ルナルナレボリューション三世
フィックルキャットは我が侭猫という意味です。
我が侭な、可愛らしい!!!猫みたいな女の子に振り回される、真面目な男のちょっと可哀想なお話です
はたして、本当にこんな事をしていいのだろうか?
いや、それよりもこの実験は成功するのだろうか?
鷹山由紀夫は一抹の不安を感じながら、明け放たれたドーム状の天井から見られる、自分の顔が映ってしまいそうなほど輝いている満月に目を向けた。その満月は由紀夫にいつも自信をくれる。
エクセレント!素晴らしいフルムーン。
新宿御苑に程近い、超高層マンションの屋上にあるガラスドームに囲まれたラボラトリーの真ん中には、教会のパイプオルガンさながらに天井まで連なるクリスタルの結晶板があり、月光を浴びて数百枚ある全ての板が怪しく光っている。そして、その中心には人が十分に入れるほどの二つの透明なカプセルがあった。そのカプセルは驚くほど透明なクリスタルの装置の中に、二つ並んで斜めに埋まっている。これは見るからに特殊な装置である事は間違いない。
そのカプセルの一つには裸の若い女性が入っており、目を瞑ってお腹の辺りで腕を組んでいた。冷却装置が働いているからか、足元から胸の辺りまでカプセルのフードが霜で曇っているが、中にいる女性が裸であり、しかもとても美しいのはすぐ分かる。
肩まで伸びている、少しウェーブがかったブラウンヘアー。雪と見間違うばかりの滑らかな肌。少し狭い額と整った眉の下には、生意気そうな丸い鼻がある。目が開いていたらきっと猫のような瞳だろう。そして、薔薇の蕾の様な可愛らしい唇。カプセルに頭が届いていないので、背はあまり高くないだろうが、その整ったスタイルはうかがえた。
一方、隣のカプセルには誰も入っておらず、そのせいかカプセル全体が曇っていた。
その巨大な水晶の山みたいな大掛かりな装置の前で、由紀夫は思わずうっとりとしながら彼女を見ていた。
彼女の名前は川尻エリカ。
由紀夫の愛しの恋人なのだ。
彼はしばらく鼻の下を伸ばしながら眺めていたが、時間が迫っているのに気が付くと、顔を赤らめながら咳き込んでコントロールパネルを操作した。
開け放たれた天井から夜の風が入り込んで、彼の心を騒がせる様な音をたてるから、思わず操作する指先が震えてしまう。
別に寒いわけじゃない。秋になりかけとは言え、むしろ汗ばむくらいなのだけど、やっぱり緊張があるのだろう。
「さぁ、始めるよ。エリカ」
由紀夫は彼女に声をかけると、パネルの真ん中で今か今かと待ち構えていた赤いボタンを押した。すると、パイプオルガンの様に聳え立っていた巨大な装置から白い煙が床を滑るように噴出し、コンプレッサーが起こす軽い振動と共にあたりに広がった。
それと同時にイルカが鳴くような作動音が部屋中に鳴り響くと、まるで孔雀が羽を広げるようにクリスタルの結晶板が動き出した。雲一つ無い空で煌々と輝いている満月の光を受け止めるように、何百枚の結晶板がそれぞれの決められた場所に配置にされた。
すると、それらのクリスタルの結晶板を伝って月の光が徐々に二つのカプセルの上にある、ボーリングの球ほどの、大きくて丸い透明な水晶の結晶に集まりだした。その水晶の球は光沢のあるプラチナのような金属装置の間に浮いており、その装置から二つのカプセルには太いパイプと何本ものむき出しのコードがつながれていた。
何枚重なっても透明度が衰えないほど磨き抜かれたクリスタルの結晶板は特殊なコーティングが施されており、純粋な月の光だけを吸収し、中央に設置された大きな球に集め始めた。この装置は、月光のろ過装置、純粋集結装置なのだ。
「十五夜お月さん、ご機嫌さん♪」
