表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏のガンダルヴァ  作者: 猫弾正
第3章 Z_275年 牛を買い付ける話

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

220/275

03_59J 影の都

 乾いた荒涼たる大地を、ポレシャの旅隊は黙々と進んでいた。地には僅かな草が茂っている。疎らな灌木に時たま、鳥の声や小動物の影が走るも、すぐに静寂に包まれる。野にぽつぽつと見かける古井戸も、殆んどが枯れていた。水源が衰えただけでなく、手入れする者もいなくなって埋まってしまったのだ。開拓者たちの敗北の痕跡である崩れかけた小屋。耕作を放棄された農地。朽ちた風車。夜な夜な屍者たちの暗い影が彷徨ってると囁かれ、自信過剰な廃墟漁り(スカベンジャー)たちを除いては近寄るものもいない。


 すれ違う旅人もずいぶんと減っていた。都邑ズールへと繋がる太い幹道は、離れるにつれて枝分かれし、細い道は吞まれるように曠野へと消えていた。地面には風に削られた轍の跡が辛うじて刻まれているが、狭い間道となると半ばは獣道のようで、慣れぬ旅人は不毛の大地へと迷い込みかねない。


 足もとには草も減って、砕けた石と砂礫ばかりが広がっている。照りつける陽光は容赦なく、風さえ砂を巻き上げるばかりで潤いをもたらさない。地には当てもなく彷徨い続ける旅人も少なからずいる。一度ならず、疲れた様子の旅人や渡り人(オーキー)たちが足を引きずっているのを追い抜いた。


 古い道標も風雨に擦れ、文字を読むことも難しい。頼れるのは地平線に立つ岩山の稜線と、手元の地図だけだった。道沿いの野に、偶に墓石のように石が積まれているのを見かけるが、誰かに看取られて地に眠るものはまだ幸運かも知れないとマギーは思った。野晒に転がるしゃれこうべと違い、誰かに看取られて最後を迎えたのだろうから。



 あわれ、人の世の隊商は過ぎ去りて

 このひと時を我がものとして楽しもう

 明日のなにを思い煩うのか、酒の精霊よ

 さあ、酒杯を掲げて、今宵も過ぎて行く (原典: 小川亮作訳ルバイヤート)


 遠い昔、どこかで耳にした詩の一節を口ずさみながら、マギーは牛の背に揺られていた。俗に言う婦人乗り。毛布を敷いた牛の背中に横乗りしながら、景色に見入るでもなく、見渡す限りを茫洋と眺めている。遠くの丘の輪郭、まばらの灌木、時折立ち止まる羊たちの上に素早く視線を這わせてから、マギーは再び、彼方を眺めてみる。


 巨大な毛長牛は、184cm、98キロの人物を背負いながらも、まるで疲れた様子もみせずに、人間たちの歩調に合わせ、のんびりと歩を進めていた。弦を絞りっぱなしのクロスボウは弦が伸びるし、弓も痛むけれど、それでも最初からボルトを装填済みにしてある。武器は痛むものと、マギーは割り切っている。定期的に買い替えも視野に入れ、旅の最中、常時を撃てる状態に保っている。


 掌を翳して陽光を遮りながら、太陽の傾きに目をくれたマギーは、鎖付きの懐中時計を取り出すと、時刻を確認した。もうじきに徒歩で移動し始めてから五十分が立とうとしている。小休止を取るべきだろうか。しかし、もう日没が近い。ギリギリまで足を進めて、次の宿泊地を先に延ばすべきか。


