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ぼくらの森  作者: ivi
第三章 ―旅立ち―
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第99話 忘却

 水の入った小瓶を両手に包んで、セロは厩舎をゆっくりと歩いていた。


 ガラスの小瓶には黄色い花が挿され、歩みに合わせてゆらゆらと揺れている。今朝の野外訓練の帰りに、タークと降り立った花畑で摘んだ花だ。


 セロが向う先は、クウェイの愛馬がいた馬房だ。記憶が正しければ、この通路の右側にあったはずだ。


 寝わらやオガ粉が散らばる通路を進む。


 途中、空っぽになった馬房を何厩も通り過ぎた。


 二度と帰ることのない馬を待つ馬房は、すべてのオガ粉が掃き出されて、房の中央には空になった飼い桶と水の入った水桶が置かれている。花が供えられている所もあれば、リンゴが置かれている所もあった。


 騎士たちは馬に深い愛情を注いでいた。同じ班の馬であろうと、なかろうと。彼らの言葉を借りるとすれば、馬は大切な仲間なのだ。


 セロはふいに足を止めて、目の前の馬房を黙って見つめた。騎士たちによってきれいに掃除されたそこは、クウェイの愛馬が暮らしていた馬房だ。


 少し前までは、背の高い鹿毛の馬がいたはずなのに。今では飼い桶と水桶が二つ並んでいるだけ……いや違う。どうやら先に、ここを訪れた者がいるようだ。


 飼い桶の中に、リンゴが一つ供えられていた。


 セロは冷たい床に膝をついて、二つの桶の中央に花瓶を置いた。馬房の窓から夕日が差し込んで、小瓶の透き通った影を膝下に落としている。


 物音一つしない空間で、手を合わせる。


 「安らかに……」


 セロはまぶたを開けて、使い込まれた桶をぼんやりと眺めた。


 思えば、セロがたった一週間でヴェルーカに乗れるようになったのは、クウェイの馬のおかげかも知れない。彼が人生で初めて乗った馬であり、乗馬の基礎を築いてくれた馬でもあった。


 セロは鹿毛の馬を心に思い描いた。記憶はぼんやりと霞んでしまっているが、あの老いた優しい瞳だけは、今でもしっかりと覚えている。


 誠実で健気な馬の姿を、光が差し込む馬房に重ねたとき。足元に置かれた木の板に、呼ばれた気がした。


 ――フォレスト


 木の名札に黒く刻まれた名前が、セロを見上げている。今の今まで忘れていた懐かしい名前を、誰かが心の中で呼んだ。


 ああ……そうだ。クウェイは馬を褒めるときも、たしなめるときも。気持ちが伝わりやすいように、声に感情をのせて名前を呼んだ。


 しかし、クウェイが怒りに任せて馬を怒鳴ることは一度もなかった。


 クウェイが愛馬の名前を呼ぶときは、いつも愛おしそうにフォレストを見つめていた。


 「フォレスト……」


 返事が返ってくることはないが、セロはどこかで鹿毛の馬がふり返ってくれた気がして、優しく微笑んだ。


 そろそろ、行かないと……。

 親友を待たせてはいけない。


 セロはフォレストの馬房に背を向けた。


 厩舎の通路に出てしまえば、たちまち普段の風景に戻ってしまう。


 外から聞こえてくる騎士たちの声。

 馬が鼻を鳴らす音。

 踵につけた拍車が、地面とぶつかる金属音。


 時計の秒針は時を刻み続け、留まることはない。


 いつか……フォレストの馬房には知らない馬がやって来て、きっと何事もなかったように暮らし始める。


 かつて、そこにいた馬がどんな子で、どんな騎士を乗せていたのか。そんな、誰かにとって大切な記憶は時とともに風化して、やがて跡形もなく忘れ去られてしまうのだろう。

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