由紀夫は鼻歌を歌いながら、月の光が集まっていく過程を眺めていた。夜空と月がこの調子なら、あと三十分ほどで十分な「ルナティックパワー」を溜める事が出来るだろう。何度も実験を重ねているからすっかり計算されつくしているし、初めての人間相手の実験とは言えきっと問題はないだろう。
きっと成功するはずだ。
それにしても、何度見てもこの光景は心を奪われてしまう。
ろ過され、凝縮れた月の光の何とも言えない神々しさ。大きな水晶の球の中で、まるで踊っているかの様に妖しい光を波打たせている。「ルナティックパワー」が全て溜まったなら、カプセルの上にある水晶の球は第二の月となるのだ。
彼はこの美しい光景をエリカにも見せてあげたいと思ったが、カプセルの中で眠っている彼女には残念ながら見せられない。
しかし、これは彼女が言い出した事なんだから仕方ないだろう。目が覚めたらきっと彼女も実験の成果に驚くはずだ。まあ、驚かずにはいられないだろう、何しろ自分がもう一人現れるのだから。
「あぁ、エリカが二人になったらなんて素晴らしい事だろう。むふっ」
由紀夫は集められた月の光と、カプセルの中でまるで子猫の様な穏やかな寝顔をしているエリカの顔を見ながら、つい一ヶ月前の事を思い出していた。
一ヶ月前、大学の夏休み中だったエリカは、新宿の超高層ビルの最上階にある由紀夫のマンションのキッチンで、一人きりの遅い朝食を取っていた。焼いたクロワッサンとカフェ・オ・レを寝起きでぼさぼさの頭をそのままに、彼女は半分瞼を閉じながらもぐもぐと口を動かしていた。
一方、由紀夫はマンションの屋上にある自分のラボラトリーで「ルナティックパワー」凝縮装置、名付けて「ルナルナ、エボリューション三世」の製作と実験に没頭していた。この装置は生物の細胞における月の光の影響を最大限に引き出し、ミクロゲノム操作によって特別培養された細胞核の分裂速度を速め、なおかつコントロールして生物のクローンを作ろうと言う、画期的な装置だった。
二十年間続けている研究と、曽祖父から四世代にわたって受け継がれた研究データに基づき、生物の記憶を形成、保存、そして、再記憶させるシステムは完成されていたが、「ルナティックパワー」を凝縮させる装置はまだ実験段階なのだ。ようやくウサギ程度の大きさの動物ならクローンに成功していたが、由紀夫としてはまだ十分ではなく、更なる研究を続けなくてはと思っているところだった。由紀夫はこの装置に二十八年の全てを捧げてきたと言っても過言では無い。
そんな彼がまな板ほどの板状の高純度クリスタルを一枚一枚精密検査にかけて、特殊媒体をコーティングしていると、ふいに後ろから声がした。
「おはよう」
パジャマ姿のエリカだった。由紀夫は作業していた手を休めると、入り口にいた彼女に向かって軽く微笑んで挨拶を返そうとした。しかし、それを彼女の言葉が遮った。
「ねぇ、天気が良いからドライブに行こうよ!私、海がいいな」
「え?でも、今日はまだ研究が・・・」
戸惑いながらそう口にする由紀夫にかまわず、エリカは言葉を続けた。
「でも、こんなに天気が良いんだから、ここで研究なんてしている事ないわよ。私は海に行きたいの!波を見に行きたいの!」
エリカがそう言ってラボラトリーの中に入ろうとしたので、由紀夫は慌てて声をかけた。
「あっ、そのままはいっちゃ・・・」
だが、エリカはかまわずサンダルの音をパタパタとさせながら、まるで猫がおもちゃに飛びつくよう
に由紀夫の近くにやってきた。
「埃が舞って水晶が汚れちゃうんだよなぁ。今やってるコーティングが・・・あぁ」
由紀夫が残念そうに水晶板に眼を落とすと、エリカは屈託のない笑顔を向けながら由紀夫の清潔な作業着越しに後ろから抱きついた。
「ねぇ、行こうよ。海行こうよ。ねぇ」
エリカは猫がじゃれる様に体をスリスリすると、張り付くような猫なで声をだした。