「日没まで歩いてリトバーまで足を延ばすつもりだが、メレンで宿泊するなら小休止を取る事も出来る」どちらでもいいと思ったマギーは結局、皆にはかってみた。

「3キロほど先か。リトバーだ。酒が美味い。ベッドも清潔だ」ルーク・アンダーソンが告げる。

「メレンでいい。雑魚寝で安く済ませたい」ジーナ・(クレイ)が鼻を鳴らす。

「リトバー。まともな食事をとりたい」とイザベル・ミラー。

「……メレン。疲れたし、宿も安い」狐の徒弟ロニが喘ぎながら言った。

「リトバー。ま、守りが堅い」エマ・デイヴィスが端的に告げた。

 結果、見事に割れた。少し考えて「リトバーにしよう」マギーは決める。


 呻いたロニが、牛に乗ってるマギーを羨ましそうに眺めていた。狐のグラハムは、徒弟を甘やかしていない。小柄な少女は、軽くない荷を背負っていた。とは言え、マギーの騎乗は、高い視野から警戒する為のものでもあるから、軽々しくも交替してやるつもりはない。体力では数段、優っているニナが「頑張れ♡頑張れ♡」と応援してやる。

「こいつめぇ」ロニは罵る元気もなさそうだ。

 後ろのミリーが遅れがちなのに気づいて、イザベル・ミラーが買った牛に荷を載せてもいいと提案していた。遠慮がちなミリーだが、促されて荷を差し出した。


 ロニも懇願するようにイザベルを見つめるが、老行商の狐は咳払いした。

「お師さまぁ」情けないロニの魂願に「まあ、してもらえるってんなら好きにしろ」

「ありがとう、イザベル。この恩は忘れない」荷を下ろすロニに「商人の恩ほど、当てにならんものはあるまいよ」と皮肉を放ちつつ、荷物の半分ほどを受け取ったイザベル・ミラー。牛の背に荷を載せるイザベルに「恩は返すって。ほんとだよぅ」拝まんばかりのロニの言いように、周囲で笑いの波がさざめいた。


 マギー以外に牛の背で揺られてる者がもう一人いる。『牧者ヘレン』は手錠を掛けられたままやり取りを無感動に眺めていた。囚人には発言権はない。逃げることが出来ないようにエマ・デイヴィスに警戒されている。ミリーは何かを言いたげに時折、見つめているが、ヘレンは何もかもがどうでもよいとでも言いたげに、ずっと沈黙を守っていた。


 近隣で真っ当と評判される大型居留地のいくつかが、互いを猜疑しつつもともかくも結んだ協定に拠れば、大きな旅籠や宿屋は、任務遂行中の法執行官に対して便宜を図るように義務づけられていた。つまり、囚人と法執行官にはただ飯と部屋が提供されるのだが、小さな居留地や旅籠、宿屋にとって馬鹿にならぬ負担となるから、手続きはそれなりに厳重だし、登録済みの旅籠にしか適用されず、身元確認や文書の提示も必須である。


 自由都市ズールから離れるほどに、街道沿いでも旅籠は目にしなくなる。幹道を真っすぐ北に進めば、交易の中継地として名高いツァリオなどが坐しているが、大半の脇道や間道は近くの居留地や農村が行き止まりの終点だった。そこから先にも、幾つかの集落や村落――それなりに大きな居留地も点在しているが、時に道なき道を進むことになる。そうして孤立した村や居留地には、通貨――特に紙幣を拒まれ、物々交換しか出来ない土地もある。リトバーの村は恐らく、法執行官が便宜を受けられる最後の居留地だ。ここより北は、買い物さえ覚束ない為に水や飼料も多めに牛に積むのだ。



 時々は、ズールの台地から西の無法平原へと降りる横道と街道が交差していた。滅多に遭遇するものではないが、平野部から昇ってくる者たちもいる。恐れ知らずの無宿人ノークォーターの集団、大胆な鉱夫衆に無謀な廃墟漁り(スカベンジャー)、獲物を求める狩人たちに安住の地を求める渡り人(オーキー)たち。己惚れた牧者衆の若党たち、欲の皮の張った交易商の隊商など。疾走する変異獣や野獣の群れが高地へと入り込むこともあるが双眼鏡で見る限りには、今のところは警戒すべき影も、勇気溢れた旅人の一団も見当たらなかった。


