第119話 ふたり
夜の森は静まり返っていた。
セロはランタンの灯りを頼りに、深い闇を進む。小さな灯火を先頭にして、三頭の馬たちは一列に並んでついて来る。
ブラッドウルフの鳴き声も聞こえなければ、気配も感じない。静寂に沈むこの森が、魔界軍の支配下にあるなんて信じられなかった。
枝葉を踏む足音に混じって、水の流れる音が聞こえてくる。セロは立ち止まって、耳をすませた。馬たちも歩みを止めると、それぞれに耳や鼻を動かしている。
小川の方向を探っていると、ヴェルーカがセロを追い越して、意気揚々と進み始めた。立ち尽くすセロをふり返ると、ヴェルーカは「ついて来て。」と言わんばかりに先へ進んだ。
ヴェルーカについて行くと、数分もしないうちに小さな川にたどり着いた。ランタンの灯りを反射して輝く川は、草地を縫うように細く流れている。
ヴェルーカは野外訓練で、何度も森を訪れている。老馬の智という言葉を使うには、まだ若いだろうが、ここでは地図より馬を頼る方が確実だ。
「お手柄だな、ヴェルーカ」
川に手をつけると、ひんやりとした水が指の間をすり抜けていく。両手にすくって飲んでみると、眠気に浸っていた頭が冴える気がした。
セロがバケツに水を汲んだのを合図に、馬たちも続々と飲み始めた。たくさん走って喉が乾いたのだろう。競うように飲む三頭の飲みっぷりは、小さな川を飲み干しそうな勢いだ。
焚き火まで戻ったら、すぐに鞍を外そう。馬たちが少しでも休めるように。
ヴェルーカの汗ばんだ肩を撫でていたそのとき。
突然、対岸の茂みがザワザワとささめいた。まるで、何者かが草を掻き分けるように。
ヴェルーカは身を震わせて、頭を高く掲げた。他の二頭も同じように、茂みを凝視している。
ブラッドウルフか、人か、それとも魔界兵か。
セロの頭に浮かぶ選択肢は、どれも物騒なものだった。ランタンを向けてみても、草むらの奥には灯りが届かない。
馬たちはいつでも逃げ出せるように、重心を後ろに構えている。セロが跨るまで待ってはくれないだろう。
一か八か。セロは剣に手をかけた。
「誰だっ!」
茂みに向かって怒鳴ると、草の音は一瞬だけ鳴り止んだ。
しかし、次の瞬間。
背の高い草の茂みから、人影が飛び出してきた。
マントに身を包んだ人影は、小川を越えて目の前に着地する。膝をついて俯く姿を見て、セロの脳裏に嫌な記憶が蘇った。
『魔界兵……!』
セロが剣を引き抜こうとしたのと同時に、人影がすっくと立ち上がる。ランタンに照らされた影の正体を見て、セロは剣を鞘に収めた。
「君は……」
明かりの中に姿を現した少女は、わずかに顔を上げた。目深に被ったフードの下で、灰色の瞳がセロを見つめている。
「こんな所で何を――」
少女はセロの言葉を遮って、彼の横を通り過ぎていく。
セロには、まるで関心がないようだ。
「待ってくれ」
セロはバケツを持ちなおすと、少女の背中を追った。少しでも目を離せば、少女は夜の闇に溶けて消えてしまいそうだった。
少女を追うセロに馬たちも続く。二人と三頭の行列は、焚き火に続く薄い獣道を辿っていた。
「さっきは、すまなかった。君たちを驚かせてしまって」
セロは先を行く少女に声をかけた。
「君の名前はたしか……メーノ、だったね。ジンが教えてくれたんだ」
メーノはふり返ることなく、黙々と歩き続けている。沈黙が気不味くて、セロは浅い話題を引っ張り出した。
「僕の名前は、セロ。自己紹介が遅れてしま――」
セロが名乗ったそのとき。
それまで無視を決め込んでいたメーノが急に足を止めた。
「どうした……?」
少女は肩越しにふり返ると、じっとセロの目を見つめた。
顔に穴が空きそうなほど、凝視されている。
セロはこの状況に、なぜだか既視感を覚えた。
「……メーノ?」
既視感の正体を思い出すより先に、メーノは再び前を向いて歩き始めた。
ぼんやりと広がる焚き火の明かりに重なって、少女の輪郭はだんだん曖昧になっていく。
セロは夜の森に取り残されないよう、慌ててメーノの背中を追った。