由紀夫はそのどうしたって可愛らしい様子に、思わず顔を赤らめてうっとりさせると、使い物にならなくなった水晶板をほっぽり出して、エリカに向き直った。
「海かぁ?」
「そう、海!きっと入れば気持ちいいよ!」
「海ねぇ。・・・でもなぁ、まだやる事が・・・」
由紀夫が不満そうなポーズを取ると、エリカは甘えたような声を出しながら、猫の様な瞳をクリリと輝かして見上げてきた。
「あのね、あのね。昨日買ったの」
「何を?」
「イチゴ柄の新しい水着!とっても可愛いの!今日着ちゃおっかな!」
彼女はそう言って心を撫でるように由紀夫を見た。長い睫毛は化粧していないのにくっきりとしており、その水晶顔負けに透き通った瞳を際立たせている。由紀夫の顔が思わずほころんだ。この顔でそう言われたらそうなるしかないだろう。
「行こう!すぐ行こう!」
鼻の穴を膨らませながらそう言ってきた由紀夫に、エリカは大げさなくらい喜んで、薔薇の蕾の様な唇を花開かせた。
「やったー。じゃあ、決まりね!」
彼女はそう言って由紀夫から離れると、くるくると回りながら、興奮したのか「ワー!」と声を出しながら嬉しそうに「ルナルナ・レボリューション三世」に近付いた。
「あっ、そっちはあまり行かないで!」
慌てて由紀夫がそう声をかけたが、エリカは聞こえなかったのか、聞く耳を持たなかったのか、すでに装置の目の前にいた。なので、由紀夫も慌てて「もう壊されちゃかなわないな」と口ごもりながら後を追った。
天井まで届きそうなほどの、煌くクリスタルの集合体をエリカは見上げていた。
「とっても綺麗ね。大きなガラス細工みたい」
エリカのすぐ後ろに来て、由紀夫は誇らしげに頷いて、それに応えた。
「そうだろ?これで月の光を集めるのさ」
「へー、月の光をね」
「あぁ、僕の曾おじいさんの頃からずっと研究を続けてるんだよ。この新宿でね。祖父によると、ここが一番月の力を受けやすいみたいなんだ。ここまで来るのに、莫大なお金がつぎ込まれてるんだよ」
すると、エリカは分かったように頷きながら、由紀夫の顔を見てきた。
「そう言えば、由紀夫の研究って詳しく聞いた事なかったけど、一体何をしてるの?」
「クローン技術さ。それもパーフェクトなね。これまでも、同じ個体の複製を作り出す事は出来ていたのだけど、生物的に同じというだけで、その個体のパーソナリティまでは植えつけられなかった。記憶みたいなね。それに、どうしたって子供から成長しなくちゃならないから、大きくなるまで時間がかかるわけだ。それを克服しようと注目されたのが月の光であって、あぁ、あそこの磨き抜かれたクリスタルボードを見て、すごいでしょ!あれで月の光を凝縮する事によって、生物の細胞活性のレベルを高め、遺伝子的に・・・」
そこまで力説して、由紀夫の口はエリカに遮られた。彼女の顔に苛立ちが浮かんでいる。
「で?要するに、どういう事?」
エリカの表情に若干焦りを感じながら、由紀夫は言葉を選んで説明した。
「つまり、個体をそのまま複製出来るって事さ。記憶や性質、そうだなぁたぶん性格に至るまで、完璧な個体がもう一つ作り出せるのさ」
それを聞いた途端、エリカの表情が一瞬で輝いた。目の奥で何やら思惑が蠢いている。
「じゃあ、例えばこれを使えば、もう一人の人間が出来るって事?まったく同じ」
由紀夫は頷いた。
「まあ、そうだね。理論的には。だけど・・・」
由紀夫の言葉をまたエリカが遮った。興奮を抑えているのか、少し声が低い。
「じゃあ、何?もしかして、私がこれを使えば、もう一人の私が出来上がるって事?」
エリカは大きな目を猫のように鋭く光らせて由紀夫をうかがった。
「まあ、そうだね。でも、人のクローンを作る実験はまだした事ないし、それに倫理上の観点から見ても重大な問題が・・・」