 リトバーで補給を済ませたら、そこから先は段々と危険な土地へと入り込むことになる。アルゴー郷を抜け、一応のポレシャ勢力圏に入り込むまでは気を緩めない方ががいいだろう。

 無法の地では、油断なく目と耳をよく研ぎ澄ませておかなければならない。地に残る蹄跡、焚火の煙、遠く響く叫び――全てが襲撃の兆候かも知れない。

 盗賊団の縄張りはほぼ迂回できているが、物事に絶対はない。それに馬鹿な追い剥ぎや家畜泥棒、貪欲な部族なども涎を垂らしてサドラン牛を欲するだろう。


 図体の大きな盗賊団ほどに、動向もまた掴みやすくなる。ある程度の人数なら、仲間を養うため、どうしても大きな獲物を狙って幹道に出没せざるを得ないのが道理であった。顎に人差し指を添えて、故に盗賊は避けられる、とマギーは結論した。わずかな油断が命取りになりかねない土地だが、これを油断と言うのは酷だろう。地図は万全に近く、近隣では目立った抗争や紛争もしばらくは起きてない。おのれと他に手練が二人。一応、武装した者まで含めれば、七人が戦える。これだけの手勢に武装が揃えば、大抵の事態には対処できる筈であった。マギーは楽天的な人間では無かったが、今くらいは風景を楽しんでも罰は当たるまいと、浮き立つ気持ちのままに鼻歌などを歌っていた。




 ※※※※




 族長ニウヴルキウスの住居は、小屋ほどの天幕を二つ繋げて造られており、七、八人がさほど窮屈さを感じずに過ごしながら、寛いだり、談笑できるほどの広さを持っている。男と女、そして犬一匹が共に暮らすには充分な大きさだった。


 ルキウスの傍らに白い狼犬が佇んでいる。一人と一匹の目の前では、素朴な陶器の壺が小さな金属製の炭火箱でぐつぐつと熱されていた。

 壺には芋や野菜、鶏肉が茹でられてる。


 くつくつと煮立った料理を皿の上にあけると、族長ニウヴは、ナイフを取り出して芋や人参、鶏肉を砕き始める。食べやすく砕いた食べ物を二つの皿に分けると、片方を地面へと置いて「よし」と告げる。まだ湯気を立ててる野菜と肉をガツガツと食べ始める狼犬を二、三度だけ撫でてからルキウスは立ち上がった。椅子に腰かけ、塩壺から塩を一つまみ加えてもそもそと食事を口にする。


 冷気を遮るため、天幕の布には色あせた襤褸が重ねられている。かつての放浪時代を思わせる裂け目や穴がまだ目立っているが、氏族の金回りが良くなってきた為、大きな穴には分厚い毛織布が当てられている。

 床には乾いた草が厚く詰められ、さらに絨毯が敷かれていた。踏むたびに枯れた音を立てるが、かすかに湿った土と草の匂いが混ざり合い、毛布に包まっての寝心地も悪くない。天幕の骨組みは曲がりくねった木の枝で支えられ、風の強い夜には、ところどころに巻き付けた縄が子猫の鳴き声のような軋んだ音を立てる。


 薄い天井を通して夕刻の光が差し込んできている。今、室内には五人の男女が顔を揃えていた。

 氏族の幹部コル。戦頭のジークと傭兵リディア・ソーン。そして呼んでもいないのに座り込んでいるムーテタリウスだった。蔑ろに扱える相手ではないが正直、今は相手をしている暇はない。余計な口を挟むなら決裂しても仕方ないと、あっさりと腹を決め、ルキウスは、ムーテタリウスを除いた三人の部下の顔を見回した。

「コルには既に説明したが、もう一度説明する。レニが姿を消した」白い犬を撫でながら、族長ニウヴルキウスは口を開いた。

「もしかしたら、族長を嫌ったのでは?」リディアの身も蓋もない言葉に「それならそれで構わない。だが、かどわかされたとしたら助けたい」ルキウスは告げた。


 辛うじて平静を装いながら、落ち着く為に敢えてゆっくりと幹部たちの顔を見回した。氏族の有力者ともなれば誰もが知っている。自由都市の闇は深い。曠野の盗賊共のように身代金や奴隷ビジネスとしての誘拐だけではない。

