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ぼくらの森  作者: ivi
第二章 ―目覚め―
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第83話 王子の影

 「遅えぞ、ニック!」


 突然の怒鳴り声に、ニックはビクッと肩を震わせた。


 乱暴な言葉に不快感を覚えたセロも、声のした方へ目を向ける。


 馬場から戻ったのか、一人の青年が鹿毛の馬を引いて歩いて来るのが見えた。


 「喋ってねえで、早く手入れを終わらせろ!それが終わったら馬房掃除!」


 「……はい」


 ヘルムを目深に被り、足早に通り過ぎて行く騎士を一瞥して、セロはニックをふり返った。体を強張らせ、怯えた様子で青年を見送っていた彼は、鹿毛の馬が厩舎に姿を消すと同時に、慌ててエルの手入れを始めた。


 ニックの様子がおかしい。


 先輩に怒られてはいたが……それにしては、怯え方が尋常じゃない気がする。


 セロもタークを叱ることがあるが、これほど怯えられたことはない。


 上手くできたときには褒め、度が過ぎれば怒り、失敗すれば一緒に解決策を模索する。


 そうして、セロが日頃から喜怒哀楽の姿を見せているから、タークは怒られても怯えることはない。


 それが、セロの本当の姿ではないとわかっているからだ。


 だが……ニックの場合は?


 ニックが先輩と接しているのを見たのは初めてだが、今も一言も発することなく手入れをしている彼を見て、セロは彼らの間に潜む影の気配を感じた気がした。


 「すまない、ニック。君と話すのが楽しくて、お喋りが過ぎてしまった」


 ヴェルーカの馬体越しに声をかけると、ニックはエルの向こう側から、ひょこっと顔を覗かせた。彼はセロを安心させようとしているのか、ブラシをかける手を止めることなく、ぎこちない笑みを浮かべた。


 「いえ、ぼくが夢中になって喋り過ぎちゃったせいで……ごめんなさい。セロさんは何も悪くないですから、気になさらないでください」


 忙しなく手入れをされると、居心地が悪いのだろう。エルは耳を伏せて、不満そうに眉根を下げている。


 馬がキュッと目を尖らせて、困り顔をしているように見えるのは、セロの先入観がそうさせているのだろうか。


 桶から缶と筆を取り出したニックは、エルの蹄に油を塗ると、引き手を馬に繋いだ。


 セロはまだ、ヴェルーカのブラシがけを終えたばかりだというのに。彼はもう、馬一頭の手入れを終えてしまったのだ。


 これは間違いなく経験の差だろう。ニックは馬と関わって二年、セロはまだ数日だ。


 だが……素人のセロでも、これだけは見逃せない。


 「ニック、待ってくれ」


 エルを厩舎へ連れて行こうとしたニックを、セロは呼び止めた。ニックは焦りを顔に出しながらも、足を止めてくれる。


 「どうしたんですか?」


 セロは繋ぎ場を出ると、エルの足元を指さした。


 「いつもこんな感じなのか?」


 セロは馬の蹄と肢を繋ぐ丸い関節に手をかけると、その裏側に生えた長い毛を泡立てるように手でこすった。その瞬間、毛の中から細かい砂がパラパラと落ちてセロの手を白く汚し、同時にニックの表情も曇った。