「やって!」
「え?」
由紀夫は驚きに耳を疑いながら、彼女の顔を見た。すると、彼女はもう一度口を開いた。
「今すぐやって!」
エリカの目は。思いがけず真剣だ。
「今すぐって・・・」
「この装置を早く完成させるのよ!」
「い、いや、でも、これから海に行くんだろ?」
その言葉に、エリカは激しく首を振った。
「それどころじゃないわ、何言ってるの!私があなたの研究の邪魔する訳ないじゃない!もう、嫌だわ。海よりこっちの方が大事よ!」
由紀夫は戸惑いの表情を浮かべながら、すっかり目を輝かせているエリカに近付いた。
「でも、さっき海に・・・」
すると、エリカは由紀夫の体に触れて、上目使いで猫のような瞳を潤ませた。
「おねがい」
彼女は耳辺りのいい、甘えるような声をだしながら由紀夫の胸に顔を埋めた。
「ねぇ、嫌なの?」
由紀夫の顔は瞬時に真っ赤になる。
「べ、別に、嫌じゃないよ。でも・・・」
「おねがい。エリカ、いい子にしているから」
由紀夫はしなだれかかってくるエリカの髪の香りにくらくらとなりながら、すっかり舞い上がっていた。こんなに甘えてくるエリカは久しぶりなのだ。
「よし!分かった!すぐに完成させよう!」
その言葉が出た途端、エリカは太陽みたいに顔を輝かせて、嬉しそうに笑った。
「やった!エリカ嬉しいわ!」
由紀夫も同じように有頂天になりながら笑い声を上げた。彼は「今日のエリカはなんて可愛いんだ」と思い、勢いに乗ってここぞとばかりに彼女の唇を奪おうとしたが、彼女はそれを察知したのか、さっと猫のように身を翻して入り口に向かって歩き出していた。
「あぁ、エリカぁ」
残念すぎて思わず由紀夫が口を尖らせると、エリカは媚びる様な目つきを向けた。
「ねぇ、作ってくれないの?」
由紀夫は、何故か自分が悪くなった気がして、慌てて首を振った。すると、エリカは急に打って変わったように眼を吊り上げて、由紀夫に向かって指をさした。
「じゃあ、早く作って!出来上がるまで、一秒も暇は無いわよ!」
そう言って、彼女は何も言えないまま立ちすくむ由紀夫を後にして、ラボから出て行ってしまった。
入り口の向こうから、去って行くエリカの声が聞こえてくる。
「あぁ素晴らしいわ!私がもう一人出来たら、そっちを大学に行かせて、私はゆっくり遊べるわ!なんていいんでしょう!」
あぁ、可哀想に由紀夫はがっくり項垂れるしかなかったのだ。
あれから、寝る間も惜しんで装置を作り上げた。理論的にはすでに緻密に構築できているし、実験の結果も間違いはなかった。だから、もう少しでもう一人のエリカと対面出来る訳だ。そしたら、あんなに魅力的で愛しい女の子が二人も自分の傍にいてくれる事になるじゃないか!
由紀夫はそう妄想を浮かべて一人で悦に酔いしれていた。
それだけが、この一ヶ月間の由紀夫のモチベーションだったのだ。
いつの間にか大きな水晶の球は十分に「ルナティックパワー」を集めており、空の上に浮かんでいる本物の月と変わらない輝きを放っていた。もう十分だろうな。
由紀夫はそう思って、パネルを操作すると、もう一度赤いボタンに指を向けた。これで、もう一つのカプセルの中にあるES細胞が活性化されエリカのクローンの体が形作られる。そして、同時にそのボディの脳にエリカの記憶がコピーされるだろう。
この大きさだと八時間はかかるだろうか。朝起きる頃には二人のエリカがいる計算になる。由紀夫は思わず笑みをかみ締めた。
しかし、一方で不安もあった。
本当にいいのだろうか?いや、それは倫理的にどうとか、実験が失敗するからとかではなく、何か言葉にも数値にも表れないような不安が心の隅にあって、それが拭えなかった。
何か大変な事が起きるんじゃないか?