 交易都市だけあって旅行者相手の売春宿はありふれている。粗暴な傭兵や無宿人、女衒にかどわかされた女が娼館に売られるだけでなく、違法な奴隷商人によって他所の地方へ美女が出荷されるというのも何処の土地でも聞く話だった。

 遊牧民や傭兵、放浪者や無法者などが浚った女を強引に妻にするというのも、世間ではよくあることだ。それでも僻地のように邪教の人身御供であったり、大都市のような臓器の摘出などを目的とした誘拐ではあるまいと思えるのを幸いと言うべきか。


 レニが今もどこかで虜となり、嬲られている。過酷な人生を生き延びてきた女だ。

 今も耐えていると願いつつ、ルキウスは、なにも思いつかず、考えも浮かばない。

 これほどに深刻な喪失の恐怖を覚えたのは、デン戦争以来だろうか。失うべからざるものをあまりに多く失ってきた。もはや永遠に立ち上がれまいとも素朴にただ思ったものだ。それからは、族長ニウヴとして弱い者を切り捨てもした。親しいものが死んでも心動かさなくなり、おのれの心の一部が永遠に石の塊のように変わったのだと信じていた。それが今、女一人が消息を絶っただけで内心は見苦しいほど千々に乱れている。


「どれくらい本気で探しますか?」とコル。

「本気とは?」とルキウスの言に「族長の恋人と知らせ、手の空いてる者たちに聞き込みさせてよろしいか?」とコルが尋ねる。

「構わない」ルキウスが頷くと、事態が深刻さを増したことに緊張したのか。ジークとリディアが目配せをしている。

「では、消息を絶ったかもしれない牧場の囲いで重点的に聞き込みをさせつつ、女衒たちの動きも探ってみましょう」とコルの言に、やや硬い表情でリディアが口を挟んだ。

「最悪、ズールの裏社会の組織――我々よりも強力な地元組織と揉める可能性もありますね」


 敵はいる。『大地の子サンズ・オブ・アトラス』は、地区の半ばまでも縄張りに抑えたが、まだ独立独歩の小徒党がバシカ地区に根付いている。大半は自警団めいた町衆か、粋がった若者たち。廃屋近くでは、廃墟生活者や浮浪者の類だが己の店や住居、それに通り一帯の縄張りに他の徒党が近寄るのを露骨に歓迎しない。徒党ごとに厄介さの差はあるが、ただ、無闇に手を出さなければ基本的には害のない連中ではある。


 以前、地区に根付いていた無宿者ノークォーターの一党は殲滅した。が、都市の他地区にも傭兵や無宿人ノークォーター、荒くれの鉱夫団や牧者衆、小規模な密輸商人など表でも裏でも商売敵になりそうな連中も少なからず割拠していた。

 もっとも連中同士もまた商売敵であり、根深い因縁を抱えているところもあるようで、今のところは、『大地の子サンズ・オブ・アトラス』にちょっかいを出してくる様子は見られない。


 いずれにせよ、よその地区の連中――裏社会に限らず、縄張りを持つ商会や自警団、農村の衆など表立った勢力を持つ者含めて、土着の勢力のいずれもが、ぽっと出の新参の急な拡大は歓迎していないようだ。今はまだ様子見の段階だろうが、与太者から愛想のよい行商人、何処にも潜り込む浮浪の徒や乞食たち、警官や記者、探偵に至るまで武装や由来、人数を嗅ぎまわっている鼠たちには事欠かない。


 ルキウスは、沈思黙考した。

 しばしの沈黙から、溜息を洩らして頷いた。

「万が一の場合……衝突は出来るだけ避けろ。金で片が付くなら……」

 ジークも、コルも頷いた。ジークの目に軽侮は見えないだろうか?

