第90話 外の世界
セロの号令で、二頭のドラゴンは翼を広げた。
ドラゴンが羽ばたくと、薄い飛膜の張る音が訓練場に響き渡り、空に向かってグンッグンッと力強く引き上げられるのを感じた。
「ターク、大丈夫か!」
「はいーっ!大丈夫ですっ!」
セロは片手を離し、大きく円を描いた。
「一周するぞ!」
セロが合図を出すより早く、ディノは上昇を止めると、ゆっくりと前に飛び始めた。セロが指示に集中できるよう、気遣ってくれているのだ。
「助かるよ、ディノ」
首をなでると、ディノはこくりと頷いて答える。
安心して背後をふり返ると、タークとチャチャは適度な距離を保って、しっかりと着いて来ていた。
宿舎の赤い屋根を過ぎると、ドラゴンの体は竜舎に向かってなだらかに傾き始めた。
曲線を描くディノの背中からは、真下に広がる訓練場がよく見える。自分の膝の向こう側を流れる景色を見ていると、すうーっと吸い込まれそうになった。
壁に沿ってまっすぐに飛び、竜舎の青い屋根を目印に曲がる。先にある物見塔を曲がり終えたら、いよいよ外の世界へ飛び出すことになるのだ。
さて、タークの様子を確認しておこう。
「ターク!」
名前を呼ぶと、タークは片手を上げて答えた。
少し前までは、あんなに自信がなさそうにだったのに。
今日のタークはとても活き活きとしていて、飛翔訓練を楽しんでいるように見えた。
セロは大きな半円を描いて、訓練場の中央へディノを導く。
正門を越えたら、まずは山脈を目指して飛び続けよう。
物見塔から、見張りの学生たちが手を振っているのが見えた。
ディノが学舎の壁を越えると、セロは彼方にそびえる山脈を見据えた。
ここから先は目印になるものもなければ、降りられる場所も多くない。学舎を出れば、自由である代わりに様々な危険が付いてくるのだ。
時折、タークとチャチャをふり返りながら、眼下を流れていく巨大な森に目を落とした。空から見下ろすと、自分の足で歩いていたときには見えなかった、森の姿が見えてくる。
群れをなす鹿たち、飛ぶように走るウサギ、ディノが落とす影に驚いて飛び立つ鳥。
セロは動物を見つけるたびに指をさして、タークに伝えた。
タークはそおっと身を乗り出すと、動物たちが見えなくなるまで目で追い続けている。
もしかすると、タークは動物が好きなのかも知れない。
そんなことを思いながら後輩を見守っていると、ディノが鼻を鳴らした。
セロを呼んでいるのだ。
進行方向に向きなおると、山脈が着々と迫っていた。牙のように尖った峰は、空を貫かんとばかりに高くそびえている。
山を越えれば、首都へ続く広大な高原へ行くことができる。だが、そこまで足を伸ばすと、午前中に学舎へ戻れなくなってしまう。
さて、そろそろ野外訓練を始めてもいい頃だろう。
セロは森を指さして、寝かした手のひらを下げた。
「木に当たらない程度まで、高度を下げるぞ!」
セロが手綱を緩めると、ディノはなだらかに降下を始めた。
木々が凄いスピードで、翼の下を流れて行く。
チャチャはディノより少し上を飛んでいる。タークたちは、自分たちにできる範囲を考えて、無理のない挑戦をしているのだ。
木々の上をかすめるように飛ぶのは、普通に飛んでいるときよりも、気を遣う要素が増える。
ドラゴンの羽ばたきがどのくらいの幅を必要とするのか。そして、いつ、どのタイミングで羽ばたけば、木に翼が当たらずに済むか。
高度を下げれば下げるほど調整は難しく、ドラゴンとの会話も、より頻繁に交わす必要がある。
木が途切れる瞬間や、高い木を越える直前。羽ばたけるタイミングは、いつも都合よくやって来る訳ではない。
ドラゴンとの呼吸が乱れれば、飛膜を梢に引っ掛けて、傷つけてしまうかも知れない。翼が木に引っかかれば、そのまま落ちてしまうかも知れない。
学舎の外では、訓練場ではできない練習をすることができる。木々の上すれすれを飛ぶこと、川に沿って飛ぶこと、障害物を回避して飛ぶこと。野外訓練で身に着けた新しい感覚は、タークにとって良い経験になるはずだ。
「よし、いいぞ!上昇!」
セロの掛け声を合図に、ドラゴンは力強く羽ばたいた。
人もドラゴンも、緊張を強いられる状況を好まないのは同じだ。タークの場合は、特にそうだろう。せっかくチャチャに乗って外に出たのだから、難しい訓練よりも、楽しい訓練がしたいはずだ。
「さて……」
セロは頭の中で広げた地図を辿る。手綱を操ると、ディノは体を右に傾けて山脈と平行に並んだ。
ゴツゴツとした灰色の岩肌が、視界の左端をかすめていく。手を伸ばしても届きそうにない山の頂は、小さな彼らを見下しているようだ。
このまま山に沿って飛べば、大きな川に突き当たる。
そこが次の訓練の場になる。
タークとチャチャの訓練は、まだまだ始まったばかりだ。




