第64話 強化訓練
誰もいない大浴場を出たセロは、すっかり暗くなった廊下を歩いていた。部屋着に着替えた彼の髪は、まだしっとりと濡れている。
部屋に戻りながら、彼は思考を巡らせていた。
明日の朝は、いつも通りで大丈夫だろう。まずはディノの訓練と房の掃除を済ませる。それから、タークの飛翔訓練をするのだが……普段の様子を見る限り、開始時間を早めないと正午までに終わらないだろう。
タークの飛翔訓練さえ終われば、あとの作業は彼一人でもできる。そうなれば、自分はヴェルーカのことに専念できるが、午後の時間が削れれば削れるほど、ヴェルーカと関わる時間は無くなってしまう。
夕方にはディノに夕飼いを与えなければならないため、セロが騎士の訓練場にいられるのは、ほんの数時間だ。
悩みの種になっているのは、時間の都合だけではない。
セロはこの一週間で、タークの訓練内容を大きく変えようとしていた。自分がいなくなっても困らないよう、タークの苦手意識を徹底的に解消しておかなければ。
入学から早くも半年が経過したが、タークのように先輩の指導下で基礎訓練をしている一年生は、もう片手で数えられるほどしかいない。
セロが旅に出ている間、タークは別の班に移動することになる。だが、このままでは周囲との差を埋めるのに苦労するだろう。そうならないように、セロは残りの七日間で、タークにできる限りのことを教え込む。つまり、短期間の強化訓練を行うつもりなのだ。
しかし、ターク自身がこの計画に賛成してくれないと意味がない。彼はまだ、一週間後にセロがいなくなってしまうことも、班が変わることも、何も知らないのだから。突然こんな話をしてしまえば、怪しまれてしまうかも知れない。
いっそのこと、もう、すべて話してしまおうか。
いや、まだだ。
今、話せば、タークはきっと混乱してしまう。彼が拒絶してしまったら元も子もない。
ああでもない、こうでもないと頭を悩ませながら歩いているうちに、セロはいつの間にか部屋の前に着いていた。
思考を引きずりながら扉を開けると、まだロウソクの火は灯ったままだった。先にタークが帰っているはずだが、火の始末をせずに寝てしまったのだろうか。
扉が閉まる音に気がついたのか、ベッドの上で寝転んでいたタークが体を起こした。
「あ……セロさん。遅かったですね」
タークはベッドの上に腰かけて、洗濯桶にタオルを入れるセロを、ぼうっと眺めていた。
「用事は終わったんですか?」
「ああ、済んだよ」
タークに寝るよう促しながら、セロは机の上に置いてあるロウソクの火を吹き消した。たちまち真っ暗になった部屋の中で、窓から差し込む月明かりを頼りに自分のベッドへ向かう。
セロは薄いカーテンを閉めて、静かに横になる。毛布を腹までかけて寝転ぶと、カーテンの隙間から漏れた光が、ベッドの上に窓枠の影を落としていた。
「なかなか帰って来ないから、何かあったのかと思いました。それで、用事って何だったんですか?」
闇から聞こえて来るタークの声は、どこか舌足らずで眠気を含んでいる。眠いなら早く寝た方がいいと思うのだが、おしゃべりなタークは睡眠よりも会話を選んだようだ。
「そうだな……簡単に言うと、明日から騎士の手伝いに行くことになったんだ」
「へえ、いいですね!ぼく、セロさんがお手伝いに行ったら、騎士さんたちも助かるんじゃないかなって、思ってたんですよ。作業するの、すごく早いですから。……あれ?でも、セロさんはそういうの苦手そうなのに、珍しいですね」
セロが何も答えないでいると、タークは一人で推理を始めた。彼は何かブツブツと呟いていたが、答えはすぐに出たようだ。
「あ、もしかして、ケリーさんに頼まれたんですか?もし、そうだったら、セロさんが断らないのも納得ですね」
「……そうかも知れないな」
「絶対にそうですよ。というより、それ以外は思いつかないです」
セロは目を閉じ、深く息を吸って吐いた。
「ターク。話のついでに、お願いしたいことがあるんだが聞いてもらえるか?」
「はい、もちろんです」
「ありがとう。僕は午後から騎士の手伝いに行くんだが、余裕をもって動けるように、正午までにタークの飛翔訓練を終えたいんだ。そのためには、訓練をもっと早く始めないといけない。だから、明日からは一時間早く訓練場に来てほしいんだが……できるか?」
さあ、朝が苦手なタークはどう答えるだろうか。
『ふええ……早起きするんですかあ……』
そう言ってベッドの上で泣きべそをかくタークを想像していたが、そんなセロの予想を覆す返事が返ってきた。
「できます!」
「おお、そうか。とても助かるよ。ああ、それと……」
セロは付け足すようにして話を繋いだ。
「実は、そろそろタークの訓練内容を変えてみたいと思っているんだ。最近は特に頑張ってくれているから、次の段階に進んでも問題ないくらいに上達しているし、早起きするなら、訓練場が空いている間に難しいことにも挑戦できるだろう。自信がなければ、もう少し基礎練習を続けるが……どうだ?」
セロが口を閉じるや否や、子どものようなはしゃぎ声が部屋に響いた。
「いいんですか!ぼくも、もっと色んなことを教わって、セロさんみたいになりたいです!」
セロは微笑んで、毛布を肩まで引き上げた。
「よし、わかった。……さあ、そろそろ寝ないと起きられなくなるぞ」
「はーい。セロさん……おやすみなさい」
タークのあくびに続いて、穏やかな寝息が聞こえてきた。寝付きのよさでは、彼の右に出る者はいないだろう。
セロは薄暗い虚空を見つめながら、タークにいつ、すべてを打ち明けるべきかという、新たな悩みを頭の中で転がしていた。
さっきのように、話の流れに任せてしまえる内容ではないだけに、切り出す機会を未だに見つけ出せずにいる。
堂々巡りの思考の迷路で、セロは完全に出口を見失ってしまっていた。