 族長ニウヴとしては弱気、と見られるだろうか。

 ムーテは興味無さそうに欠伸をしている。なにをしに来たのだ、といら立ちを覚えた時に口を開いた。「力を貸そう。余の部下たちも使うがよい」








 ズールはおよそ六百年の歴史を持っている。台地の上の寒村から始まって細々と二百年。後に交易商人たちが拠点として目を付けると徐々に拡大し始めた。

 四百年ほど経過した頃には、市場や倉庫が整い、商人や旅人が絶えず行き交う小都市の形を成していた。廃市街に巣食った密輸商たちの拠点も合流し、この頃に密輸同盟の拠点のひとつが構えられたと見られている。指折りの市として繁栄するズールは、元より自治権を有していたものの近隣諸侯や他都市と交渉し、自由都市として正式に承認される。それから百年ほど経過した頃、近隣の都市テクタスが屍者の波(ゾンビウェーブ)によって失墜。地域最大の都邑として一躍、地域史の舞台へと躍り出た。


 歴史の長い大きな都邑ほど、古くて重い影を宿すものだ。長くあり続けた影は、夜の闇にもうひとつの都市を創り出す――影の都だ。


 都邑の下に広がる枯れた下水道の出入り口に、浮浪者ホーボーが足を踏み入れた。椅子に座った頭領に仕入れた噂をそっと耳打ちする。

 路地裏の物陰では、乞食たちがその日に広場で目にした出来事をひそひそと囁き合い、廃屋近くでは焚火を囲みながら、放浪者たちが耳にした他愛ない世間話を仲間へと語っている。

 酒場の片隅で密輸商人たちが警備隊の動向や取引に関しての密談を交わし合い、安宿では大道芸人や吟遊詩人、娼婦らが親身となった客から聞いた些細な秘密を明かしている。身分の低い召使や従者、女中たちが館の地下で貴人たちの恋愛や懐具合などささやかな秘密について好き勝手に披露していた。


 地の下の住人たち。彼らこそ、ズールの影の都の住人たちだった。




 そうして夕刻に四人に相談し、日没前にはレニを付け廻していた与太者どもを突き止め、深夜には案内を受けたジークとリディアが女衒どもの身柄を浚ってきた。国王ムーテタリウスが付き合っている乞食や放浪者、傭兵などの浮浪の徒にどれほどの事が成しえるか、族長ニウヴルキウスは鮮やかに目の当たりにした。


 大天幕のど真ん中に縛られて転がされた売春宿の主――太った男と手先の痩せた男女――飢えた野良犬のような印象を与える陰惨な顔つきの男女だが、今は顔色を青ざめ、卑屈に周囲の様子を窺っていた。並んでいるムーテの臣民――傭兵や放浪者、乞食に無宿者ノークォーター、貧しげな庶民もいれば自由労働者。放浪鉱夫に狩人、冒険者や牢人たち。巨大な剣を背負った女ランツクネヒトもいた。職も肌の色もばらばらな老若男女のとりとめもない顔、顔、顔。 


 防壁内ではなく、外郭地区。それも遊牧氏族が治める縄張りでは、自由都市の法秩序も半ば及ばない。正確に言うなら市民でも良民でもなく、悪評芬々たる人攫いの死体が郊外に出たところで、自由都市の衛兵は大して動かない。脅えながら周囲を見回していた人攫いの二人が、影の宮廷に立ち並ぶ臣民の中に顔見知りを見つけたのか。喚き散らして助けを求めるが、嘲弄だけが鞭のように返された。


 漂泊の乞食に身を窶し、一時は乞食王ベガーキングとまで列国で嘲弄を受けたタリウスが、斯様に隠然たる影響力を駆使しようとは、ルキウスには全くの予想外だった。

 怯えている与太者を眺めて、甲高い声で笑ってるタリウスを見ながら、【ムーテ】とはそれほどの権威があるのか。或いは、牙を隠し持っていたのか。測りかねている。ともかくも、レニを付け廻していたと言う女衒たちは捉えた。レニは相応に腕が立つ牧者だから、町中で女を浚うだけが能の与太者程度の手に負えるとは思えないが―――恋人の安否を知りたいと焦るルキウスに、タリウスは細い目を向けてから、ブリキ製の義手を上げると「影の法廷を開催する」と朗々と宣言すると、白い法廷かつら(ペルーク)を頂いた小人の判事が飛び出てきた。


