地も天国からは程遠いようだし、地理を知らない曠野を彷徨い歩いて偶々、集落を見つけたら転がり込むなんて運試しをする気にはなれない。
引っ越しは不可能ではないにしろ、困難には違いない。それに少女は、地理も知らない。同行者もおらず、武装もしてない子供が街道沿いに移動するなど、襲ってくれと言わんばかりである。旅人やら行商人が略奪者や変異獣、野生動物に襲われる姿も目にするし、【住宅街】に寄って来た難民たちが、廃墟と知って絶望したような表情で離れていくことも儘あった。
しかし、果たして、何時まで【住宅街】で生き続けることが出来るだろう。少女は考え込んだ。
ずっと以前に、重武装の廃墟探索者グループが激しい銃撃戦を繰り広げて、ゾンビが大量に西区域に流れ込んできた事があった。水汲みも儘ならぬほど追い詰められた時期には最悪、奴隷でもいいか、と思いつめた事さえある。通りかかった奴隷商人に自分を売り込むか、と焦燥に駆られもしたが、夢も希望もなさそうな商品たちの濁った眼を見れば、さすがに躊躇を覚えた。
ろくに水汲みも儘ならぬ逼塞した数か月の生活は、しかし、家の周囲に複数の抜け道を構築する工夫でなんとか凌ぎ切った。ゾンビの群れは、半年足らずで波を引くように元の場所へと移動していったが、廃墟の暮らしの不安定さが変わる訳でもない。
廃墟漁りの親方や隊商の商人が下働きの子供や奴隷を鞭打つ光景も、幾度か目にしてきた。一見、善良そうな行商人たちが言葉巧みに旅人を誘っては、殺して荷物を奪う光景も目撃している。
頼める相手がいるとしたら、やはりオーの隊商だった。老人が他人を殴りつけたのを見たのは、ふざけて廃墟に近づいた小僧に対してただの一度。その後は延々と説教をしていたが、理不尽に暴力をふるう姿は見たことがなかった。
同行を願い出た旅人が、しばらく後にも街道を歩いていたのも見かけている。
だけど、失敗した。公正な人間だと察しつつ、尻込みした。いずれ、歳を重ねたら。もう少し様子を窺ったら。そのうち好機が来たら。そうやって自分に言い訳して先送りしているうちにオーの隊商は壊滅した。
少女は慎重な性格で、様子を見るのが習い性となっていた。用心深くなければ廃墟で生き抜いてはこれなかったが、同時に臆病によって好機を掴みそこなった。
オーの部下であったお姉さんを助けたのは、間抜けを晒したことへの悔恨もあったかも知れない。危険を冒して、何の見返りもなく割が合わない人助けを行った。勿論、お姉さんは善良で好感の持てる人間であったし、そこに後悔はない。たとえ明日、何処かで怪物に襲われて死んだとしても、人生で一度は善い行いをしたことになる。それなら、少なくとも悪くない報酬だと少女は自らを慰めた。
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太陽の光が目に入った。岩陰で微睡んでいたお姉さんは、抱き枕を求めて無意識に隣に手を伸ばしたが、そこに誰もいなかった。一瞬戸惑いを覚え、不満げに唸りを上げてから、そう言えば【住宅街】を脱出したのだったと思いだして体を起こす。
乾燥した曠野にぽつぽつと僅かな草むらが生い茂っていた。
コヨーテや変異獣などが棲息する荒涼とした大地だが、数千の怪物が蠢く巨大遺構に比較すれば、天国にも感じられた。なにしろ、野外で火を焚いて夜を過ごしても平気なのだ。同じことを廃墟で行えば、一時間で骨になっている。
【住宅街】は聞きしに優る恐ろしい場所だった。通りを見通すだけで五、六体と動く屍が視界に入ってくる遺跡など、そうは聞かない。まして地方都市とはいかないにしても、かつて栄えた大規模な町なのだから、敷地の広さと潜んでる怪物の数ときたら想像もつかない程だ。同時に工作機械や物資などいまだ手つかずに眠っている富の大きさも、廃墟漁りたちが際限なく吸い込まれるだけの埋蔵量があるのは確かだった。ただ、お姉さん自身は、危険と引き換えにするほどに、住宅街の財宝に魅力を感じた訳でもない。
(命の方が大事だしね)
よく無事で帰れたと思うとともに、出会った少女に対しては、いまだ未練が残っている。
「……どうにも寂しい」
麦茶で水分補給した後、朝食の缶詰を選びながら、お姉さんはつぶやいた。
(……連れてきたかった)
少女の事を思い返す。無愛想に見えて、慣れると人懐こい。夜寝るときに抱きしめて寝ると暖かくて、いい匂いがした。廃墟では感覚が鋭く、信頼できた。
何時の世も、信頼できる人間とはあまり出会えるものではない。特に危険な世の中では猶更だった。同行して欲しかった。とは言え、生活の保障なんてできない。旅の安全も保障できないとくれば、断られるのも仕方ない。お姉さんとて、自由都市に帰り着けたとして、どうなるかわからない身の上であった。
