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ぼくらの森  作者: ivi
第三章 ―旅立ち―
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第105話 ディノとの別れ

 静寂のなか、セロはふらつく体で何とか立ち上がる。


 体の軸が定まらず、震える足は今にも砕け散ってしまいそうだ。だが、今は自分の身を気にしている場合ではない。


 「ディノ……ッ!」


 すぐ目の前では、青いドラゴンが頭を垂れていた。幼竜がするように、翼で体を包み込むようにしている。


 その姿は傍からすると、ただの寝ているドラゴンにしか見えないだろう。だが、乗り手であるセロには、命のない作り物のように見えた。


 この、ドラゴンが……本当にディノなのか?


 セロはよろよろと歩み寄り、ドラゴンの額にそっと手を触れる。手のひらに感じる細かい鱗の感覚は、いつもと何一つ変わらない。


 しかし……彼女の体はあまりにも冷たすぎた。


 瞼を閉じて、死んだように眠るディノ。生気を失った相棒を前にして、セロの目から涙がこぼれ落ちた。


 「ディノ……本当にすまない……!」


 ドラゴンの意識の糸を絶ったことで、セロは大きな心の支えを失った。胸の底から染み出す不安は、親と繋いでいた手が離れてしまったときの感覚に似ている。


 結果としては、ディノと出会う前の自分に戻ったことになるのだろう。しかし、それはドラゴン乗りの枷から外れて、自由になったという意味ではない。


 色や形のない大切なものを、自らの手で壊してしまった。心の一部が欠けて、ひび割れて、穴が空いたみたいだ。


 動かなくなったディノの頭を抱きしめていたセロは、ふいに背中に突き刺さる視線を感じて、ゆっくりと顔を上げた。


 誰か、いるのか……?


 ふり返ると、夕方の淡い光を背に立つ大勢の人影が、ディノの房を取り囲んでいた。数多の目が、檻の中のセロをじいっと見つめている。


 好奇、嫌悪、嫉妬……大嫌いな視線に、思わず怯んでしまう。


 セロは後退り、柔らかい寝藁の上に尻もちをついた。反響する耳障りなざわめきを耐える彼は、記憶の中で怯える十四歳の自分に言い聞かせた。


 「落ち着け……これは幻覚だ。見えている景色も、聞こえている音も、ディノを拒んでいた頃の記憶なんだ。だから、大丈夫。何も恐れなくていい。きっと、すぐに助けが来る……僕は知っているんだ」


 『すみません……っ!通して下さい!』


 緊張によって締め付けられていた心臓の鼓動が、落ち着き始めたとき。外の人影が不規則に揺らめくと、一人の青年が学生たちの間を縫ってやって来た。


 さっきまでセロに向けられていた視線が、肩で息をする青年騎士に注がれる。注目を一身に浴びた青年は、居心地が悪そうに眉をしかめた。


 『どうして、騎士がここにいるんだ?』


 『ほら、こいつだよ。ジアンの弟の面倒を見ているっていう騎士。』


 『本当かよ……!騎士団には変な奴もいるんだな。』


 ヒソヒソと聞こえる言葉の針が、青年の心に傷を刻む。だが、彼は野次馬に屈することなく、砂にくすんだ手をセロに伸ばした。


 『……おいで!』


 青年の手がセロの腕に触れた瞬間、夕方の赤に満ちた幻覚が、夜の闇に溶け込んでいった。セロが我に返ると、そこには暗幕の打ち付けられた壁があるだけだった。


 誰もいない、静まり返った竜舎。


 ようやく体の感覚が戻った気がして、セロは大きく深呼吸をした。肺いっぱいに空気を吸い込むと、頭にかかっていた霧が晴れていくようだった。


 セロは背後のディノに目を向けた。


 ジアンを失った経験はきっと、ディノのトラウマになっているのだろう。どんなに時が流れても、彼女の心の傷が癒えることはない。


 だから、ディノは成竜になったにも関わらず、幼竜みたいに眠るのだ。翼で自分を抱きしめて。孤独を感じた人間が、その手で自身を抱きしめるように。


 本当はあのとき、後継者であるセロがディノの不安や悲しみに、寄り添わなければならなかったのだ。


 だが、十四歳のセロにはできなかった。


 起きていても、寝ていても、いつも感じていた。竜舎へ引き寄せられる感覚。当時のセロは、見えない糸で引っ張られる不気味な力に、必死で抗い続けていた。


 兄とディノのことは、できる限り考えない。

 竜舎には一歩たりとも近づかない。

 自分がここにいる理由なんて、わからない……知りたくもない!


 何度、拒絶されても。ディノはセロが来るのをずっと待ち続けた。

 耳を塞がれ、どんなに聞こえないふりをされても、彼女は意識の糸を通じてセロに呼びかけ続けた。


 そして、ある日、事は起こった。


 忘れることなどできない、あの日。十四歳の自分はなぜ、ディノの元へやって来たのか……それは今でもわからない。覚えているのは、あの日もいつも通り、クウェイが来るのを兄の部屋で待っていた、ということだけだ。


 それ以外のことは、何も思い出すことができない。


 どうやって、竜舎へ向かったのか。

 どうやって、ディノを見つけたのか。


 記憶を辿っても、何も覚えていない。


 檻の中で目が覚めたとき、何が起こっているのか、わからなかった。あまりの恐怖に混乱して、逃げることすらできなかった。


 目の前にはディノがいて、扉の外には知らないドラゴン乗りたちがいる。悪夢のような光景に、ただ震えていた。


 一秒が何時間にも感じる、長い長い時間が過ぎたあと、竜舎での騒ぎを聞いたクウェイが駆けつけてくれた。


 だが、その頃にはすでに、セロの中で何かが大きく変わり始めていた。ディノに対する恐怖が消えて、あんなに嫌だったドラゴンとの意識の繋がりが、苦にならなくなっていた。


 竜舎を出て、クウェイに手を引かれて歩くセロの頭の中は、ディノへの興味で満ちていた。


 もしかしたら、今ならディノに乗れるんじゃないか。

 どこか、遠くへ飛んで行けるんじゃないか。


 セロは自身の思考に疑問を抱きつつ、心ではそんなことを思っていた。


 あとで聞いた話によると、ディノはあのとき、眠るセロを翼で守るようにして、大人しく寄り添っていたそうだ。


 三年前のあの日と同じように、翼で身を包んで眠るディノ。セロは彼女の鼻先に、そっと触れた。


 ディノの負った苦しみは、無駄にしない。

 必ず兄さんを見つけ出す。


 たとえ、望まぬ結末を迎えたとしても。英雄の過去に蔓延る黒い噂の真偽を確かめるために。そして、学舎が第一回大草原遠征失敗の呪縛から抜け出すために。


 絶対に、兄さんたちの元へ辿り着かなければならない。


 「……行ってきます」


 別れの言葉を言い残して、セロはドラゴンたちの寝息が響く竜舎を後にした。


 やり残していることは、あと一つ。


 最後の旅支度に向けて、セロは真っ暗になった訓練場を黙々と歩いた。


 掠れた雲が流れる夜空に浮かぶ、やせ細った三日月のように欠けた心を抱えて。

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