第92話 ディノの飛翔
「あの……セロさん」
タークは、言いにくそうに切り出した。
「どうした?」
「ここから、岩の所に戻れますか?」
「……えっ?」
タークは轟く谷を、じっと見下ろしている。
「もう一度、挑戦したいのか?」
「あっ、いえ。違うんです」
タークは慌てて顔を上げると、ヘルムの下で照れたように笑った。
「セロさんとディノが全力で飛んだら、どんな風になるのかなって。……ちょっと、見てみたいなって思ったんです」
タークは両手を顔の前で合わせた。もちろん、手綱はしっかりと持ったままだ。
「お願いしますっ!セロさんの本気、見せてください!」
セロはディノに目線を送って、どうしようかと尋ねた。
答えはわかりきっていたが、ディノからの返事は『もちろん!』だった。彼女の強い意志を受けて、セロはゴーグルをつけ直した。
「……わかった。タークは上からついて来てくれ。この先の滝で合流しよう」
「ありがとうございますっ!」
タークが礼を言い終えるより早く、ディノは身をひるがえすと、真っ逆さまに落ちて行った。あっという間に谷へ舞い戻ったディノは、翼を目一杯に広げて、目の前に迫る岩をすり抜ける。
速ければ速いほど、低ければ低いほど。ドラゴンが体を自由に動かせる範囲は限られる。
常に形を変える水面に、翼が引っかからないように。岩に接触しないように。セロは行く先の状況を瞬時に捉えて、ディノにイメージを送り続けた。岩の割れ目を這う蛇のように、ドラゴンは柔軟に身をくねらせて飛んだ。
ディノの姿が隠れたと思えば、まったく別の場所から現れる。予想できないディノたちの動きを、タークもチャチャも興味津々で見ていた。
体を真横に傾けた勢いで、さらに一回転する。その間にも、ディノはいくつもの岩を越え、次の岩柱にたどり着く頃には体制を整えていた。翼を閉じたら、水面を強く叩くようにして推進力を取り戻し、身動きが取りやすい高さまで浮上している。
「すごい……っ!あのときと一緒だ!」
セロの飛翔を初めて見た日の記憶が蘇り、タークの心臓は高鳴った。
まるで、野生のドラゴンみたいだ。
ディノの動きを見ていても、乗り手の指示で動かされている感じがしない。
お互いの意思がしっかりと伝わった上で、次の動きに繋がっている。瞬間的に重ねられる会話が、一連の動きを作り上げているのだ。
「うわあっ!」
ふいに止まったチャチャに驚いて、タークは声を上げた。
周囲を見渡して、彼はそそり立つ巨大な滝に目を見張った。どうやら、セロたちを見守っている間に、滝へ辿り着いていたようだ。
崖の切れ目から溢れ出した川は、耳を塞ぎたくなるほどの轟音とともに、遥か下の谷に注ぎ込まれている。崖下の景色は白く霞んで、よく見えなかった。
「あれ……っ?セロさんは?」
ほんの少し目を離してしまった隙に、見失ってしまった。タークが谷底に立ち込める霧に、目を凝らしたそのとき。
――バシャアッ!
「うあっ!冷たい!」
突然、滝の水が跳ね上がり、凍るように冷たい水が鎧を伝って制服に染み込んだ。タークは降り注ぐ水滴に顔を濡らして、空を見上げた。
山頂から差し込む光の中で、身をひるがえす黒い影が見える。
「セロさーん!ディノーッ!」
名を呼ばれたドラゴンが、降下を始める。濡れた鱗をキラキラと煌めかせて舞い降りるディノは、天からやって来た神聖なドラゴンみたいだ。
「おかえりなさい!お二人とも、すごく、すごく、かっこよかったですよ!」
ディノがチャチャの隣に留まると、セロはドラゴンの首を優しくなでた。ディノはとても満足そうなため息をついて、それに答えている。
「ありがとう、ターク」
「ぼくも、チャチャとあんな風に飛べるようになりたいです!」
「もちろん。タークなら、きっとできるよ」
「本当ですかっ!」
「僕だって、最初からこんな風に飛べた訳じゃない。何度も繰り返し練習して、そのたびに失敗して……死ぬかと思ったときもあった」
珍しく過去のことを話すセロに、タークの興奮が収まっていく。
「タークもチャチャも、さっきは危ない目に遭っただろう。これからも、きっと様々な経験をすると思うが、そうして壁を乗り越えていけば、君はいつか必ず、理想のドラゴン乗りになれる。ただ……失敗のせいで大怪我をしたり、トラウマになるのは話が違う。まずは、自分の実力の範囲内でできることを、確実にこなせるようにするんだ」
「はいっ!」
「すまない、長話をしてしまったな。……慣れない訓練で疲れただろう?そろそろ、学舎に戻ろう」
太陽が森を照らし、川の水が輝いている。
彼らは川を離れると、山脈に背を向けて飛び始めた。
学舎を目指す途中で、セロはふいに視界の下をかすめる鮮やかな色に目を引かれた。
木々の緑一色が広がる中で、一際目立つ黄色の群れ。よく見ると、それは小さな花畑だった。
そこだけ木々がないのを見ると、森中の花たちが日の光を求めて集まって来たみたいだ。
「ターク、少し寄り道をしよう!あの花畑で休憩するぞ!」
ディノに続いて、チャチャも旋回を始める。
お互いの尾を追って輪を描くドラゴンたちは、まるで追いかけっこを楽しむ幼竜のようだった。