まず、積み荷を失っている。これには割符や取引相手の手形も含まれていた。割符がなければ、都市で預金を引き出せないし、手形がなければ商品の代金も受け取れない。身分証もない。もはや、信用あるオーの隊商の一員ではない為に、北の城塞都市に入れるかも分からない。
自由都市に帰りつけても、商会の居残りの者や身内たちへの説明が待っている。オー自身は闊達な人物でそこに惹かれもしたのだが、人格者の身内も必ずしも人物とは限らない。なにしろ十数名からの隊商が全滅したのだ。諸々の手続きに法執行官らの事情聴取も待っているだろう。
(……多分、突き上げられたり、締め上げられるだろうなぁ)
オーの身内のことを考えると、色々と気が重くなる。朝食の豆を平らげながら、ため息を漏らした。
とは言え、それもこれも全ては生きて帰れたらの話だ。
曠野の街道は、安全とは言い難かった。農園や小村落も点在しているとは言え、基本的には無法地帯で、盗賊や略奪者は常に旅人の悩みの種となっている。街道を行く際は、仲間と連れ立って充分に武装するのが好ましい。
現在、お姉さんは大した武装もなく単身で街道を進んでいる。
岩陰は、街道からかなり離れている。僅かに草むらや岩場、灌木が点在しているものの、見通しは悪くない。街道沿いの道標を見失うかも知れないギリギリの距離を保ちながら、北上していた。
空になった豆の缶詰を放り投げると、お姉さんは立ち上がった。製鉄量は激減している時代ではあるけど、廃車や廃墟から回収することで鉄自体は今も相当量が流通している。空き缶には多少の価値もあるが態々、拾って持ち歩くほどではない。
水や食料はたっぷりとあった。街道から距離を取りつつ、慎重に進んでいるが、これで盗賊や略奪者をやり過ごせるだろうか。野生動物や変異獣が恐いが、これはもう運次第としか言いようがない。廃墟には劣るにしても、曠野も危険な地域に違いはなかった。
(朝の涼しいうちに距離を稼ぐとしよう)
朝食を終えて、出発してから2時間か3時間。太陽がやや中天に近づいた頃、お姉さんは行く手に何かを見つけた。転がっている人間に見える。
曠野は広大だが、平坦な場所であれば展望が開けているし、都市圏と都市圏を結ぶ経路もある程度は定まっている。だから、200メートルから300メートル先に横たわっている複数の人影に気づいても特に不思議なことはない。
最初は旅人が寝ているのかと思った。じりじりと近づいて、目を凝らしてみれば誰も彼もピクリとも動かない。
(……罠かな?)
お姉さんは草むらの影に伏せたまま、十分ほど様子を見たが、人影は欠片も動いた気配を見せなかった。盗賊が旅人を罠にかけるのは珍しくないが、都市間の街道となると交通も疎らで一日、誰とも行き交うことがないのも珍しくない。街道から外れて罠というのも妙な話だ。
それでも罠を疑って迂回しようかとも考えたが、地面に転がっている木箱に気づいて気が変わった。思い切って近寄ってみると決める。
転がっているのは、三人組。歩み寄っても動きを見せなかった。
放浪者たちが好んでいる、簡素だが頑丈な布地の服を着こんでいる。
まずは地面に落ちている粗末な機関銃を手に取った。銃は苦手だが、一応の使い方くらいは知っている。マガジンを抜いてみると、錆びの浮いた銃弾が詰まっている。鉄パイプを中心に組み立てた、反動が強すぎて連発すると碌に当たらないので有名な放浪者共のお手製マシンガン。
拾った機関銃を構えながら近寄ると、倒れた人影には幾つもの銃創が刻まれていた。脈を確かめるまでもなく死んでいる。
「……襲撃者の一味かな」周囲を見回しながら、お姉さんは低く呟いた。
「銃で撃たれて死んでる。賊に襲われたか?」
死体の数は三つ。地面に薬莢が落ちている。死んでいる放浪者の三人は、敵に対して発砲しているが、相手の死体は転がっていない。一方的な戦闘だったのか。にしては、荷物を回収してないのが奇妙だった。
「だけど、積み荷がそのまま転がっている」
見覚えのある木箱は、隊商の積み荷だった。箱にはオーの商会の刻印が押されている。
「……仲間割れでも起こしたのかな?」と疑問を口にする。
放浪者たちの懐を調べてみれば、商業ギルド紙幣に幾らかの軍閥の銀貨。弾薬やタバコの箱、大きな居留地の水兌換紙幣などを所持していた。正直、大した金額ではないが、遠慮なく貰うことにする。
ついで木箱を開ける。沢山の食料が詰まっていた。包装されたパンにチーズ。缶詰。オリーブオイル。ラム酒などがぎっちりと詰まっている。
一人では到底、持ちきれない量の食料を前に、お姉さんは少し強張った笑みを浮かべた。未練はあったが、持てるものだけ貰うことにする。
「……隅の小瓶は、塩か。胡椒もある」頷いて、香辛料や調味料を背嚢へと入れる。
箱を漁って荷を背嚢に移していると、木箱の底に良いものを見つけ、手を止めた。
「石鹸とトイレットペーパー」
そういえば、少女が欲しがっていたな、と思い起こし、【住宅街】の方向へと振り返った。
「……どうしようかな」困ったようにかぶりを振った。




