第93話 待ち人来たれり
「おはよう、ヴェルーカ」
夜明けの薄闇に沈む厩舎。
馬房の扉を開きながら、セロは寝藁に伏せるヴェルーカへ声をかけた。馬の前には、きれいに舐められた空っぽの飼い桶が転がっている。
「さあ、起きてくれ」
セロがホルターを広げると、ヴェルーカは低く唸って起き上がる。馬はブルブルッと豪快に体を震わせて藁を落とすと、のろのろとホルターに頭を通そうとした……が、わがままなお嬢さんは朝のティータイムを邪魔されて怒ったのか、セロに向かって噛み付く仕草をした。
「こら、ヴェルーカ。噛むのは駄目だ」
ヴェルーカをたしなめると、馬は口を小さく開けてカチッと歯を鳴らした。だが、実際に噛むことはない。ガラス玉のような大きな目が、悪戯っ子のように笑っている。
「はいはい……。わかったから、お遊びはおしまいにしてくれ。馬場でケリーが待ってるぞ」
セロに促されると、ヴェルーカは『つまらない』と言わんばかりに、鼻で頬をつついてくる。餌で汚れた馬の唇が緑色のキスマークを付けるが、彼はお構いなしにヴェルーカを捕まえた。
厩舎前の広馬場では、朝一番で訓練をしている騎士たちが、右に左に忙しく横切っている。
いつも通り、セロは蹄洗場で馬装をしていたが、ふいに鼻先をかすめた風に手を止めた。
肌寒い朝の空気は、すっかり秋の装いに変わっていて、風がそこここに漂う夏の名残を遠くに運んでいく。あと少しすれば、乗馬にはちょうどいい季節になるだろう。
馬装を終えて蹄洗場の外に出たセロは、一年ぶりに訪れた秋の香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。そろそろ待ち合わせの時刻になるはずだが、ケリーはまだ来ていない。
今日の訓練は午前中にしようと言ったのは、ケリーなのだが……寝坊してしまったのだろうか。
「仕方ない……先に馬場で運動していれば、じきに来るかな」
ヴェルーカの手綱を引いて丸馬場に入ったセロは、慣れた様子で馬に跳び乗った。
鞍の上で支度を終えると、ヴェルーカは合図に従って歩き始める。馬は歩みに合わせて首を揺らしながら、機嫌よく鼻を鳴らした。黒く尖った耳は、周囲の音に反応しているが、どちらか片方は必ずセロの方を向いている。ちゃんと乗り手を見ているのだ。
馬の体がほぐれるにつれて、前に進む力がどんどん強くなる。一歩一歩が大きく、小さな蹄が砂を踏み締める感覚がセロの体を伝う。
『さあ、始めよう。』
セロは速歩の合図を送った。
馬が刻む二拍のリズムについていきながら、セロは心の中でヴェルーカと会話する。
次の一歩はどこに踏み出して、どこを通るのか。馬体はやや内方に屈曲させるが、首だけを曲げる訳ではない。馬の項から尻尾の付け根まで、馬体全体を弓のように、しなやかに湾曲させるイメージだ。
ヴェルーカに合図を送り、馬が答えてくれれば、瞬時にその圧迫から解放する。はじめて馬に乗ったときは、馬との会話方法がわからなかったが、今は少しだけ馬の言葉を理解できた気がする。
ディノとはお互いの意識が繋がっているから、どうしたいのかを頭で考えたり、イメージするだけで勝手に答えてくれる。
しかし、馬はドラゴンとは違う。
頭の中で考えているだけでは、馬は答えてくれない。最初はドラゴンと馬の違いに戸惑ってしまったが、会話をする点においては同じだった。
そのことに気がついてからは、乗馬を楽しむ余裕もできて、ヴェルーカに乗るのも苦にならなくなった。
「よし!ヴェルーカ、いいぞ!」
ヴェルーカを歩かせながら、馬の首を優しくなでた。横目でふり返ったヴェルーカは、落ち着いた様子で歩みを進めている。
少し休憩したら、また走ってみよう。
それにしても……肝心のケリーは、まだ姿を現さない。
「おかしいな。午前中に訓練するのは、いつの話だったんだ?」
待ち合わせの時間はとっくに過ぎているのに、親友は一向にやってくる気配がない。昨夕の約束を聞き間違えたのかと不安を感じながら、セロはもう少し様子を見てみることにした。
ケリーと会わない日はないのだから、遅刻した理由は後でいくらでも聞けるだろう。
セロは気持ちを切り替えて、ヴェルーカに駆け足の合図を出した。
力を溜めるかのようにグッと踏ん張った馬は、元気よく最初の一歩を踏み出した。駈歩特有の三拍のリズムで走り始めると、ヴェルーカは鼻を鳴らしてリズムを取り、セロは馬の鼻歌に合わせて柔軟についていく。
「おっ、二人とも調子よさそうだな!」
軽快な走りで丸馬場を回っていたそのとき。
セロとヴェルーカの耳に、待ち望んだ声が飛び込んできた。
『やっと来たか……。』
セロは馬をゆっくり止めて、馬場の外にいる親友をふり返った。
「遅かったじゃないか、ケリー。約束を聞き間違えたのかと思って、心配してい……」
馬場の入り口に目を向けたセロは、そこにいる青年を見て言葉を飲み込んだ。いや……青年と馬、と言った方が正しいだろう。
馬場の出入り口の柵を開けるニックの後ろで、グレイスターにまたがったケリーが、楽しそうに笑っていた。