 蹄なくして馬なし。


 この言葉は騎士団の先輩から後輩へ、何年にも渡って言い伝えられてきた。騎士たちは皆、馬の足を大切に扱っているのだ。


 セロと目を合わせないように、ニックはさっと顔をそらした。気不味そうにしているニックの横顔を見据えながら、セロはゆっくりと立ち上がった。


 「初めてヴェルーカの手入れをしたとき、ケリーは何度も言っていたよ。蹄なくして馬なし。馬の足は第二の心臓なんだって。……馬好きな君が、それを知らないはずがない」


 ギュッと目を閉じるニック。すっかり説教がましくなってしまったが、セロは彼を責めようとしているのではない。


 ニックの暗く沈んだ表情を見たセロは、少し声色を変えた。


 あの日、自分の名前を隠していたセロを、親友が優しく諭してくれたように。そして、かつて素直に心を開くことができなかった彼に、先輩騎士が語りかけてくれたように。


 「そう、せざるを得なかったんだな」


 ニックは何も答えない。


 「もし、ニックが何か困っているのなら……話を聞かせてくれないかな。僕でよければ、君の力になりたい」


 ニックはそっと目を開けて、セロの表情を伺うようにしている。


 しばらくの間、ニックは何やら葛藤していたようだが、やがて大きく息を吸うと、セロの目をまっすぐに見つめた。


 「セロさん……あの。実は、ぼく……せん――」


 「ニック!おまえ、喋ってる暇があるなら厩務しろって!」


 蚊の鳴くような声を掻き消して、どこからともなく響いてくる怒声。


 「す……すみませんっ。すぐ行きます……!」


 ニックは泣きそうな顔で答えると、踵を返してエルと共に立ち去った。


 「ニック……」


 彼の口から聞くことはできなかったが、ニックが問題を抱えているのは明らかだ。


 ケリーに相談するべきか……。


 いや、自分で助けを求められるような内容なら、ニックは既にケリーへ話しているはずだ。


 ドラゴン乗りのセロよりも、同じ騎士であるケリーの方がニックにとって親しい存在だ。ケリーも後輩から相談を受けたとなれば、すぐに解決しようとするだろう。


 だが、そうしなかったということは……ケリーにも打ち明けられない出来事が、ニックの身に起こっているのかも知れない。


 肩を落として戻って来たセロに、ヴェルーカが急かすように前足で地面を掻く。


 「すまない、ヴェルーカ。早く家に帰りたいんだな」


 濡らしたタオルを絞りながらセロが近づくと、ヴェルーカは彼の体に顔を擦り寄せてきた。力任せに甘えてくる馬の顔を捕まえて、頭絡の形に残る汗の跡を拭きながら、セロはふと制服に目を落とした。


 ヴェルーカに顔を擦られた服は、白と黒の毛でまばらに汚れていた。


 また、洗濯することになりそうだ……。


 セロがやれやれと微笑んだそのとき、頭のなかでニックのはしゃぎ声が響いた。


 『洗うのが億劫になりますよね。でもかわいい馬のためなら、どれほど制服が汚れても平気です!』


 制服が汚れても平気……か。


 ドラゴン乗りとは違い、騎士たちは毎日、毛だらけ砂だらけになりながら過ごしている。


 あのとき、ニックは制服を指さして笑っていた。そんな彼の制服は、その言葉通り馬の毛で汚れていたんだ。


 「……ん?」


 ちょっと待て……何か見逃しているような、そんな気がする。


 セロは目の前に広がるいつもの景色に、あの日の記憶を重ね合わせた。


 この違和感の正体は、何だ……?


 「ああっ、そうか!」


 茶色の馬の毛……!


 あのとき、ニックの制服には茶色い馬の毛がたくさん付いていた。だから、最初はニックが鹿毛の馬に乗っているんだと勘違いしていたんだ。


 しかし、ニックは白馬の王子。


 彼の馬は芦毛、白い馬だった。


 そして、ニックが今、世話をしているのはエルとグレイスターだけ。


 二頭とも、茶色じゃない。


 それなら……あの茶色い馬の毛は、どこで付いたのだろう。


 作業が遅いと怒られるニックが、エルとグレイスター以外の馬と触れ合う時間はあるだろうか。


 ……馬が大好きな彼のことだ。その可能性は捨てきれないが、先輩の様子を見る限り、制服が汚れるほど馬と接する余裕はないはずだ。


 ――ガッガッガッ!


 考えにふけるあまり手が止まったセロを、ヴェルーカが前掻きで急かす。


 我に返り、手入れを再開したセロの頭の中では、ニックが残した小さなヒントが次々と繋がっていく。


 セロは白馬の王子様が抱える深い闇に、自ら足を踏み入れたのだった。

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