第63話 ケリーの願い
ケリーは馬房の壁に手をつきながら、ヴェルーカに歩み寄っていく。
セロは慌てて声をかけた。
「ケリー、無理するな」
軽く手を上げて答えると、ケリーはヴェルーカの斜め前に静かに腰を下ろす。彼はヴェルーカの首を優しくなでながら、格子越しに見守るセロを見上げた。
「セロも来いよ。ヴェルーカは人を傷つけたりしないからさ」
セロは戸惑っていたが、ケリーに促されて馬房の中へ入った。ふかふかと沈むおがを踏みしめながら、ヴェルーカに近づく。
「もしかして、怖いのか?」
セロは正直に答えた。
「……少し」
「へえ、珍しいな」
ケリーは楽しそうに笑った。
「大丈夫、怖がるなって。ほら、こうやって、よしよしって撫でてやってくれ」
「……わかった」
セロはそっと手を伸ばす。ヴェルーカはディノよりも、はるかに小さいはずなのに、小柄な体には似合わないほどの存在感があった。
指先がクリーム色のたてがみに触れたそのとき。ヴェルーカは頭をセロの方に向け、じっと見つめ始めた。
黒い水晶玉のような瞳がセロの姿を映し、薄桃色の鼻が匂いを嗅いでいる。
セロがたてがみを指で梳くようにしていると、ヴェルーカの向こう側からケリーの声が聞こえてきた。
「ヴェルーカはセロに興味があるみたいだな。やっぱり、おまえを連れて来て正解だったよ」
どうやら悪い事態にはなっていないらしい。だが、ヴェルーカはセロを警戒しているのか、時折耳を下げて、ケリーにちらちらと視線を向けている。
馬と仲良くなるには、どれくらいの時間がかかるんだろう。ヴェルーカの様子を見る限り、一週間では足りなさそうだ。
「どうだ?ドラゴンよりもあったかいだろ」
ケリーにそう言われて、セロはそっとヴェルーカの首に手をあてた。透き通るようなたてがみの下で、細かい毛並みを感じ取る。馬体の芯から湧き出るような温もりが、手のひらにじんわりと広がった。
「馬って、こんなに温かい動物だったんだな」
「そうだぜ、知らなかったか?」
しみじみと頷くセロに、ケリーは訊ねた。
「ちなみに聞かせてもらうけど、ドラゴンか馬だったらどっちがいい?」
「ドラゴン」
即答されて、ケリーは苦笑した。
「そうだよなあ。でも、一週間後には絶対に馬……いや、ヴェルーカって言わせてやるからな!」
「楽しみにしているよ」
二人が会話を楽しんでいると、体に虫が止まったのか、ヴェルーカが犬のように全身をふるわせた。ブルルッと鼻を鳴らすヴェルーカに驚いて、セロは慌てて手を引っ込める。
ケリーは声を出して笑った。
「アハハッ!セロって意外と怖がりなんだな!」
「ああ……残念ながらそうみたいだ」
「でも、その方がいい。馬と関わるなら、常にある程度の緊張感がないとダメなんだ。そうじゃないと、ケガするからさ」
立ち上がるケリーにセロが手を差し出すと、彼はその手を支えにして歩き出した。
無事に馬房から出たケリーは、閂を戻すと満足げに息をついた。
「よし、ヴェルーカへの挨拶も済んだことだし。そろそろ帰るか?」
「そうさせてもらおうかな。夕刻の鐘が鳴るまでに、ディノの夕飼いを用意しておきたいんだ」
「セロ……ヴェルーカの前でそれを言うと、何か違う意味に聞こえるぞ」
「ああ、すまない。悪気はないんだ」
連絡橋に続く階段へ戻りながら、二人は他愛もない話をした。こうして会話をするのは、いつぶりだろう。
ケリーが遠征に出てから、そんなに日は経っていないはずなのに。最後に騎士の訓練場で話したのが、もうずっと昔のことのように感じる。
「それで、明日の集合時間はどうする?午前中はセロもディノの世話があるし、後輩君の訓練もしないといけないだろ?」
「そうだな……なるべく、午後の始まりには来られるようにするよ。細かいことは、明日の様子を見てから決める。それでどうだろう?」
「わかった。オレも、セロが来るまでにグレイの世話を終わらせておく。そうすれば、あとはヴェルーカに集中できるからな」
「まさか、その体でグレイスターに乗るのか?」
「いや、まだ無理だ。グレイの運動は、他の班の騎士に頼んでるんだ。
オレが中途半端に復帰したせいで、みんなの足を引っ張ってるのはわかってる。……でも、その代わり、オレにできることは全部やるって決めてるんだ。飼付けとか掃除は時間がかかるけど、手入れに使うタオルを洗うくらいなら、一人でもできるからさ。
騎乗はまだ難しいけど、一日でも早く動けるようになって、迷惑かけた分を返したいんだ」
ケリーはふり返って、すっと目を細める。視線の先では、騎士たちが各々に騎乗訓練をしていた。
「……ケリーなら、明日にでも復活できるさ」
セロの呟きが届いたかはわからないが、彼はしばらくの間、ケリーと並んで景色を眺めていた。




