第109話 おとぎの使者
旅の支度は、すべて終わった。
あとは、ヴェルーカと共に出発するだけだ。
何もない虚空を、ぼんやりと見つめていたとき。セロはふと、誰かに呼ばれた気がして英雄の絵へ目を向けた。
物が名前を呼ぶはずがない……きっと、気のせいだ。頭ではそう思いながらも、彼の足は絵に向かっていた。
古い額縁に色あせた紙。
誰に見られることもなく、同じ場所で遠くを見つめる二人の英雄。
絵を見納めていたセロは、額の裏側がなんとなく気になって裏返してみた。
薄い木の板に止め具が施されているだけの額。一見すると、それだけの物に見えてしまうが、夜目の効くセロの瞳は、そこに書かれた小さなメッセージを見逃さなかった。
額の左下の角に、丁寧な字でこう書かれている。
『おとぎの使者から空と大地の英雄へ。若き勇者のお二人に、幻狼様のご加護がありますように。――ヴィルト』
幻狼というのは、この国に古くから伝わる八頭の神狼のことだろう。ヴィジョン・ウルフとも呼ばれる幻狼は、光を司る狼として描かれている。
この絵を描いたヴィルトという人物は、古の神話を信仰しているのだろうか。
おとぎの使者は英雄たちと、どんな関わりがあったのだろう。
絵の中の二人の紋章を見る限り、絵が描かれたのは彼らが四年生のとき。つまり、まだ英雄になって間もない頃から遠征までの間に、三人は出会っていたことになる。
彼らがどのような経緯で知り合ったのかはわからないが、二大英雄は肖像画を描いてもらうほど、ヴィルトと親しかったようだ。
絵の過去に思いを馳せていたセロは、ふいに気がついた。
『もしかすると、ヴィルトさんなら英雄について何か知っているかも知れない。』
神狼を信仰している者は多くない。名前と宗教だけを頼りに人を探すのは骨が折れるだろうが、英雄と関わりのあった人物なら、知名度もそれなりに高いはずだ。
この名前を覚えておいて、損はないだろう。
セロは静かに絵を戻すと、額縁の英雄に背を向けて、静まり返った廊下を歩き始めた。
あまり遅くなると、明日の朝に響くだろう……部屋に戻ったところで眠れる気はしないが。
部屋の前に着いたセロは、心の準備が整わないまま扉を開いた。いつもはロウソクの光に溢れる部屋は暗く、闇の中からタークがすすり泣く声が聞こえてくる。
自分のベッドに向かう途中で、セロはほんの一瞬、足を止めた。
だが、彼は何も言わずにベッドに横たわった。
毛布に潜り込んだタークのシルエットが、話しかけられることを拒んでいる気がした。
タークの静かに泣く声が、心に鋭く突き刺さる。
何が正しいのか、何をすれば正しかったのか。今さら悩んだところで、もう戻ることはできない。
出口のない思考を繰り返すことに疲れたセロは、やがてすっと瞼を閉じた。
考えることを諦めたセロを、あの日の記憶が迎えに来る。色あせることのない、大切な思い出に手を取られながら、彼は暗い夜に別れを告げた。