 次いで、子供の双子の検事。目と口を縫い付けられた太った弁護人が入ってきて恭しく一礼する。目の見えない弁護人は、観衆に向かって一礼する。同時に王に尻を向けどでかい放屁をすると、玩具の王冠を被ったタリウスが大袈裟な悲鳴を上げて、玉座ごとひっくり返った。

「被告人どもの罪状を!」楽しげなごっこ遊びに廷臣たちが一斉に沸き立つ。昔から芝居掛かった処を持つ気質のタリウスではあったが、独りよがりでもあった。それが、今は大衆を沸かせるよう、期待に応えた言動を行っている。


 コルが巨大な傷のついた頬を痙攣させていたが、本物の権威が道化の仮面を被っている状況に苛立ちを覚えているのだろうか。

 謹厳実直な戦士階級だけに、ムーテ族長ニウヴと言った貴顕に相応の立ち振る舞いを求める昔気質の壮年男は、なにかを言いたげにルキウスに視線を送ってくる。首を振ったルキウスは、焦燥を抑えつつも法廷ごっこに付き合うことにした。それにしても驚くべきことだが、確かにタリウスには人々を――群衆を惹きつける相応のカリスマがあるように見えた。王を名乗れるだけの高貴な血の廃太子タリウスが道化としてひょうげてみせる度、下層の人々は笑い転げ、一種の痛快さに溜飲を下げてるようだ。


「そいつは俺の娘を連れ去った!僅かな金を借りたら、書類を書き換えて一年で三倍の利子でな!」農民が叫んだ。「宿に泊まった妹を浚われた!他所の土地に売り飛ばしたんだ!」旅人が歯をむき出している。「裁きを!公正な裁きを!」群衆が怒りの叫びをあげると、マスクを被った小さな処刑人たちが斧を持って飛び出しては、グルグルと被告たちの周囲を駆けまわった。


 複数の証人が集められており、大衆は私刑を望んでいる。罪科の報いが迫ってきたと悟ったのだろう。男女の顔色が死人同然へと変わっていた。裁きの日が訪れたのだ。売春宿の主人は真っ青な顔色で震え上がり、女は自分は悪くないと泣き喚いている。

「何処へと売り払った?レニと言う女だ」タリウスの問いかけにただ一人、笑みを浮かべたのは痩せた男。「……レニとか言う女は、手配を受けていた。今頃は、法執行官に連行されてるだろうぜ」やけくそ気味な笑みを見た瞬間、ルキウスの胸に嫌な感覚が暗雲のように立ち込めた。妙に胸騒ぎがする。根拠はないが、族長ルキウスはこの直感に幾度か命を拾っている。

 音なき声が囁きかけてくるように、今その感覚が全力で警鐘を鳴らしていた。

「何処の、誰にだ?」コルが厳しい声音で問いかける。

「ひっ。ひひ、モイラぁ。マルグリット・モイラぁ。お前たちをデン高原から蹴り出した女さ」それまで叫んでいた群衆が名を聞いて徐々に静まり返った。「……スネイクバイト」誰かが畏れを孕んで異名を囁いた。

 静まり返った聴衆を見回して、男は血塗れの歯をむき出しに笑っていた。

「……どうした?自分の女も助け出さんのか?そんなにスネイクバイトが恐いか?それとも、ポレシャか?ん?」目が安い硝子玉のように輝いていた。もはや助からぬと悟っているのだろう。

「ポレシャの保安官補になってる。囚人を追いかけるがいい。追って死ねぇ!」男の嘲弄が影の法廷へと響き渡った。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