そう思ったのだ。
しかし、もし実験を行わなかったら、きっとエリカが激怒するだろう。実験が失敗したと嘘をついても、きっと怒るだろうし、彼女は諦めるような性格じゃない。絶対に成功するまで何度もやらされるに決まっているんだ。それなら、今やっておいた方がいいだろう。
始まった以上、今更後には引けないのだ。
由紀夫はそう思いながら、赤いボタンを押した。
すると、装置がまた音をたてて振動し、月の光が凝縮されていた水晶の球が輝きを増すと、それを支えていた金属装置につながれたパイプを通じて、「ルナティックパワー」がまずエリカの体を包み込んだ。カプセルは光に包まれて、すっかり彼女の体を隠した。冷凍睡眠状態の彼女はきっと何も感じずに、夢の中だろう。19歳になりたての体は、すっかり由紀夫の視界から消えてしまった。これで、二時間後にはデータが隣のカプセルに送られて、新しい彼女のクローンが形成されるはずだ。もう一つのカプセルで同時進行させている細胞の成長も状態は良さそうだ。
由紀夫はまず安心して、様子を見守った。そして、座り慣れたリクライニングチェアーに腰掛けると、背もたれをいっぱいに倒して、疲れが溜まりきっている眼を閉じた。
最近、研究のおかげでろくに眠ってない。エリカが常にせっついていたせいもあるけど、やはり緊張が続くのは体に響くな。まあ、それももう少しの辛抱だ。
由紀夫はそう思いながら体の力が抜けていくのを感じた。
夢を見た。正確に言えば思い出だろうか。心地よい眠りの中、由紀夫は初めてエリカと会った時の事を思い出していた。
あれは今から半年前の事である。
由紀夫は夜も遅くなってから、新宿駅から自分のマンション‐と言っても三年前に事故で亡くなった両親から受け継いだ、先祖代々所有しているマンションなのだが‐に帰る途中、クリーム色のタイルが敷き詰められている商店街通りの真ん中でキーホルダーを拾った。それは猫のキャラクターがプリントされた皮製のブランドキーホルダーだったのだが、何よりも特徴的なのは、それに全長二十センチほどの、白い猫のぬいぐるみがくっついている事だった。
拾った瞬間、由紀夫は思った。
「何でこんな大きな物を無くせるんだ?しかも落としても気が付かないだなんて!」
すぐに持ち主に興味が湧いた。
当然だが名前は書いてなくて、中には家や自転車の鍵がついていた。見るからに女性の持ち物だとは思ったし、どちらかと言えば若い女の子だろうと思った。おばあさんがこれをもっていたら、ファンキーすぎる。それに、ここら辺は若い女の子が良くいるのだ。
研究ばかりで女の子に疎かった由紀夫は、そのキーホルダーを見て新しい出会いを思い浮かべた。まあ、若いのだから当然だろう。
由紀夫は優しそうな顔で、ひょろりとしているのだけど、小学校から白衣しか着た事が無いので、見るからに冴えなかった。小、中、高通じてあだ名が「博士」だったのは言うまでもないが、日本一の大学院で本物の博士号を取ったのだから頭脳ももちろん優秀だ。それからは彼の事を誰も「博士」とあだ名をしなくなった。何しろ周りは「博士」だらけなんだから。なので、その代わりに、「ルナティックパワー」の研究ばかりしていたから「ルナルナ」と呼ばれるようになっていた。彼を担当した女性教授がそう名付けたらしい。
そんな変わり者の彼だが、特出するべき長所がひとつあって、それは先祖代々「ルナティックパワー」を追い求めている日本の富豪一族の後継者と言う事だった。だから、新宿の一等地に超高層マンションを持ち、その屋上にラボラトリーを持ちえているのだ。
要するにボンボンなのである。
だが、由紀夫はそれを誇示する事はなかった。根が真面目だから、一族の期待通り全てを「ルナティックパワー」に捧げていたのだ。
しかし、そんな彼でも恋をするのだから世の中は不思議に満ち溢れているではないか。細胞に影響を与えるほどの「ルナティックパワー」があるのも頷けるというものだ。
ご想像の通り、由紀夫はその大きな人形の付いたキーホルダーの持ち主と恋に落ちた。
それが、都内の女子大に通っていたエリカだったのだ。彼女はその年の春に上京してきたばかりの大学一年生で、右も左も分からない新宿に遊びに来て、はしゃぎすぎたのか大切なキーホルダーをなくしてしまったのだ。
由紀夫は正直にそれを交番に届けようと思った。あんなに目立つところにあったのに、誰も気が付かないのか、それとも何かに警戒したのか、置き去りにされた猫のぬいぐるみを可哀想と思ったのかもしれない。あるいは、やはり下心があったのかも知れない。真意は分からないが、とにかく由紀夫はそれを届けようと交番に来て、そこにいた何人かの警察官に声をかけようとした。
ちょうどその時、二人は顔を合わせた。
新宿は広い上に、いつ鍵をなくしたか分からずに、彼女はすっかり困って探し回っていたのだが、まったく知らない土地だし、自分がどこにいるか分からないし、頭はパニックになっているけど、東京の人間はどこか冷たく感じて声もかけられなかった。
自分の知っている人間には強気な彼女も、知らない人間には人見知りしてしまうのだ。
上京して初めてのピンチ!
