第99話 忘却
水の入った小瓶を両手に包んで、セロは厩舎をゆっくりと歩いていた。
ガラスの小瓶には黄色い花が挿され、歩みに合わせてゆらゆらと揺れている。今朝の野外訓練の帰りに、タークと降り立った花畑で摘んだ花だ。
セロが向う先は、クウェイの愛馬がいた馬房だ。記憶が正しければ、この通路の右側にあったはずだ。
寝わらやオガ粉が散らばる通路を進む。
途中、空っぽになった馬房を何厩も通り過ぎた。
二度と帰ることのない馬を待つ馬房は、すべてのオガ粉が掃き出されて、房の中央には空になった飼い桶と水の入った水桶が置かれている。花が供えられている所もあれば、リンゴが置かれている所もあった。
騎士たちは馬に深い愛情を注いでいた。同じ班の馬であろうと、なかろうと。彼らの言葉を借りるとすれば、馬は大切な仲間なのだ。
セロはふいに足を止めて、目の前の馬房を黙って見つめた。騎士たちによってきれいに掃除されたそこは、クウェイの愛馬が暮らしていた馬房だ。
少し前までは、背の高い鹿毛の馬がいたはずなのに。今では飼い桶と水桶が二つ並んでいるだけ……いや違う。どうやら先に、ここを訪れた者がいるようだ。
飼い桶の中に、リンゴが一つ供えられていた。
セロは冷たい床に膝をついて、二つの桶の中央に花瓶を置いた。馬房の窓から夕日が差し込んで、小瓶の透き通った影を膝下に落としている。
物音一つしない空間で、手を合わせる。
「安らかに……」
セロはまぶたを開けて、使い込まれた桶をぼんやりと眺めた。
思えば、セロがたった一週間でヴェルーカに乗れるようになったのは、クウェイの馬のおかげかも知れない。彼が人生で初めて乗った馬であり、乗馬の基礎を築いてくれた馬でもあった。
セロは鹿毛の馬を心に思い描いた。記憶はぼんやりと霞んでしまっているが、あの老いた優しい瞳だけは、今でもしっかりと覚えている。
誠実で健気な馬の姿を、光が差し込む馬房に重ねたとき。足元に置かれた木の板に、呼ばれた気がした。
――フォレスト
木の名札に黒く刻まれた名前が、セロを見上げている。今の今まで忘れていた懐かしい名前を、誰かが心の中で呼んだ。
ああ……そうだ。クウェイは馬を褒めるときも、たしなめるときも。気持ちが伝わりやすいように、声に感情をのせて名前を呼んだ。
しかし、クウェイが怒りに任せて馬を怒鳴ることは一度もなかった。
クウェイが愛馬の名前を呼ぶときは、いつも愛おしそうにフォレストを見つめていた。
「フォレスト……」
返事が返ってくることはないが、セロはどこかで鹿毛の馬がふり返ってくれた気がして、優しく微笑んだ。
そろそろ、行かないと……。
親友を待たせてはいけない。
セロはフォレストの馬房に背を向けた。
厩舎の通路に出てしまえば、たちまち普段の風景に戻ってしまう。
外から聞こえてくる騎士たちの声。
馬が鼻を鳴らす音。
踵につけた拍車が、地面とぶつかる金属音。
時計の秒針は時を刻み続け、留まることはない。
いつか……フォレストの馬房には知らない馬がやって来て、きっと何事もなかったように暮らし始める。
かつて、そこにいた馬がどんな子で、どんな騎士を乗せていたのか。そんな、誰かにとって大切な記憶は時とともに風化して、やがて跡形もなく忘れ去られてしまうのだろう。




