第80話 トラウマ
「それで?部屋の片付けを放ったらかすほどの大発見って、何なんだ?」
今朝のことが不満だったのか、ケリーは蹄洗場に繋がれたヴェルーカの前で、腕を組んでいる。
セロは鞍をのせながら、不機嫌そうなケリーに答えた。
「本当にすまない。部屋の片付けは後で必ずするから、許して欲しい。ただ、ヴェルーカと向き合う方法が何となくわかった気がして、いても立ってもいられなくなったんだ」
「……何となく?」
ぶっきらぼうに聞き返すケリーに、セロはしっかりと頷いた。
「クウェイのおかげで、ヴェルーカの気持ちを知ることができたんだ」
「ごめん、オレは途中で寝ちゃったから、あんまり覚えてないんだけど。日記に何か書かれてたのか?」
腹帯を鞍のベルトに繋ぎながら、セロは黙って首を横にふる。ベルトの穴に金具を通し終えると、彼は反対側に回って、帯を馬の腹の下にくぐらせた。
「僕も最後まで読まずに寝てしまったから、詳しいことが書かれていたかどうかはわからない。でも、クウェイが夢の中でヒントを教えてくれたんだ」
「クウェイさんと夢で会ったのか、羨ましいな。……それで?」
セロは繋ぎ場から出ると、ズボンのポケットに押し込んでいたグローブを取った。
「ヴェルーカはきっと、乗り手の体温や気配が消えてしまうことを恐れているんだ。発作的に暴れるのは、二度の遠征で経験したことがトラウマになって……人を乗せるたびに、嫌な記憶が蘇るからだと思う」
グローブをはめた手を握ったり開いたりしながら、セロは付け足した。
「ヴェルーカをトラウマから解放するには、恐怖の根源になっている記憶を塗り替えないといけない」
「ちょっと待てよ!そんなことが、本当にできると思ってるのか?ここは夢の世界じゃないんだぜ?記憶を塗り替えるなんて、魔法使いでもないと無理だろ」
「言い方が悪かったかも知れない。塗り替えると言うより、期待を裏切ると言った方がいいのかな」
「……ますます、訳がわかんなくなったぜ?ヴェルーカを裏切ったら、それこそ信用してもらえなくなるじゃないか」
ケリーは呆れた顔でセロを見つめている。このままではヴェルーカの問題を解決する前に、彼の信用を失ってしまいそうだ。
セロは誤解を解くため、丁寧に説明した。
「ヴェルーカの経験上、落馬した人はいなくなってしまう。それで人を乗せるのが怖くなったのなら、その思い込みを裏切ってあげればいいんだ。たとえ遠征の記憶を思い出して暴れたとしても、僕が最後まで背中に残っていられたら、きっといい意味で期待を裏切ることになるんじゃないかな」
「その、期待っていうのは何なんだ?」
「僕も上手く説明できないが……期待というのは、僕が落馬したときにヴェルーカが『やっぱり落ちた』って思うこと。その気持ち自体が、ヴェルーカにとって負の期待なんだ。ヴェルーカの予想と違う結果を見せてあげることで、トラウマになっている記憶を塗り替えられると思う」
ヴェルーカに頭絡を着け終えたセロは、難しい表情で立つケリーに向き直った。
青い瞳の奥底では、希望の光が見え隠れしている。
「わかった……セロに任せるよ」
セロはヴェルーカの手綱を持つと、ケリーに続いて丸馬場へ向かう。
馬場の中央でひらりと馬に跳び乗って、セロはヴェルーカを歩かせた。
踏み台に腰掛けたケリーは、なだらかな曲線を描く埒に沿って進む馬を見守った。
これまでの落馬によって、より強めてしまったヴェルーカのトラウマを、何としても取り除かなければならない。
反時計回りに、四つの拍で歩くヴェルーカ。リズムに合わせて馬の腹をふくらはぎで押し返しながら、セロはその時が来るのを待った。
「……速歩よーい」
人馬の緊張が解れたところで、ケリーが速歩準備の号令を出す。手綱を軽く張ってヴェルーカの腹を足で圧迫すると、馬の歩みは徐々に早まっていった。
「速歩進め!」
踵で合図を送ると、ヴェルーカは規則正しい二拍のリズムで走り始めた。馬が走る反動に合わせながら、セロはヴェルーカに小さな合図を送り続ける。
馬との会話を断ってはいけない。
ヴェルーカが踏み出す一歩一歩に対して、乗り手が答えてあげなければ。
馬の黒い耳を視界の下端に入れながら、進行方向をしっかりと見据える。次の一歩はどこに踏み出して、馬場のどこを通るのか。
同時に自分の騎乗姿勢も意識して、馬が走りやすい状態を維持し続ける。
余計なことは考えず、次の瞬間だけに集中する。
その一瞬、一瞬の積み重ねが、ヴェルーカの一連の動きを生み出していく。
しばらく走ったあと、ケリーの指示で常歩に落として、短い休憩時間を取った。
ヴェルーカは砂を踏みしめながら、いつもと変わらない調子で歩き続けている。
「速歩用意……」
ケリーの緊張した声が聞こえてくる。
きっと、セロと同じ気持ちでいるのだろう。
「速歩進め!」
セロの合図で、馬はまた走り始めた。
再び刻まれる細かい二拍のリズムに揺られながら、セロはしっかりと馬の動きについていく。
もうすぐ、丸い馬場を一周する所まで来たとき。
ふいに、セロの心に鋭い痛みが走った。心の中の糸が、両側からピンッと張り詰められるような感覚。
心臓がバクバクと脈打って、そのときが来たのだと告げている。
突然、頭を高く上げて耳をピタッと伏せたヴェルーカは、前脚を大きく踏み出して暴走した。バタバタと響く足音とともにセロは体を起こして、ヴェルーカに止まれの合図を送り続ける。
一度こうなってしまったら、ヴェルーカに手綱は効かない。
いや、むしろ逆効果だ。
無闇に引っ張れば引っ張るほど、馬は走るスピードをどんどん上げていく。
大丈夫……大丈夫……。
泣き喚く子どもに優しく言い聞かせるように。セロはヴェルーカが噛み締めるハミを解いて、馬が落ち着くのを待つ。
ヴェルーカが跳ねるたびに振り落とされそうになるが、セロは必死で耐えた。
怖がるな、恐れるな。
ヴェルーカだって、逃げ出したいほどの恐怖に襲われているんだ。
だが、馬はどんなに辛くても泣き叫ぶことができない。人間に助けを求めることも、気持ちを言葉にすることも、できない。
だから、誰かが寄り添ってあげないと……誰かが「大丈夫」って言ってあげないと、人の言葉を話せない馬は、独りぼっちになってしまう。
トラウマに抗うヴェルーカの暴走に頭は混乱しているようだが、心は酷く落ち着いている。
セロは無音になった心のなかで、ヴェルーカに語りかけた。




