第100話 馬とドラゴン
ヴェルーカの馬房へ向かっていたセロの耳に、聞き慣れた声が響く。
「おお、来たな!待ってたぜ、セロ」
セロは顔を上げた。
「遅れてすまない」
「気にすんなって」
ケリーは馬房にいるヴェルーカと扉越しに遊んでいる。薄桃色の鼻を緑色に染めた馬は唇をとがらせて、おやつをねだっていた。
「……いよいよ、明日だな」
ケリーはヴェルーカの鼻を指でつつきながら呟いた。
「……そうだな」
しんみりとした空気に耐えられなかったのか、ケリーはすぐに口を開く。
「絶対、無事に帰って来いよ。セロもヴェルーカも、必ず二人そろって帰って来い」
セロが頷くと、ケリーはようやく向き直った。
「ヴェルーカは、二人も騎士を失ってる。きっと、三度目はない。次に騎士を失ったときが、ヴェルーカの最期だ」
「わかっている。必ず、生きて帰るよ」
「うん。頼んだぜ、セロ」
ケリーは馬房の扉に背を預けて座り込んだ。騎馬戦で疲れてしまったのか、いつもの元気が感じられない。
「それにしても……どうして、あんな無茶をしたんだ。騎乗できる状態じゃないことは、君自身が一番わかっているはずだろう」
セロにたしなめられると、ケリーは照れくさそうに頭をかいた。
「へへ……っ。オレさ、一度でいいからセロと本気で戦ってみたいって思ってたんだ。明日からしばらく会えなくなるだろ?だから、今日が最後のチャンスだと思って」
深いため息をつくセロに、ケリーは歯を見せて笑った。その表情には少しも影がない。夏が過ぎても咲き続けるひまわりみたいな、屈託のない笑顔だった。
「何かさ……この一週間、本当にあっという間だったよな。ちょっと前までは、手入れも引き馬もたどたどしかったのに。ほら、覚えてるか?最初に手入れしたとき、セロはヴェルーカのおもちゃになってたよな」
「ああ、そうだったな」
騎士の訓練場に来た初日。
セロは使い慣れない鉄爪を手に持って、ケリーの説明通りにヴェルーカの隣に立った。
蹄の裏側を鉄爪で掘る……はずだったのだが、あの日のヴェルーカは頑なに前足をあげようとしなかった。
「どうしたんだ?」
繋ぎ場の外にいたケリーが首を傾げた。
「足が痛いのか?」
ケリーは左手を伸ばして馬の足に触れた。膝下の薄い皮膚は、ひんやりとしている。
「うーん……?熱はなさそうだけど」
セロはもう一度、ヴェルーカの前足に手をかけた。
さっきより強く馬の肩を押すと、小さなヴェルーカは簡単に揺らいだ。バランスが崩れたのか、ヴェルーカは体勢を立て直そうとして片足を上げた。
「お、上げてくれたな」
二人が安心したのも束の間、ヴェルーカは上げた足を瞬時に前に出して、難なくセロの手から逃れた。彼が蹄を目で追うと、ヴェルーカは前足を器用にクロスさせて、足を取られないようにしていた。
「ハハハハハッ!なんでそうなるんだよ!ヒヒヒッ……はあー、おかしいっ!」
ケリーが爆笑しているのを見ると、ヴェルーカは満足そうに鼻を鳴らした。セロにちらりと視線を向ける顔には、どこか人間じみた表情が浮かんでいる。
馬に遊ばれているのだと、すぐにわかった。
「……何だ?」
不機嫌そうに眉をしかめるセロを一瞥すると、ヴェルーカは勝ち誇った顔で前足を上げてみせた。
駄目だ、完全に舐められている。
『また遊ばれるのでは……。』というセロの心配に反して、ヴェルーカは今までの態度が嘘のように、素直に足を上げてくれた。
蹄から固まったおが粉や土が落ちると、歪な形の空洞が現れる。
そういえば、馬の蹄の裏がどんな形をしているかなんて、一週間前までは知りもしなかったな。
「まあ、今でも遊ばれてるんだけどな」
ケリーに笑われて、セロは肩をすくめた。
ヴェルーカの遊びに対する探求心は、これから先も尽きることはないだろう。
「エダナがいたときも、こんな感じだったのか?」
セロが訊ねると、ケリーは膝に頬杖をついて首を横にふった。
「いいや、こんなに甘えん坊じゃなかったぜ。今より、しっかり者のお姉さんって感じだった。まあ、エダナもヴェルーカも女の子だしさ。もしかしたら、ヴェルーカはエダナに負けないように気取ってたのかもな」
「乗り手の性別によって、馬は変わるのか」
「うん、そうらしいぜ。特に牝馬は人を見るんだってさ。馬っておもしろいだろ?人間みたいに性格も個性も違ってて」
ケリーはニヤリと唇を歪めた。
「ちなみに聞きたいんだけど。馬とドラゴンだったらどっちが――」
「ドラゴン」
一週間前と同じく即答されて、ケリーは大げさに肩を落としてみせる。だが、彼は悔しがるどころか、面白がっているようだった。
「……だと思っていた」
「えっ?」
親友が続けた予想外の言葉に、ケリーの笑顔が消えた。