だから、交番に行くなんて彼女にとっては結構勇気がいっただろう。とにかく、彼女は動物的本能で、その交番に駆け込んだのだ。
そして、そこに自分の捜し求めていた物を持った、背の高い白衣姿の男がいたと言う訳。
何たる偶然!いや、運命の力だろう!
彼女はすぐに声をかけた。
「あぁーシューちゃん!探したよ!」
彼女はまず、落し物を拾ってくれた由紀夫ではなく、キーホルダーについていた猫のぬいぐるみに声をかけた。
当然、由紀夫は驚いた。
何しろ、交番にいる警察官に今拾ったばかりのキーホルダーを差し出して、いざ話しかけようと思ったところに、いきなり女の子が現れて自分の手からそれを奪い去ったからだ。一瞬、動きを止めた由紀夫は、ぬいぐるみを胸に抱きながら泣きじゃくっているエリカに視線を注いだ。そして、そのまま目を、いや心を奪われた。
なんて可愛らしい女の子だろう!
この場合、一目惚れというのが一番適格だろう。何しろ、お礼もまだ言われていないと言う失礼な態度を取られているのに、それすらも彼の頭から消してしまったのだから。
「どうかされました?」
泣いているエリカを不審に思った警察官に声をかけられるまで、由紀夫は彼女を見ていた。ただ、由紀夫もその質問に的確には答えられなかった。何しろ、いきなりエリカが泣き出したのだから。
なので、とりあえず自分の行動だけを説明した。すると、何故か彼女と一緒に調書を取られる事となった。
そこで初めて、エリカは由紀夫の存在を知り、改めて彼にお礼を言った。
「どうもありがとうございます」
その可愛らしい声と、猫の目そのままの彼女に、由紀夫は改めて陥落されたのだ。調書を取りながら、由紀夫はエリカの事を知り、ますます興味を持ったのは言うまでもない。
そして、交番から開放された後に、人生で一番の勇気を振り絞って彼女をお茶に誘ったのも、やはり当然の事だろう。
由紀夫はその時の事を思い浮かべながら、すやすやと楽しげな寝息を立てるのだった。
気が付くと、開け放たれた天井からは朝日が差し込んでおり、すっかりラボラトリーの中を照らし出していた。月の光よりも強い太陽光がクリスタル板に反射して、そこら中に虹を作っている。そして、寝ている由紀夫の顔にも眩しくて熱を持つ光を浴びせていた。
「う、うんっ」
由紀夫は眩しさに耐えかねるように目覚めると、大きな欠伸をして体を伸ばした。寝心地の悪いリクライニングチェアーでも驚くほど熟睡できていた。久しぶりすぎて、半ば夢見心地であったが、自分の今いる場所が分かると、昨日の記憶が思い出されたのか、その場で飛び上がった。しまった!
「エリカ!」
由紀夫はすぐに「ルナルナ・レボリューション三世」に駆け寄ると、エリカがいるであろうカプセルを覗き込んだ。すると、そこにエリカの姿はなかった!由紀夫はびっくりして、カプセルの中に頭を入れてまで探したが、どこにも姿が無い。
「エリカ!エリカ、どこに行った!」
由紀夫は必死になって叫び声を上げた。まさか、実験が失敗して蒸発してしまったのか?あぁ、何てことだ。由紀夫が顔を真っ青にして息も出来ないまま呆然としていると、後ろから聞き覚えのある声が飛んできた。
「どうしたの、由紀夫?呼んだ?」
由紀夫は慌てて後ろを振り向いた。そこには紛れもなく、何一つ欠けていないエリカがいた。いつも見ている、大きなリボンの付いたパジャマを着て、可愛らしいパンダのスリッパを履いている。由紀夫は思わず彼女に駆け寄り、力強く抱きしめた。
「あぁ、良かった。無事だったんだね」
「当然よ。大丈夫だって。それより痛いわ」
「あぁ、ごめん」
由紀夫が慌てて彼女を離すと、彼女はにっこりと笑って、ピンク色の歯ブラシを口に入れて手を動かした。
「あぁ、紛れもなくエリカだ」幸雄はそう思った。彼女は歯ブラシをしながら歩く癖があるのだ。しかし、彼女がここにいるなら、実験はどうなったのだろう?成功したのか?
