第75話 亡き気配
昨日よりも微かに痩せた月が、夜空の高いところに浮かんでいる。
セロとケリーは、暗くなった階段の下に立っていた。
親友の手のひらで鈍く輝く鍵を見つめて、セロは呟くように訊ねる。
「学長は何か言っていたか?」
「部屋を荒らさない、物は外に持ち出さない、動かした物はもとに戻しておくこと、退室時は窓の戸締まりとドアの施錠を忘れないこと……もっと聞くか?」
「いや、遠慮しておく。続きはあとで聞かせてもらうとして……学長が言っていたのはそれだけか?」
「ああ、それだけだったぜ。あっさり借りられたもんだから、いろいろ聞いたんだけどさ。学長によると、遠征で亡くなった学生の部屋に、同じ班の人が入るのは珍しいことじゃないらしいんだ。花を供えたり、ホコリが積もらないように掃除したりする人もいるんだって」
「同じ班か……学長は、僕が部屋に入ることは知っているのか?」
「もちろん、ちゃんと話してあるぜ。オレがいるなら何も問題ないって言ってた」
そうか、よかった。
セロはほっと息をついたが、彼の緊張がほぐれることはない。
錆びてくすんだ鍵を前にしたセロの心臓は、鼓動するたびに速さを増しているみたいだ。
「クウェイさんが持ってた鍵はもうないから、合鍵をもらって来た。それでさ、これはおまえが持っててくれないか……松葉杖が邪魔で落としそうなんだ」
ケリーは鍵を握りしめると、そっと差し出した。
片腕で松葉杖をついていても、ポケットに入れておけば鍵を落とすことはない。きっと、ケリーには何か思うことがあるのだろう。
セロは素直に受け取った。
「それじゃあ、そろそろ行くか。クウェイさんの部屋まで、オレが案内するぜ」
「……うん、頼むよ」
ケリーの後に続いて歩きながら、セロは星が瞬く空を見上げた。少し前まで真っ赤だった空は、夜の深い闇に染まってしまっている。
寝間着に上着を羽織っただけの服装で外を歩くと、秋のひんやりした夜風が薄い服を透けて肌をなでていくのがわかる。
大浴場から直行したため、髪はまだ乾ききっていない。風に吹かれた毛先が首筋をかすめると、セロは冷たさに思わず身を縮めてしまう。
厩舎の横を通り過ぎ、騎士の宿舎へ続く一本道を黙って歩く。結局のところ、二人は宿舎二階のクウェイの部屋に着くまで一言も発しなかった。
「着いたな……ここだぜ」
階段を登って息が上がったケリーは、松葉杖にもたれながら肩を上下させている。
閉ざされた扉の前で、セロは手の中の鍵を持ち直した。
廊下の闇に沈むドアは重苦しく、見えない波に押し返されているような感覚になる。
セロは鍵をケリーに差し出して、微かに首を傾げてみせた。
『君が開けるか?』
ケリーは、ゆっくりと首を横に振った。
セロは緊張で固まる足を無理やり動かして、扉の前へ歩み寄る。同時に鍵を持つ手が小刻みに震えだした。
「……開けるぞ」
暗さに慣れてきたセロの目が、小さな鍵穴をしっかりと見据える。手の震えを堪えながら鍵を差し込むと、カチリという音が聞こえて動かなくなった。
あとは鍵を回すだけ……セロは一息に鍵を回した。
――カチッ
ドアの鍵が開いた感覚が、指先から伝う。
抜いた鍵を胸ポケットにしまって、セロは冷たいドアノブをひねった。
扉が開くと、かすかなホコリの匂いとともに、懐かしい香りがふっと鼻先をかすめていく。
部屋に入ると、窓から差し込む月明かりに照らされた家具が、床に黒い影を落としていた。
セロとタークの部屋と同じ、二人部屋。
「暗いな。これじゃ何も見えない」
「何か明かりを灯せる物は……テーブルの上にあるのはロウソクかな?」
セロは丸いテーブルにのっている細長い影に触れた。やはり、これは燭台に立てられたロウソクのようだ。
「だとすると、マッチは……これか」
ロウソクのそばに置かれた小箱を手に取ると、箱の一面がヤスリのようになっているのがわかる。セロは箱を手探りで開けると、細い木の棒を取り出してザラザラとした箱の側面で擦った。
シュッという鋭い音とともにマッチは火を吹く。セロはロウソクに明かりを灯した。
温かい光に照らされる部屋に、二人は目を細めた。
くすぐったい目の痛みに瞬く彼らの視界に、部屋の全貌が色鮮やかに飛び込む。暗闇の中では見えなかったクウェイの部屋のすべてに、セロは思わず息を呑んだ。
扉を入って左側。セロの部屋ではタークのベッドが置かれている場所に、整えられたベッドが一つ置いてある。
そして、その反対側。セロのベッドがある位置には、別のベッドが住人の帰りを待っていた。様子を見るに、左のベッドはもう随分と長い間使われていないらしく、真っ白な枕には薄っすらとホコリが積もっていた。
レイ・ホートモンド
その名前が脳裏に浮かぶ。
部屋の左半分は、きっとホートモンドさんに割り振られていたのだろう。枕元の壁には彼の愛馬だったヴェルーカの蹄鉄が四つ、額に打たれて飾られている。
ついに帰って来なかった相棒を、クウェイはこの部屋で一人、待ち続けていたのだろうか。
綺麗に保たれたベッドや壁に飾られた蹄鉄を見て、セロは心が締め付けられるのを感じた。
「なんか……すぐ、そこにいるみたいだよな。クウェイさんとホートモンドさんが……」
ケリーは悲しそうな目でクウェイのベッドを見つめている。
本当に今朝まで……いや、ついさっきまでクウェイやホートモンドさんがここにいて、たった今部屋を出て行った……そんな彼らの気配がまだ残っている気がする。
壁にかけられた制服、顔を洗うための水が汲まれていたはずの水差しと、そばに置かれたシワの寄ったタオル。部屋の奥の机に積まれた本に、クウェイのベッドに立てかけられた古いギター。
二人の生きていた跡が至るところに散らばっていて、セロは迂闊に足を踏み出せずにいた。
心の底から込み上げてくる熱いものを感じて、セロは瞳を閉じる。姿勢正しく俯く彼に続いて、ケリーも黙祷を捧げた。
クウェイやレイからの返事はなかったが、しばらくして二人が顔を上げると、不思議なことに心身にのしかかっていた重みが、すっと外れたような気がした。
「さてと……急がないと朝になっちまうな」
二人はともに、たくさんの本で埋まった本棚をふり返る。
長い夜になりそうだが、僕たちが追い求める答えはきっと、ここにあるはずだ。




