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ぼくらの森  作者: ivi
第二章 ―目覚め―
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第80話 トラウマ

 「それで?部屋の片付けを放ったらかすほどの大発見って、何なんだ?」


 今朝のことが不満だったのか、ケリーは蹄洗場に繋がれたヴェルーカの前で、腕を組んでいる。


 セロは鞍をのせながら、不機嫌そうなケリーに答えた。


 「本当にすまない。部屋の片付けは後で必ずするから、許して欲しい。ただ、ヴェルーカと向き合う方法が何となくわかった気がして、いても立ってもいられなくなったんだ」


 「……何となく?」


 ぶっきらぼうに聞き返すケリーに、セロはしっかりと頷いた。


 「クウェイのおかげで、ヴェルーカの気持ちを知ることができたんだ」


 「ごめん、オレは途中で寝ちゃったから、あんまり覚えてないんだけど。日記に何か書かれてたのか?」


 腹帯を鞍のベルトに繋ぎながら、セロは黙って首を横にふる。ベルトの穴に金具を通し終えると、彼は反対側に回って、帯を馬の腹の下にくぐらせた。


 「僕も最後まで読まずに寝てしまったから、詳しいことが書かれていたかどうかはわからない。でも、クウェイが夢の中でヒントを教えてくれたんだ」


 「クウェイさんと夢で会ったのか、羨ましいな。……それで?」


 セロは繋ぎ場から出ると、ズボンのポケットに押し込んでいたグローブを取った。


 「ヴェルーカはきっと、乗り手の体温や気配が消えてしまうことを恐れているんだ。発作的に暴れるのは、二度の遠征で経験したことがトラウマになって……人を乗せるたびに、嫌な記憶が蘇るからだと思う」


 グローブをはめた手を握ったり開いたりしながら、セロは付け足した。


 「ヴェルーカをトラウマから解放するには、恐怖の根源になっている記憶を塗り替えないといけない」


 「ちょっと待てよ!そんなことが、本当にできると思ってるのか?ここは夢の世界じゃないんだぜ?記憶を塗り替えるなんて、魔法使いでもないと無理だろ」


 「言い方が悪かったかも知れない。塗り替えると言うより、期待を裏切ると言った方がいいのかな」


 「……ますます、訳がわかんなくなったぜ?ヴェルーカを裏切ったら、それこそ信用してもらえなくなるじゃないか」


 ケリーは呆れた顔でセロを見つめている。このままではヴェルーカの問題を解決する前に、彼の信用を失ってしまいそうだ。


 セロは誤解を解くため、丁寧に説明した。


 「ヴェルーカの経験上、落馬した人はいなくなってしまう。それで人を乗せるのが怖くなったのなら、その思い込みを裏切ってあげればいいんだ。たとえ遠征の記憶を思い出して暴れたとしても、僕が最後まで背中に残っていられたら、きっといい意味で期待を裏切ることになるんじゃないかな」


 「その、期待っていうのは何なんだ?」


 「僕も上手く説明できないが……期待というのは、僕が落馬したときにヴェルーカが『やっぱり落ちた』って思うこと。その気持ち自体が、ヴェルーカにとって負の期待なんだ。ヴェルーカの予想と違う結果を見せてあげることで、トラウマになっている記憶を塗り替えられると思う」


 ヴェルーカに頭絡を着け終えたセロは、難しい表情で立つケリーに向き直った。


 青い瞳の奥底では、希望の光が見え隠れしている。


 「わかった……セロに任せるよ」


 セロはヴェルーカの手綱を持つと、ケリーに続いて丸馬場へ向かう。


 馬場の中央でひらりと馬に跳び乗って、セロはヴェルーカを歩かせた。


 踏み台に腰掛けたケリーは、なだらかな曲線を描く埒に沿って進む馬を見守った。


 これまでの落馬によって、より強めてしまったヴェルーカのトラウマを、何としても取り除かなければならない。


 反時計回りに、四つの拍で歩くヴェルーカ。リズムに合わせて馬の腹をふくらはぎで押し返しながら、セロはその時が来るのを待った。


 「……速歩よーい」


 人馬の緊張が解れたところで、ケリーが速歩準備の号令を出す。手綱を軽く張ってヴェルーカの腹を足で圧迫すると、馬の歩みは徐々に早まっていった。


 「速歩進め!」


 踵で合図を送ると、ヴェルーカは規則正しい二拍のリズムで走り始めた。馬が走る反動に合わせながら、セロはヴェルーカに小さな合図を送り続ける。


 馬との会話を断ってはいけない。


 ヴェルーカが踏み出す一歩一歩に対して、乗り手が答えてあげなければ。


 馬の黒い耳を視界の下端に入れながら、進行方向をしっかりと見据える。次の一歩はどこに踏み出して、馬場のどこを通るのか。


 同時に自分の騎乗姿勢も意識して、馬が走りやすい状態を維持し続ける。


 余計なことは考えず、次の瞬間だけに集中する。


 その一瞬、一瞬の積み重ねが、ヴェルーカの一連の動きを生み出していく。


 しばらく走ったあと、ケリーの指示で常歩に落として、短い休憩時間を取った。


 ヴェルーカは砂を踏みしめながら、いつもと変わらない調子で歩き続けている。


 「速歩用意……」


 ケリーの緊張した声が聞こえてくる。


 きっと、セロと同じ気持ちでいるのだろう。


 「速歩進め!」


 セロの合図で、馬はまた走り始めた。


 再び刻まれる細かい二拍のリズムに揺られながら、セロはしっかりと馬の動きについていく。


 もうすぐ、丸い馬場を一周する所まで来たとき。


 ふいに、セロの心に鋭い痛みが走った。心の中の糸が、両側からピンッと張り詰められるような感覚。


 心臓がバクバクと脈打って、そのときが来たのだと告げている。


 突然、頭を高く上げて耳をピタッと伏せたヴェルーカは、前脚を大きく踏み出して暴走した。バタバタと響く足音とともにセロは体を起こして、ヴェルーカに止まれの合図を送り続ける。


 一度こうなってしまったら、ヴェルーカに手綱は効かない。


 いや、むしろ逆効果だ。


 無闇に引っ張れば引っ張るほど、馬は走るスピードをどんどん上げていく。


 大丈夫……大丈夫……。


 泣き喚く子どもに優しく言い聞かせるように。セロはヴェルーカが噛み締めるハミを解いて、馬が落ち着くのを待つ。


 ヴェルーカが跳ねるたびに振り落とされそうになるが、セロは必死で耐えた。


 怖がるな、恐れるな。


 ヴェルーカだって、逃げ出したいほどの恐怖に襲われているんだ。


 だが、馬はどんなに辛くても泣き叫ぶことができない。人間に助けを求めることも、気持ちを言葉にすることも、できない。


 だから、誰かが寄り添ってあげないと……誰かが「大丈夫」って言ってあげないと、人の言葉を話せない馬は、独りぼっちになってしまう。


 トラウマに抗うヴェルーカの暴走に頭は混乱しているようだが、心は酷く落ち着いている。


 セロは無音になった心のなかで、ヴェルーカに語りかけた。

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