由紀夫はもう一つのカプセルの方を見ながら、おもむろに口を開いた。
「ところで、実験はどうな・・・」
由紀夫がそう言いかけた時、ラボの入り口から聞き慣れた金切り声と、どたばたと向かってくる足音が聞こえてきた。
「ちょっと!誰が私の歯ブラシ使ってるの!もう、嫌になっちゃうわ!」
心臓をつかまれたように驚きながら、由紀夫は入り口に目を向けた。
そこには、白いバスローブを纏い、頭には白いタオルを巻いているエリカがいた。
「ごめん、ごめん。私が使ってるの」
パジャマ姿のエリカがそう言った。すると、バスローブ姿のエリカは眉を吊り上げて、怒っているのをアピールするかの様に、腰に両手を当てながらこちらに向かってきた。
「ちょっと、勝手に使わないでよ」
「だって、私のだからいいでしょ?」
「でも、私だって使う予定だったんだから。大体、そのパジャマだって私のなのよ」
「いえ、パジャマも歯ブラシも私のよ。だって私が今使ってるんだから」
「何ですって!生意気な!」
「何よ!文句ある?」
「何よって何よ!」
「何よって、何よって何よ!」
二人のエリカは一瞬触発の状態で向かい合っていた。急にそんな状態に巻き込まれた由紀夫はおろおろしながら二人を見ていたが、今にもつかみ合いになりそうだったので、慌てて仲裁に入った。
「ふ、二人共ちょっと落ち着いて!」
すると、二人は声を揃えて彼に向かって怒鳴り返してきた。
「あなたは黙ってて!」
可哀想に由紀夫は身を縮ませて「はい」と言うしかなかった。二人のエリカはお互いに向き直りと、すぐ手の届くほど近くまで寄り、恐ろしい形相で睨みあった。
「まったく、あなたって見るからにいらいらしてくるわ。まったく、大体何よその・・・あら、シャンプー今日はローズを使ったの?」
パジャマ姿のエリカが急に表情を変えて、バスローブ姿のエリカの頭に鼻を近づけた。
「そうよ。だって、今日はそんな気分だもの」
「いい香りね。ラベンダーよりずっといい」
「あら、そう?私もそう思ったのよ。だから、新しく封切っちゃった。あなたのそのパジャマも素敵よ。パンダのスリッパも可愛いし。あなたによく似合ってるわ!」
「あら、そう。ありがとう!このリボンが可愛いでしょ?新宿で色々探したのよ」
いつの間にか二人のエリカは笑顔になっている。由紀夫はただ二人を眼で追った。
「そうなんだぁ、それってすごくセンスあるわ!私も今すぐ着たいもの!」
とバスローブ姿のエリカ。
「私だって、そのシャンプーの香り素敵に思うわ。すごくいいチョイスしたと思う」
と、パジャマ姿のエリカ。
「あっ、ちょっとあなたの髪の毛触らせて。あぁー、つやつやしてる!コンディショナー何使ってるの?」
パジャマ姿のエリカはそう言って、バスローブ姿のエリカの髪の毛を触った。
「もちろん、あれに決まってるじゃない!」
「あぁ、そうやっぱあれよね!」
「そうよ、あれよ!あれじゃないと」
二人のエリカは意気投合したように両手を合わせると、嬉しそうに声を揃えた。
「やだぁ、私達って気が合うわね!」
そして、口が開けっ放しの由紀夫をその場に残し、仲良く腕を組んでラボラトリーの入り口に歩いていってしまった。
その後姿は本当の姉妹のようである。
「と、とにかく実験は成功のようだ。うん」
由紀夫は嬉しいやら驚いたやらで、複雑な気分になった。なので、気分を落ち着かせるようにシャツの襟を崩すと、重力を取り戻したように、どっしりと深くリクライニングチェアーに腰を下ろした。
「あぁ、びっくりした。二人が詰め寄っていくから、もしかしたら血を見るかと思ったよ。エリカはすぐ引っかくからなぁ。あっ、そうだ!歯ブラシはすぐに買いに行かなきゃな」
そう思って頭をかくと、大きく溜息をついて、また背もたれを倒し天井を見上げた。